M−1決勝が終わった。最終的な勝利者は僕には予想外のふたりであった。
ところで、このブログが嘗てなく沸騰している。一日のアクセス数5万件超!1年掛って漸く6万件だったのに、いやはや。最大値は既に経過したが、その原因は、僕が4239組の頂点に立った「サンドウイッチマン」に対し、(このままでは、僕には彼らの栄光は見えてこない)と書いたこともあるが、先ずはM−1それ自体が大きくなり、芸人に対し大きな影響力を持つようになったことが第一であろう。
そして、当然のようにコメントも増えた。現在は事務局判断で閉鎖しているが、そこには罵倒や怒声や疑問が轟然としている。
「日本人、どんだけお笑い好きやねん!」でもあるが、高がお笑いと言う勿れでもある。一般の、所謂素人の方々の生活と心情の中にお笑いが確実に浸透し、ファンがお笑いを楽しみ、望み、愛し、お笑いが彼らにとって重要で必要なものになった証左であると考える。
だが、僕はそれ以上だ。そんな事で済まされない。当たり前だ、それでメシを食おうとし、辛うじてだが、ここまでメシを食って来たからだ。
僕はお笑いを、愛し、負い、憂い、頼み、励み、悩み、考え、選り、唱え、謡い、組み、敬い、服し、穿ち、企み、噛み、責め、練り、冒し、壊し、潰し、仕り、涙し、私し、耕し、そして作り、造り、創る。
その分、コメントに書き込む者達には必要のない責務を感じているが故に、ここにコメントする。
僕は「M−1(予選)」だけでなく、例えばこの処では「ABCお笑い新人グランプリ(予選)」なども審査員を依頼されその任に当たって来た。その時僕の最大評価点は‘笑いの量’ではない。
微力で非力だが僕もお笑いを作る側の人間だ、僕が最も価値を認める笑いとは、‘自己主張している’ことだ。それは内容と形式において表現される。
内容においては、漫才やコントの素材と、それに対する切り口、視点、アプローチが個性的で、嘗て無い方法であること。
形式においては、そのやり方、演出、見せ方が、同様に個性的で、嘗て無い方法であること。その二点に依拠して僕は審査をさせて頂く。寒イのはダメだが、例え笑いが無くても僕が面白ければ評価は高い。
その実例を上げるなら、(内容)では平成ノブシコブシ、POISONGIRLBAND、はだか電球、千鳥、ピース、ジャルジャル・・・。(形式)では笑い飯と敢えてだがプラン9・・・と言ったところである。無論彼らは寒くはない。
大雑把に言うと、準決勝組の範囲ではこれ以外の人たちの漫才はこれまでにあった普通の漫才の域を出ていないと僕は考察する。ただこの線引きは曖昧で、これ以外は箸にも棒にもかからないというような事ではないし、これ以外に自己主張しているコンビはいないという訳ではない。無論ネタにもよる。準決勝のネタはそうであったが、他の舞台ではもっと画期的な事をやっているのかもしれない。そこんとこはご了解願いたい。
そうなのだ、画期的、これが重要なのだ。その原動力は現状への不満からくる。「なんでそんな面白ない漫才やっとんねん!」「漫才、舐めてるやろ!」「俺がもっと面白い漫才やったる!」「俺達が漫才変えたる!」現状を打破し、改革する意志と力。それこそが、自分だけの笑いを作ろうとする自己主張なのだ。
しかも、それは若者の特権だ。
だが言っておく、その下地には漫才への敬意が無ければならない。歴史が証明するように無闇な革命は迷惑なだけだ。
何故か。漫才の道は既にあった。それがあったから、そしてその道が魅力的で、価値があると思えたからこの道に入った。
だがその道は先達が作ったものだ。自分達が今日や昨日作ったものではない。そのお陰で、それに人生を賭け、夢を追っていられる。その事に気付かず、その事に感謝しない者は亡国ならぬ、亡芸の民、芸を亡ぼす者だ。その有り難味を感じるなら、その道を必死に生きる事だけでなく、次に続く者により良いものにして渡す義務がある。
