去年の何月だったか、後半だったはずだが、奥付けを見ると(7月7日)となっているので、8月だったろうか、またまた東京帰りの新大阪駅でこの本を買った。
小熊英二・著『1968(上)』(新曜社)
ぶ厚い!1000ページを超す本だ。しかも、まだ(下)がある。
1968年、僕は高校を卒業し、大阪のとある会社に就職した。思い出の多い会社だったが、煩悶ばかりの時間を過ごした。その同時期に、この本が描く‘学生運動’が僕の感情や日常に何ら影響しないで在った。しかし、それは僕の怠惰に過ぎなく、同世代の若者が、僕とは違う視点で煩悶していたのだった。
その後の1971年、僕は大学へ行くことになるが、嵐は既に弱まっており、ただムードとポーズのそれが学内に散在していた。
だが、それ故にあの時代の僕自身の怠慢と中途半端を悔む気持ちがある。
その気持ちだけに後押しされて、この本を買った。6800円。
腰巻にはこうある。
――「あれ」は何だったのか、なぜ起きたのか
――「あの時代」から40年。あの叛乱は何だったのか。時代の政治・経済状況から「全共闘世代」の文化的背景までを検証し、「あの時代」をよみがえらせる。60年安保闘争から日大闘争、安田講堂攻防戦までを描く上巻――
時に飽かせて少しずつ読んだ。半分までもなかなか辿りつかない。なんせ1091ページ!
中身は当時の厖大な資料を丹念に洗い並べたもので、確かに、若者たちの行動自体とその動機が少しでも判るようにと書かれている。
そして、読み続ける僕の目に、突如知っている人の名前が飛び込んできたのだ。同時に、その人の今を知る僕にはその部分が一挙に可視化したのだった。
その時に、では、登場する他の人たちの‘今’を知ることで、「1968」がもう少しは浮き彫りにされるのではないか、僕がうつつに身を流している時、同年代の若者が何故あんなに闘っていたのかがもう少し判るのではないかと思ったのだ。
方法は殆どインターネットに頼った。ウィキぺディアだったり、ブログだったり、只管、その人の名をキーワードに入れてクリック、クリック、クリックである。
しかし、その行為に思うことが無いわけではない。その人たちにすれば、思いもかけないところで、赤の他人にその経歴を覗かれ、あまつさえ小規模なブログとはいえ更なる他人に見せられるべく書かれるわけで、怒りと不快をどうすればいいのかという心境ではなかろうかと案慮する次第で、その不躾と傲慢をここに詫びさせて頂きたい。
さて経歴と書いたが、主に、運動以後に焦点を絞った。どんな生育環境で運動に身を投じることになったのか、彼らの底までの歴史も重要で興味があるが、僕の視点としては、より(あの運動がその後にどう影響したのか)を知りたかったのだ。それは、更に上の懸念を大きくする覗き見主義、もしくは玩弄と言われても仕方が無いものだが、人間の表裏、本質を知りたいという僕の一希求と理解頂いて、お許し願いたい。
と、ここまでが前置き。
では、凡例というか、取り説。
【 】=「1968」に登場する順と名前。名前が登場しても当時学生かそれに近い存在である程度運動に参加していない者は省いた。名前は本名ではない場合もある。尚、意図的な選択はしていない。登場する限り出来るだけ調べて載せた。
≪ ≫=「1968」に名前が乗っているページ数。
――(文章)――=名前を含み、その人の事が出て来る「1968」掲載の文章。
■〜=インターネットで調べ得たその人の経歴。(ひょっとして間違った情報があるやも)
〜=僕の感想等。(だが、これが何だか上から目線で些か気が引ける。でも書きました。悪しからず)
※=更なる僕の雑感。
ではでは、漸く、本日の本編へと参りましょう!
