報道被害者支援ネットワーク・東海が5月14日、「マスメディア『メルトダウン』 検証原発報道」というシンポジウムを開催した。ゲストに映画監督で作家の森達也氏と中川徹氏を招き、震災発生から現在までの報道の変化をとらえ、これからの報道がどうあるべきかを探るものになった。会場の東生涯学習センターの会議室は満室となり、ざっと数えただけでも70名を超えていた。
既に現地を撮り進めている森氏の話は、報道の立場と限界を示し、正しい報道を実現するためには国民の合意を取り付けることが重要だとした。中川氏の話は、科学者としての目から何を国民に伝えなければならないのかを指摘した。
まず基調報告として、震災発生からこれまでに行われた報道が、国民にどのような意識に与えた影響と、推進と反対双方のせめぎあいが要領よくまとめられた。やはり当初は大本営発表。御用学者を起用しての「冷静に」という。計画停電も原発は不可欠というデモンストレーションだったという。そして「日本人は冷静」という宣伝も行われた。放射能の汚染が判明しても「直ちに身体に影響なし」とし「日本ガンバロー」の国民的コンセンサスを作った。国民的コンセンサスは間違っていないが、政情不安、不況、災害という試練のなかでの「集団化」は、弊害を生む可能性があるとも。
体内被曝隠し、収束できない事故処理、各地でのデモ、政府・東電への不信感の拡大で、4月以降に反原発の機運が顕在化。5月に入り浜岡という妥協策がとられた。
シンポジウムの基本認識は脱原発、反原発であり、マスメディアはどう動いたのかに焦点を当てること。そして現状は福島の深刻な事態は続いている、原発推進の底流は変わっていない、ガンバロー日本という国民的コンセンサスづくりが行われているという認識を新たにした。
真実を公開しない東電と政府、安全地帯から一歩も出ずに取材するマスメディアへの批判は確かにある。新聞社だって私企業だ。広告収入が得られれば原発批判はしにくいから、原発の危険性がわかっていながら「絶対安全」のキャンペーンを紙上で行うこともある。もはやマスコミは官製情報を垂れ流すのみで、真実はインターネットにあるともいえる情勢だ。
森氏は、「今回の原発事故でどうなるか、実はだれもわかっていない」とする。わからないから何を伝えればよいかわからないと。「取材する側の加害性」もある。取材という行為はだれかを傷つけることと森氏自身が常々思っているという。今回も撮影の際に被災者から罵声を浴びせられた。謝りながらも「でも撮ります」と続けた。それでも取材を続けるのは、伝えてほしい、知りたいという要請があるからだろう。使命感なのかもしれない。森氏は、心ある記者やディレクターは、「今回もこうしたうしろめたさや悩みを持ちながら取材しているはず」とする。批判はいくらでもできる。限界を感じながらも根性で報道しようとしながら力及ばないこともあるという、現場のジレンマがあるという印象を受けた。
印象に残ったのは、森氏の話で、ニューヨークタイムズ紙のウォーターゲート事件のスクープのこと。同じ時期に日本では安保密約事件のスクープがあった。ニューヨークタイムズが大統領の汚職というスキャンダルの追及を成功させたのは、国民がそれを支持した力が大きかった。日本の安保密約事件では、記者が社会的に抹殺させられ事件は闇に伏された。民度の違いなのだろうか。森氏は言う。「マスコミを批判することは自分たちを批判すること」。自分たちの知りたいこと伝えてほしいことをマスコミに伝えてもらうよう、声をもっと上げることということなのだろう。
会場から質問が出た。「メディアに国民の声を届けるにはどうしたらいいのですか」森氏は「テレビ局にかかる電話などは、99%苦情なんです。励ましの電話が入ればいいと思う」。
マスコミ、特に一部テレビのレベルの低さにいつもぼやいている。それが自分たちの程度を反映しているといわれたくもない。明らかに視聴者のレベルを下に見すぎているような番組作りに辟易としているが、そうした誤った啓蒙の姿勢が原発報道という重要なものにも出てきてしまっているのではないかと思えてくる。くだらないものは見なければいいのだが、知らなければならない情報だってある。報道の見方を改めて考えさせられた。

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