漫才をやるとは、仕事を選ぶとはそういうことだ。自分が選んだ道だからと勝手に、何をやってもいいものではないのだ。
更に、既に在るものをそのままやっている者は、その道とそれを作って来た人達に失礼である事を知るべきだ。
そういう考えの元、僕は漫才を、お笑いを見る。それは審査というある一面、一日、一瞬、一会の話だけではない。
ところで審査は必ずと言ってよく複数だ。それは僕みたいなのがいるからだ。いや、お笑い作家なんて全員それくらいの思いと、或いはもっと独自な覚悟を持ってやっている。だから、何人かが見て全員の納得度合が一番高いところで結論を出している。審査の精度を上げる為に他ならない。
しかし、それでもファンや観客全員を満足させる判定など出せやしない。誰からも文句の出ない結果なんて、ドイツ第三帝国でも、北朝鮮でも、アレフでも、光市母子殺害事件弁護団内でも無理だ。
もしそれでも、もっと正しく公正な審査をと言うなら、準決勝だけではなく、いや、準決勝だけで気が済む人がいるならそれでも僕は構わないが、現在の全ての審査員を排除し、笑いのあらゆることに関し、完璧な客観性を持った人を登用するしかない。
例えば、松本人志のトカゲのおっさんと中田カウス・ボタンの漫才と思うように動かない車椅子に(チャップリン的にではあるが)翻弄される障害者・・・と、全く異質な笑いの質と量を相対的ではなく、誰もが文句のない数値として、まるで走り幅跳びの記録のように表示できる人間にそれを任せるしかない。笑いの絶対音感である。無論、不可能だ。笑いは数値化もできないし、「何を笑うかでその人が判る」とフランスの諺が言うように、笑いは極めて個別的なのだ。
そういう偶然と科学が半ばする現実の中で、M−1準決勝は推移し、僕達は芸人さんへの敬意と芸への真摯さをもって決勝へ進むべき8人を決めた。そこには同時にM−1という大きなイベントの審査に携わらせてもらっているという喜びもあるが、お笑い作家の誇りとお笑いへの愛を忘れる事はない。
ところで、つい今しがた、『K−1Dynamite2007』を見終わった。
船木誠勝はかっこ良く、魔裟斗は強く、西島洋介は悔しく、ミノワマンは惜しく、三崎も秋山も激しく、ヒョードルは相変わらず神だった。
それらの華々しいカードの中に「K−1甲子園」なるものが登場した。Under18の選ばれし若き4人による日本一決定トーナメントだ。その背景には、PRIDEは消滅したもののこの10年来の選手、及び関係者の努力による日本での格闘技の盛り上がり、人気増大がある。
つまり、K−1とM−1、格闘技と漫才は共にここへ来て全国規模で若い人達の輩出を成し遂げているということだ。
因みに、今夜のトーナメントに出た若者はHIROYA(15)、才賀紀左衛門(18)、久保賢司(16)、雄大(18)という4人。
さて、何故急にK−1の話なのかである。
実は、そのトーナメントの決勝で今回のM−1に対する僕の思いと同じ言葉が聞かれたからだ。それもふたりから。
それは、決勝に進んだHIROYA(魔裟斗が認めた天才)と雄大(リトル超合筋)の闘いの最中だった。若い二人は全力で闘っていた筈だったのだが、3ラウンドが開始されようとした時、先ずレフリーの角田信明氏が二人にこう(いう趣旨の事を)言ったのだ、「このままではダメだ。最終ラウンドもっと積極的に攻め合わないと、二人とも失格にするぞ」と。
更にそのラウンド中、今度は解説の元ボクシング世界チャンピオンの畑山隆則氏が彼らの試合に、「上手いけど、若さが無い」と評したのだ。
角田氏のそれは恐らく異例のことであろう。レフリーが試合中に叱咤激励の警告を発するなんて。そこまで決してのらりくらりとした試合ではなかったのだが、角田氏はこれからK−1を背負っていく若者の試合としては認め難かったのだろう。それは角田氏の彼らへの期待そのものであり、格闘技への彼の愛の表れでもあろう。