【1】柏崎千枝子(かしわざきちえこ)
≪39P≫
――例えば東大全共闘で「ゲバルトローザ」と異名をとった柏崎千枝子は、当時の手記で「私は、戦後の民主主義の申し子として育った」「両親が語る恐ろしい戦争体験に身をふるわせていた」「憲法を、とくに戦争放棄を規定した九条を、金科玉条のように信奉していた」と書いている――
■東大国際関係論の大学院生で、大学院生の共闘組織・全闘連に参加、「赤いジャンヌダルク」とか、ドイツ共産党の女闘士ローザ・ルクセンブルグに倣って「ゲバルト・ローザ」などと呼ばれ、当時は結構マスコミにももてはやされた。
■その人気を当て込んで、際モノを出版していたノーベル書房が聞き書きにより出版したのが『ゲバルト・ローザの闘争日記』である。
■尚、東大オーケストラにも在籍。担当はバイオリン。
〜インターネットにはほとんど出てこない。現在も生年月日も不明〜
【2】大橋憲三(おおはしけんぞう)
≪39P≫
――やはり東大全共闘の大橋憲三も、後年に「僕は、自分の事を考えても、戦後民主主義の徹底的な落とし子なんです。みんな平等である、戦争は放棄する、世界の皆さんの信義にこたえて生きていくんだ、という信条ですよね」と述べている――
その大橋は、
■1944年、福井県生まれ。東京大学工学系大学院博士課程中退。
■現在は駿台予備学科化学科非常勤講師。高校化学をわかりやすくする会事務局長。元、株式会社ラティオインターナショナル情報システム部長。元・東大教育研究所理事長。元・代々木ゼミナール化学科講師。元・東大進学塾エミール化学科講師。
■とある「カルチェラタン」というブログから
『連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力を尽くさずして挫けることを拒否する。』は、東大全共闘が安田講堂をバリケード封鎖したときに講堂内に書かれていた言葉だそうだ。
俺は高校を卒業してから大学に入るまでの1年間に駿台予備校に通っていたが、講師には東大全共闘で有名だった山本義隆や最首悟の他にも、全共闘に関わっていた人が数名いた。そして、そのひとりで化学の大橋憲三という講師が、最後の授業で黒板にこの言葉を書いた。
彼はその独特な口調で「皆さんがお生まれになっていない1969年1月19日と20日に東京大学安田講堂事件というものが起こりました」と語り始め、「東大全共闘三千とは言うものの、実際に立てこもっていたのは数百人であって、あとは外部隊であったのではないか」と自分も立てこもっていたことを添えていた。
ちなみに、彼はこの言葉を使って、全共闘について語りたかったわけではなく、これから受験シーズンを迎える学生にエールを送ろうとしていたようだ。
■また別の「アマダイ通信」というブログから
◎中国からインドへ
緑の地球ネットワークの高見君に誘われ乾いた中国へ3度植樹の旅をすると、もう一つの人口大国インドへの思いが募る。幸い居候先のソフト会社ラティオインターナショナルの大橋憲三先輩(S38年東大三鷹寮入寮)や同室だった1年先輩の埼玉医大の須田沃氏(S40年入寮)が関係するサマンバヤの会の仲間が、アウトカーストの子供の教育のために里親の形で資金援助をしているインド・ビハール州のサマンバヤ・アシュラムとの交流の旅に行くという。アシュラムとはヒンディー語で「精神修養の場」、サマンバヤは「調和」の意。
〜この人は、他に「九条改憲を許さない共同会議6・15」の呼びかけ人にもなっている。活動のそれぞれに戦後民主主義の落とし子精神を持ち続けている。(上から目線でスイマセン)
※ところで、僕は世の中から無くして欲しいもののひとつに「学習塾」がある。ましてや「東大進学塾」などと冠されたモノは唾棄すべき存在以外の何ものでもない。無論、地方の国立三流大学を除籍になった僕に天下の東大の価値や意義を知ることなどは出来ないのだが、受験地獄を体験して受験を良しとする職業を生業とするのは、僕に言わせれば極論だが、戦争に言って戦争を良かったからお前も行って来いと言うに等しいとさえ思う。極論過ぎて、そう言っている僕が滑稽にも思えるが。大橋氏が何故学習塾の講師に職を得たのか、些かの疑問と興味をもつものだ。いやはや、生業か。
【3】橋本克彦(はしもとかつひこ)
≪40P≫
――日大全共闘の活動家だった橋本克彦は、八六年の回想記でこう述べている。
