昭和12(1937年)7月7日七夕の日の午後10時40分ころ、北京郊外の
慮溝橋事件が発端。夜間演習中だった日本のシナ駐屯軍が、突如として実弾射撃を受けた。8日の午前5時ごろ中国軍と、全面的な戦闘状態に入る。
支那事変(日中戦争)
1時は現地軍で収拾案が出されたが、これと入れ違うように、政府は5個師団という大単位の軍隊を派遣するにいたって、強行路線に傾いて行った。東京の作戦本部第1部長の石原莞爾は、日ソ戦争のために力を蓄えておく考えであったが、部下の作戦課長の陸軍大武藤章らの意見を抑えきれず、陸軍首脳部は強硬派にまとまって行く。内地からの部隊の派遣もあり、日本軍は7月28日北京を、29日には天津を占領し華北全域に戦線を拡大した。
8年間にわたる日中全面戦争の始まり。天皇による戦線布告のない戦争で、当初
北支事変と呼ばれたが、戦火が中国大陸全土に及ぶにいたって、
支那事変と呼ばれるようになった。ひいては
4年間の日米、日英戦争という
歴史の厄病神を引きずり出した。
1937(昭和12)年8月13日、戦火は上海まで及び,ここで日本海軍陸戦隊の海軍中尉大山功が射殺されるにいたって、12万の中国軍と全面戦争に入った。日本政府はさらに2個師団を送って、応援した。
8月15日、日本の渡洋爆撃機は上海、南京を空襲した。同じ日、
蒋介石総統は、対日抗戦のため、陸海空軍の総司令官に就任した。
これから
8年後の8月14日まで日本と中国は戦ったのである
そして、同月中ソ不可侵条約を調印し、中国共産党との国共合作も進んだ。
12月13日、日本軍の
南京大虐殺。
1938(昭和13)年1月16日、御前会議の決議にもとづき、近衛首相が
「蒋介石
相手にせず」と重大声明を発表。日本軍の攻撃はますます活発になり、戦線はさらに拡大。日本兵は中国人を「チャンコロ」とさげすんで呼んでいたが、強力な持
久先方を目の当たりにして、そうした呼び方はされなくなった。
1939(昭和14)年、毛沢東が18歳から50歳の民衆を
「人民抗日自衛軍」として組織し、抗日闘争を繰り広げた。
そして、これが中華人民共和国の土台になって行く。
日本軍は点と線「都市と鉄道」を占領したにしても、面「農村」では中国民族の自治が成り立っている状況であり、完全な勝利は容易に達成しがたく、
1945年(昭和20)年、日本が敗北するまで変わることが無かった。。

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