そして、畑山氏の思いは「上手くなくても良い、若者らしい闘いを」という事である。
傲慢と言われるかもしれないが、おふたりのその言葉と思いは僕が漫才に、そして若き漫才師に思うものと全く同じだ。
「今、若い君たちがそんな漫才をやっていてどうする!」
そんな中、2007年のM−1は「サンドウイッチマン」「キングコング」「トータルテンボス」の3組が最終決戦に臨み、ご承知の如く「サンドウイッチマン」が頂点に立った。
さて、ここからは笑止と言われようとも‘泣いて馬謖を斬る’思いと‘虎の尾を踏む’覚悟で書く。
前述した事から分かって頂けるだろうか、僕が漫才(お笑い)に望むこと(=お笑い幻想)からすれば、この三組の漫才は僕を満足さてはくれない。
要するに、この三組は(現状肯定派)であるからだ。「それが何故悪い!」、或いは「彼らはそうではない!」という意見はあろうが、その人と僕とでは現状認識が違う・・・それは縷々述べてきた。
しかし、僕が何と言おうと、結果はああ出た。
何故だと僕は思う。
紳助さんもそうだった、旧来の漫才に叛旗を翻して、それまでには無かった、自分の感性をぶつける漫才を作って突っ走った。ツッパリ漫才と言われた。同時代の若手が相変わらずネタネタした漫才をやっているのを尻目に時代を疾走した。
松ちゃんもそうだ、何の衒いもなく自分の笑いを実現したら強烈な個性の漫才になった。先輩諸氏がやっている陽気な漫才にならなかった。それはそれまでの漫才に追従でき得ない疑問、否定があったからこそ生まれたのだ。以来今日までダウンタウンのエピゴーネンは後を絶たない。
そして、カウス師匠もそうだ。初めてT−シャツ、Gパンでなんば花月の舞台に立ち、論議を醸し、だがブームを作り、漫才界初のアイドル的存在となった。後年その辺りの経緯を聞く機会を得たが、例えば、相方にボタン師匠を選んだことも含め、その裏には明快な改革意識があったのだ。
そんな人達が審査員だったのに何故!
僕の目には、あの9組の中に漫才の現状にいらいらし、現状を否定し、そして意図的な漫才を見せつけたコンビは確かにいたのに・・・・・
結局、そうした意図的な漫才をやった彼らは今回‘笑いの質’においては勝ちながら‘笑いの量’に負けたのだと・・・思う事にしよう。
敢えて言うと、今回は審査員も‘笑いの量’に負けたのかもしれない。
つまり、‘笑いの量’という、僕としても漫才にとってゆるがせに出来ないものを今回最大量作り得たのがサンドウイッチマンであったのだ。ひとつの確実な勝利がそこにあったことは否定できない。
だから、僕も来年を期して、今年の結果を受け入れることにする。無論、僕が受け入れないと言っても何も起こりはしないのだが。
そして、やはり僕は9組の、いや、4239組の自己主張という名の欲望と意志に期待する!
その向こうにある栄光をモノにするための自己主張を!と叫びながら!
そうだこれも言っておかなければ!
僕が‘漫才の栄光’というのは、M−1に優勝することを言うのではない。それも勿論、栄光であるが、それは漫才の栄光のひとつに過ぎない。‘漫才の栄光’とは時代を画して初めて言い得るものであると確信する。一テレビ局の栄誉がそうである事は無い。ただ、M−1の成長と価値は恐るべしであり、これに勝つという事はひとつの偉業であり、‘栄光’に一歩以上近づいた事は間違いがないことであるのは論を待たない。
※ウワーッ!2008年になってもた!
※思いがけない事態に本来の準決勝評は越年!
※そして、これでこのブログまたもや炎上するのか!
※そうなったとしても、先ずは、おめでとうございます。

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