われわれは戦後体制の出発直後に生まれた第一世代であり、戦後の青空の下で呼吸しながら青春を迎えた大きな群れだった。小学校時代に、「民主主義」、「戦争反対」、「ヒューマニズム」を、降りそそぐ日の光のようにあびて育った。先生たちは、アイロニィではなく、「よく遊び、よく学べ」と明るい目つきでいったものだ〜昭和二〇年代の子供たちが理解したこととは、大人たちが日常で示す素直な歴史への反省、そこににじんでいた悲しみを通しての戦後の理念だったろう。それはすこぶる心にしみる感情に裏打ちされた理念だった〜この前提が、全共闘運動の前提になっている――
■1945年11月8日、宮城県生まれ。
■日本大学芸術学部中退。演劇活動、雑誌記者を経て、フリーのノンフィクション作家に。
■1959年に「線路工手の唄が聞えた」で第15回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。
■その他の著書。
『団塊の肖像―われらの戦後精神史』・日本放送出版協会
『鉄道員物語』・宝島社
『うまいものつくる人びと』・家の光協会
『欲望の迷宮新宿歌舞伎町』・筑摩書房
『オリンピックに奪われた命―円谷幸吉、三十年目の新証言』・小学館
『農が壊れる―われらの心もまた』・講談社
『森に訊け』・講談社
『日本鉄道物語』・講談社
『バリケードを吹きぬけた風―日大全共闘芸闘委の軌跡』・朝日新聞出版
〜橋本克彦の名前はご存知の方もおられるだろうし、『1968』でも多出する。それだけ学生運動に深く関わっていたということでもあろう。そして彼の著作を読めば、あの時に何を思い、どうして今に至ったかが分かるはずだが、その追跡はしない。思い立った方がおられたら是非にも。因みに僕はこの人の著書の中では『欲望の迷宮・・・』を持っている〜
【4】七字英輔(しちじえいすけ)
≪41P≫
――やはり67年に大学生だった七字英輔も、ある中学教師の例を上げている。その教師は自己の戦争体験を語り、「我利我利亡者にはなるな」と説き、「広島に原爆が落ちた時、日本人たちが我先にと他人を突き飛ばしたり、置き去りにして逃げまどっている間、動けない人を肩に負って、歌を唄いはげましあいながら整然と行進していたのが、日頃彼らが軽蔑していた朝鮮人たちであった」というエピソードを授業で教えた。七字は、「社会正義とは何か、ということも実は彼から学んだような気がする」と述べている――
■1946年、大分県生まれ。
■月刊『ローリングストーン日本版』、季刊『is』(ポーラ文化研究所)各編集長などを経て、1988年に演劇に寄与する為の会社(株)テスピス設立。82年頃より各紙誌に演劇批評を執筆。
■86年〜96年:前橋芸術祭総合プロデューサー。92年:劇団木花(韓国)を招聘。96年:ウジェーヌ・イヨネスコ劇場(モルドヴァ)初招聘、東京公演を主催。
■94年からルーマニア演劇界と親交を持ち、96年以降、毎年のシビウ国際演劇祭(ルーマニア)、隔年開催のキシニョフ国際演劇祭(BITEI)に日本の劇団を推薦、窓口役を果たしている。
■平成18年、文化庁国際芸術支援事業における演劇「赤い鳥の居る風景」(作・別役実、演出・K・KIYAMA)の解説から。
解説 - 作品に隠された多くのシンボリズム -
この物語が何を表しているのか、定かな説はない。しかし、演出の K.KIYAMA は、姉弟が背負う「借金」は、戦後の日本が朝鮮に対し抱える「借り」であり、姉弟は、「許し」を得るための義務に服する若い世代の象徴である、という見解を持っている。「盲目の女」の借金返済を貫き通す頑なまでの姿勢は、事なかれ主義で静かな生活を望む町の人々にとって 危険な赤いシグナルであり、彼女自身が 「赤い鳥」に他ならない。「委員会」は、繁栄の代価として理念が欠落した社会を、「旅行者」にぎこちなく接する「両親」は、戦争に加担した自責の念を抱えながら戦後の民主主義社会で生きる日本人を表している。当作品は、昨年の「日韓友情年2005」の祝賀イベントとして、ソウルで上演された。この時、演劇評論家の七字英輔氏は次のように述べている。「戦時中に徴用され、虐待された朝鮮人に対し、日本人はまだ充分に責任を取っていない、という作者(別役実)の苦い思いがあろう。(中略)別役は実に40年近くも前に予言していたのだ、ということを改めて知った。(演出家・プロデューサーの)木山氏が『この作品で韓国公演を』というのが腑に落ちた瞬間だった」。
〜この人は『1968』に何度か登場するが、果たしてどの程度、学生運動に身を呈していたかは不明だ。学生時代から演劇をやり、そのままその世界にと言うことが一番考えられる〜
【5】宮崎学(みやざきまなぶ)
≪60P≫
――また一方で若者たちには、ベトナム戦争は別の意味をもってうけとめられた。早大の活動家だった宮崎学は、1968年という時代を、96年の回想記でこう回顧している。
猥雑で混沌とはしていたが、大波に押し上げられるような高揚感があった。こうした時代の有様に決定的な影響を与えていたのがベトナム戦争だった。
(中略)アメリカがベトナム戦争に本格的に突入した時点でベトナムの勝利を予見した人は世界で一人としていなかったはずだ。解放戦線と北ベトナムはたちどころに叩きつぶされると誰もが考えていた。ところが、片々たるアジアの小国の小銃を手にしただけのゲリラが五分の戦いを演じた。これはあり得ないことであった。
(中略)アジアの一隅で生起する奇跡に世界は茫然とし、やがて熱烈な拍手を送り始めた。日本人の多くも、戦うベトナムに熱いエールを送った。(中略)ベトナムの戦いは世界の構造が大きく変化する証のように映った――
その彼は、
■1945年10月25日、京都に生まれる。
■父は京都伏見のヤクザ寺村組の初代組長、母は博徒の娘であった。
■京都の名門・洛星中学校に入学したが、喧嘩が原因で退学[9]
■1960年、15歳のとき、京大民青で元山村工作隊の指導者だった家庭教師に誘われて行った、10万人が参加した円山公園での安保闘争デモに触発され、18歳で共産党に入党。
■1965年早稲田大学入学。学生運動に没入。
■1966年、大規模な無期限ストライキに発展した早大闘争に参加、また共産党系の秘密ゲバルト組織・あかつき行動隊の隊長に就任し、東大闘争で全共闘と対立。
■1969年早稲田大学卒業式ボイコットを企画・実行し、それが共産党中央の逆鱗に触れ除名。「もう多数派形成ゲームに乗るのはよそう。生涯一少数派でいいじゃないか。もう群れるのはよそう」「抽象的な観念に寄りかかって生きるのはよそう。どろどろした具体的な人間関係の中で肉感的に生きて行こう」などと漠然と考えていた」と後年述べている。
■1970年、週刊誌『週刊現代』のフリー記者(いわゆるトップ屋)となる。
■1975年、京都府内の家業の解体業「寺村建産」を継承して経営したが、ゼネコンへの企業恐喝容疑により指名手配され、1980年、京都府警に出頭・逮捕される。この件により金融機関の信用を失い、取引を停止されて倒産、25億円もの負債を抱える。
■1984年、グリコ・森永事件の際には「キツネ目の男」と酷似していたことなどから最重要参考人として事情聴取を受けるが、アリバイがあったために逮捕を免れる。
■1996年、『突破者』出版。ベストセラーとなる。
■1999年、2001年までの時限政党として、通信傍受法廃止を目的に政治団体「電脳突破党」を結党。自ら総裁となる。
■2001年の第19回参院選では、新党・自由と希望の公認を受け比例代表区より出馬。結果は落選し、同年8月15日に予定通り突破党を解党した。
■2006年9月、経済学者植草一秀が痴漢容疑で逮捕された際に擁護声明を出す。
■2007年、『警察の闇 愛知県警の罪』を出版。
■2009年7月、「自民党千葉県第10選挙区支部」や藤井孝男自民党参議院議員の資金管理団体「藤井孝男後援会」に西松建設が献金したことについて、「民主党の小沢一郎前代表側への献金事件と同じ構図で起訴されるべきだ」として、国沢幹雄元社長を政治資金規正法違反容疑で東京地検に告発した。
〜ご存知の方も多いはず。学生時代を凌駕する、本能的な闘いを続行中である。(と僕などが言えるものではないが)
【6】山本義隆(やまもとよしたか)
≪62P≫
――東大全共闘議長だった山本義隆も、2005年に「サンダルばきのベトナムの兵士が最新鋭の装備を備えた圧倒的な米軍の軍事力と互角に戦っているという事実が、世界の反戦闘争と1968年の世界的な学生叛乱に与えた影響はきわめて大きかったと思う」と述べている――
と言う山本義隆は、
■1941年、大阪府生まれ。東京大学大学院博士課程中退。1960年(昭35)東京大学理科1類入学。64年理学部卒業後、同大学院で素粒子論を専攻、京都大学基礎物理学研究所に国内留学する。
■1967年、日本物理学会臨時総会は、「日本物理学会は今後内外を問わず、一切の軍隊からの援助、その他一切の協力関係をもたない」ことを決議した。この決議は、その後28年間にわたって日本物理学会総会のプログラム第1ページに掲げられ、山本はこの総会で、水戸巌(いわお)(1933―87)、小出昭一郎(1927― )、槌田敦(つちだあつし)(1933― )らとともに、中心的な役割を演じた。
■1969年、全国全共闘連合が結成され、山本を議長に、日本大学の秋田明大(あけひろ)を副議長に選出する。しかし、同日、東大安田講堂事件の首謀者として指名手配され、翌年逮捕される。
■その後、全共闘運動が停滞して組織が解体した後も、東大全学臨時職員雇用問題を巡る闘争の過程で山本は数少ない活動家の一人として最後まで係わった。
■学生運動から退いた後は学校法人駿台(すんだい)予備校に勤務し、一物理学徒、科学史家として研究生活に専念する。
■70年安保闘争・全共闘運動の退潮と共に、多くの活動家が大学に復帰するなか、山本は大学に戻らず、教育の矛盾の結節点ともいうべき大学予備校の教師となる。自らも物理学者、科学史家としての研究を続け、独自の論点=遠隔作用」と綿密な文献考証によって画期的な力学通史『磁力と重力の発見』(2003)を発表し、同書で毎日出版文化賞、大仏(おさらぎ)次郎賞、パピルス賞(財団法人関科学技術振興記念財団創設)を受賞した。そのほかの著書には『知性の反乱』(1969)、『熱学思想の史的展開』(1987)、『古典力学の形成』(1997)、『解析力学』(1998。共著)などがあり、ボーアやカッシーラーの翻訳書もある。
〜山本義隆、当時の学生で秋田明大と並び、この人の名を知らない人はいるまい。僕自身が学生だった1971年当時でさえ、戦乱の先頭に、貧しい人々と共に立つ反乱軍の若武者のようにヒーローじみた噂が聞えて来たものだ。
〜山本は『朝日ジャーナル』1969年3月2日号でこう言っている。「デモから帰ると平和な研究室があり、研究できるというのはたまらない欺瞞である。研究室と街頭の亀裂は両者を往復しても埋められない。では研究をやめるべきか。それは矛盾の止揚ではなく、矛盾からの逃避ではないか。徹底した批判的原理に基づいて自己の日常的存在を検証し、普遍的な認識に立ち返る努力をすること。そうして得られた認識に従って、社会に寄生し、労働者階級に敵対している自己を否定し、そこから社会的変革を実践する」
〜そして、2007年に至っても、『十六世紀文化革命・全三巻』をみすず書房より刊行している。革命にせよ、学問にせよ、或いは人生、或いは恋愛にせよ、必ず水平以下に視線を保つ「徒」である人だ。
【7】加藤倫教(かとうみちのり)
≪67P≫
――のちに連合赤軍に参加した加藤倫教は、三人兄弟がそろって連合赤軍に参加した。彼らの父親は、上昇志向の強い元地主の小学校教諭で、息子たちを受験勉強にかりたてていた。加藤倫教は、回想記でこう述べている。
「父の生き方に対する反発、それにオーバーラップする物質的な経済の発展と欲望充足に奔走する戦後日本社会への反感、そしてベトナム戦争に反対する気持ち――それは三人〔兄弟〕が共通して抱いていた思いだった。(中略)絶対的な価値観をもって目の前に存在した父の対極にあると感じられたのが、共産主義という価値観だった。共産主義者になることで、私たちは自らの『居場所』を得ようとしていたのだと思う」――
その加藤倫教は、
■1952年、愛知県刈谷市生まれ。東海高校在学中に長兄加藤能敬の影響で中京安保共闘に入った。卒業直後、爆発物所持で逮捕される。
■1972年、山岳ベース事件で長兄が殺された時、弟の加藤元久と逃げだそうとしたが果たせず逃亡の最中、あさま山荘に立て篭もり警察と9日間に渡る銃撃戦を行う(あさま山荘事件)。
■1983年2月に懲役13年の刑が確定し、三重刑務所で服役。1987年1月仮釈放。
■現在は実家の農業を継ぎ、また野生動物・自然環境保護の団体(日本野鳥の会愛知県支部、カキ礁研究会)でも理事を務めている。
〜連合赤軍とは、1971年、共産主義者同盟赤軍派と日本共産党左派神奈川県委員会(京浜安保共闘)が利害関係の一致から統合され、同年7月15日に生まれた組織である。
〜中央委員会の委員長が森恒夫、副委員長が永田洋子、書記長坂口弘、その他の委員、寺岡恒一、板東國男、山田孝、吉野雅邦であったが、実際は森と永田の独裁体制であった。
〜彼らが起こした事件の中で特筆されるべきは、「山岳べ―ス事件」と「あさま山荘事件」であろう。前者は、「総括」と言う名の下、集団リンチにより12名を殺害したもので、後者は、ある企業(河合楽器)の慰安施設を占拠した籠城事件で、武装した彼らは9日間にわたり警察、機動隊と対峙、銃撃にまで至った。この模様はテレビで中継され、社会に強烈な衝撃を与えた。
〜尚、加藤倫教の兄、加藤能敬(よしたか・1949年生まれ)はその「総括」の中で殺害されている。
〜そして、小学校教諭だった父は事件後辞職している。
〜現在、坂口弘と永田洋子は死刑囚として獄中にあり、板東國男は1975年のクアラルンプール事件の際に超法規的措置により国外脱出、現在も国際指名手配中である。森恒夫は1973年元旦、獄中で縊死した。
〜あの時の闘争の暗部と患部をもろともに体験したひとりである。そして幸いにも生還したひとりでもある。あの現実が彼の今にどう繋がっているのだろう。
【8】水田ふう(みずたふう)
≪68P≫
――米子で小田(実)の文章を読んで「米子ベ平連」を作った当時19歳の女子学生だった水田ふうは、96年にこう回想している。
「1947年生れのわたしは、いわば戦後民主主義の申し子みたいな世代で・・・・『わたしはどんなことがあっても戦争に反対するぞ!』と心に決めて大きくなった。(そんな『戦後民主主義教育』のおかげで、『みんなで反対したら、戦争は止められる!』と、ずっと固く信じていた)」。「小田実の『加害者の論理、被害者の論理』(だっけ?)という文章を読んでガク然とした。『エッ、私が加害者!』『何とかせんといけん。何とかせんといけん』(これ米子弁)と思った。もうじっとしとれんはった」――
●今回このブログを書くことにした原因はこの人だった。この人の名前を見て驚き、何故か嬉しかった。と言うのもこの人とは些か交流があるのだ。
●その端緒は、23年前の1987年、僕は「死刑」をテーマにした芝居(90分ほど)をやろうとしていた。公演日は5月15、16日。タイトルは『君は我が運命』(きみはわがさだめ)。因みにこの‘君’は天皇裕仁のことだ。実は、この芝居はその年の3月20日の夜に一旦幕を開けたのだが、開演5分、僕が不慮の怪我を追い、途中閉幕という憂き目を経ての再演だった。
●その時、集客に不安だった僕は、何かで調べて「かたつむりの会」という死刑反対グループの存在を知り、「死刑がテーマの芝居をやりますのでよろしかったらおいで下さい」と手紙を出したのだ。
●そして当日4、5人(?)の方が来てくれて、その中に彼女がいたのだ。以来、彼女とは2回の「死刑反対イベント」などもあったりして、それなりの交流(と僕は思っている)を保持している。
〜重複するが、今回、この小熊英二の『1968年』を読み始めて、早々に彼女の名前を見つけた時、十代の彼女が彷彿とし、「そうだったのか。いや、やはり、そうだったのだ」とひとり得心したのだった。
〜僕より2歳年上の彼女は、今、犬山で独居し、柔軟で健穏なアナーキストとして日々思索、行動している。その思想は恐らく、19歳の時の「何とかせんといけん」という思いを根底に今日まで続く、変わることのない純真な苦悩であろう。
〜そんな思いが、「あの頃あんなに闘っていた人たちは今、何を闘っているのだろう?」と言う思いに繋がり、ふとこんなこと(今回のブログ)に精出すことになったのだ。
〜彼女はあれからずっとやっている。『風』という個人誌を出し、『かたつむりの会』を動かし、アムネスティインターナショナルの『死刑と人権』誌に関わり、ブログ『おさきまっくろ』に参加。そして『エエジャナイカ、花のゲリラ戦記』(径書房)、『今、立ち止まって死刑を考えてみませんか』(共著・アットワークス)などの本を出版。死刑、戦争、ダム、何よりあらゆる暴力にNoを言い続け、行動している。
〜そんな彼女のある日が『週刊金曜日』の「金曜アンテナ」というサイトに乗っていたので転用させて頂く。無断です。すいません。
【大阪で死刑廃止デモに200人!】
世界死刑廃止デー(10月10日)にちなみ、死刑確定囚(9月10日当時)の数に合わせて105までの「番号札」を下げ死刑廃止を訴える「殺すな!!105人デモ」が12日、大阪市内であった。デモ隊は「絞首台」にも見えるサウンドカーを先頭に若者の集まるミナミのアメリカ村などを歩き、沿道に訴えた。
今回のデモは、鳩山邦夫元法相のもと、7カ月間で13人が執行されるなど死刑の日常化が進む社会に危機感を抱き、市民団体「かたつむりの会」が主催した。目の前を歩く「105人」を見て、命を奪うことの重みを実感してもらうのが狙い。実際には200人が参加した。
「法務大臣」のたすきをかけた同会の水田ふうさんが「死刑囚の皆さん、囚われの身で運動不足になっているでしょう。自分のペースで歩いて下さい」と笑いを交えながら音頭を取り、鳴り物も賑やかにデモ隊が出発した。
0歳と3歳の子どもを連れ家族4人で歩いた30代女性は「裁判員制度を前に、自分が死刑を選んでしまっていいのか悩んでいる。是非を考えたくて参加した」、連続企業爆破事件の大道寺将司死刑囚と文通する女性は「(この人は)生きる資格がない、と決めるのであれば、死刑を下した裁判員は執行に立ち会うくらいの覚悟をもってほしい。罪をどう償うのかは、時間をかけ社会全体で考えるしかないのでは」と話した。
水田さんは「死刑は、この国に住む全員に向けられた刑罰。生きる権利と人を殺さない権利、この二つで人権が成り立つ。死刑を廃止してこそ、自分たちの生存権が保障されることを(賛成の人も)考えてほしい」と訴えた。
山本柚・ライター
〜そして、そんな彼女の日常を支えているであろう何かが知れる彼女自身の文章が、『自由のための「不定期便」』と言うブログの2005年1月21日に見える。タイトルは「海と坐り込み」。これも無断転載です。すいません。
『まだ沖縄が米軍の占領地(まあ今だってそうやけど)で、行くのにパスポートが要った時代の 1970年2月、わたし(水田)は沖縄に行くために一人船に乗った。その頃は各地で沖縄返還闘争のデモや集会がいっぱいあった時やから、船中で出会った知り合いからそのためにいくの?(彼はもちろんそのための渡航やった)って聞かれて返事につまってしまったけど、わたしが沖縄にいったのは、ぜんぜんちがうことでやった。
いきさつははしょるけど、神田先生と呼んでた、神道の断食の先生と知り合いになって、その神田先生から沖縄の神がかりの巫女さんのはなしや、集団自決して死んだ人の骨がそのままになってるたくさんの鍾乳洞のはなしや、いろんな話を聞いたんやけど、わたしがいちばん惹かれたんはそこの海のはなしやった。
「さんご礁の海が引き潮になって、ずうーっと水平線まで潮がひいてくとその後には無数の水溜りができるんや。その水溜りには逃げ遅れた魚がピチャピチャ跳ねてる。手でつかめるぞ。
それがこんどは、満ち潮になると、水平線まで引いてた潮が沖から浜にむかって満ちてくる……と思うやろ。ところがちがうんや」
「満ち潮どきになると、あちこちで無数の水溜りと水溜りがピチッピチッとくっつきはじめるんや。その無数の水溜りがどんどんどんどんあちこちで大きくなって、その大きくなった水溜りが、しまいに沖の潮を引っ張ってきて浜まで満ちてくるんや。」と神田先生は云うねん。
わたしはこの話がすごく気に入って、どうしても見に行きとなった。それで沖縄に行ったんや。
時期がわるかったんか、神田先生にきいた話の海をみることはでけへんかった。でも時間がたつと、なんだか実際に見たような気になって、この話を思い出すんや。
スマコのように思って、何かやりたい人があちこちに、てんでにばらばらに勝手に行動を起こし始めたら、初めはそれぞれ何の連絡も繋がりもみえへんけど、引き潮の時の無数の水溜りのように、時期がきたら、無数の水溜りと水溜りがプチップチッとくっいていくように大きな水溜りができるんや。そして、いつか、きっと……潮が満ちてく……』
※そんな彼女は2003年9月、最愛の共同生活者・詩人・アナーキスト・非暴力反戦活動家・向井考を亡くし、更に一作年乳癌の手術を受けた。敢えて言うなら多くの人に起こり得る体験ではある。それらの一部についてはメールで少々のやり取りをしたが、今度会った時には、米子時代のことを聞いてみようと思う。但し、それに匹敵するような田舎時代の僕の話は無いのだが・・・・
と、ここまで8人について書いてきたが、もう潮時だろう。というのも、まだまだ登場人物はいるわけで、ここまで70ページで8人だから、このままいくと、残り約1000ページで約110人!書き切れるものでもない。
だが、この作業によって、僕自身は「1968」の理解を深めることができたし、「読み終えれるかな?ましてや(下)にまで手を出せるか」と思っていたが、この作業をやりながらせめて(上)を読み終えようと思っている。出来れば(下)まで・・・・・
因みに、この後出て来る人びとは、
「高野悦子」〜立命館大学全共闘シンパ学生
「重房信子」〜のちに赤軍派女性活動派
「永田洋子」〜のちに連合赤軍の指導者
「小坂修平」〜1947年生まれで東大全共闘に参加
「橋爪大三郎」〜東大全共闘
「道浦母都子」〜60年代に早大生だった歌人
「渋沢陽一」〜1951年の生まれの音楽評論家
「上野千鶴子」〜京大全共闘
「吉田和明」〜
「四方田犬彦」〜当時高校生
「三上治」〜ブントの活動家
「西井一夫」〜若手活動家のひとり
「山之内正彦」〜東大全共闘中核メンバー
「田村正敏」〜日大文理学部闘争委員長
「山口文憲」〜1947年生まれでベ平連の活動家
「高橋源一郎」〜1950年生まれの若手活動家
「大窪一志」〜民青の活動家
「内田雅敏」〜60年代に早大の活動家
「荒岱介」〜社学同の活動家
「伊藤公雄」〜(社会学者)
「植垣康博」〜弘前大全共闘・連合赤軍
「大槻節子」〜連合赤軍の中堅活動家
「鈴木貞美」〜東大全共闘
「名倉将博」〜日大全共闘
「秋田明大」〜日大全共闘議長
「大原紀美子」〜東大全共闘
「最首悟」〜東大闘争で助手共闘のメンバー
「奥浩平」〜中核派
「鈴木博雄」〜(教育学者)
「塩見孝也」〜ブント・赤軍派議長
「川上徹」〜民青中央常任委員
「坂本龍一」〜新宿高校封鎖に参加
「糸井重里」〜法政大全共闘
「神津陽」〜中大社学同
聞き知った名前も散見するが、僕は現在585ページに差し掛かったところ。後半分だ。
さて、こうなるとこの本の著者についても書かねばならないだろう。
【9】小熊英二(おぐまえいじ)
■1962年9月6日、東京都 生まれ。社会学者。専攻は歴史社会学・相関社会科学(社会学・歴史学・国際関係論)。博士 (学術)。音楽(ギター)活動も行い、オリジナルアルバムも出している。
■名古屋大学理学部物理学科を中退し、東京大学へ入学。
■1987年、岩波書店に入社。雑誌『世界』編集部に在籍したが、営業部へ異動になった後に休職して、東京大学大学院総合文化研究科に在学し、1995年に修士課程を1998年に博士課程を修了した。
■1997年、慶應義塾大学総合政策学部専任講師となり、2000年に助教授(准教授)に昇格。2007年より教授。
■父である小熊謙二はシベリア抑留を受け、1948年8月に日本へ帰国。その後、元日本兵の朝鮮系中国人が日本国政府を相手取ってシベリア抑留の戦後補償を求める訴訟の共同原告となっている。
■著書の一部、
•『単一民族神話の起源――<日本人>の自画像の系譜』(新曜社, 1995年)
•『<日本人>の境界――沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮:植民地支配から復帰運動まで』(新曜社, 1998年)
•『インド日記――牛とコンピュータの国から』(新曜社, 2000年)
•『<民主>と<愛国>――戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社, 2002年)
•『清水幾太郎――ある戦後知識人の軌跡』(御茶の水書房, 2003年)
•『市民と武装――アメリカ合衆国における戦争と銃規制』(慶應義塾大学出版会, 2004年)
•『日本という国――よりみちパンセ』(理論社, 2006年)
•『1968<上>若者たちの叛乱とその背景』(新曜社, 2009年)
•『1968<下>叛乱の終焉とその遺産』(新曜社, 2009年)
さて、最後に、水田ふうのところで触れた、向井考の言葉を敬意と感嘆をもって掲げよう。
――〈運動〉とは、単純にいうて、〈エネルギー〉の空間的時間的〈変化〉、即ち〈移動〉と〈転換〉であり、その、自分にとっての意味ということやろか。
たとえば〈シーソーゲーム〉になぞらえてみると――それは「支点にささえられて左右に伸びた板の先端にある重心の〈移動と転換〉、〈上下の反復〉、〈緩急の変化〉によってつくられる「運動」、つまり自分が、相手あるいは仲間との関係で動く面白さの意味ということや。
この観点で改めて「運動」を見直すと、視野が一変して、まるで価値観が転倒することに気付くやろ。
つまり、いままでは自分と同じでないことにおいて対立する存在だった相手が、自分との対峙において、実にシーソーの相手のような絶対不可欠で相互補完的関係として、つまり運動の仲間としてはっきり見えてくる――というこっちゃ。
さらにいえば、そのような〈相互補完的〉対峙こそが、運動を活性化する〈エネルギー〉となるものであり、多面化したひろがりと深まりを保証するものであり、それこそ、言いかえれば〈自由連合〉の力というものに他ならない――
・・・・・この発想の転換を世界が持ちうるか否か?

4