六年ぶりに芝居をやります。その為の準備がひとつひとつ進んでいる中、ふと思い立ち芝居が出来るまでのあれこれを日記と称して報告して行く事にしました。
判ったような事を書きますが、芝居を作るという共同作業は心身ともに骨の折れる、気を使う事の多い煩瑣な仕事です。だから製作過程の何処までを書き切れるか判りませんが、芝居作りの大変さと面白さを判って貰う為に、僕の躊躇、嫉妬、策略、我慢、憤怒、感激・・・出来るだけ書きます!
と言って、11月までこればっかと言う事ではありません。戦争、犯罪、お笑い、それらについてもやはり書きますから。
因みに前回の芝居は2002年5月。
かわら長介レインボー公演『祭の極』(まつりのきわみ)。作演出・かわら長介
5月31日(金)〜6月2日(日)の三日間で五回公演。場所はHEPHALL。総入場者数はなんとか1000を超えた。
その時の出演者
シャンプーハット(小出水・てつじ)、温水洋一、雅薇、関秀人、国木田かっぱ、ケンドーコバヤシ、紅萬子、森下じんせい、木島茂雄、浜田尊弘、そして恥ずかし乍ら僕も出演。
この時も大変だったが今回はもっと大変になる筈だ。その第一は、今回は東京公演をやる。元々芝居は儲からないというのが定説で事実。確かに劇団四季や新感線やNODAMAPともなれば別だが。無論そうなった彼らの意欲と努力は僕がモノにできるようなレベルのそれではない。
実際、『祭の極』は350万円の赤字だった!さて今回はどうなる?戦々恐々で走り始めたのが今年の2月の中頃だった。
だからうずうずとはしていたのだ。6年も何もやっていない。もうやらなくては。年も年だし。けれど芝居をやるとなると、それなりの期間相当に時間を取られる。しかもここ3年程は塾に時間を取られている。それが自業自得であることは認識している。無論塾を疎かにすることは有り得無い。そうだそれならば塾生の勉強の一環としてやれば一石二鳥ではないかと思い付いた。
そして具体的に考えた時、先ず思い浮かんだのがシャンプーハット。彼らとは6年前の『祭の極』で近しくなったのだが、その時の彼らの力への信頼があった事がひとつ。そして二つ目。96年のオールザッツ漫才で彗星のように現れた二人。あれから12年、行きそうで行かないのだ。あのまま売れると思っていたのだが、お笑い界はそう甘くはなかった。要するにずっと気になるコンビだったのだ。それで何か刺激を与えたいと、その為に彼らのコントライヴを我々でブチ上げようと、傲慢にも思ったのだ。
そして、その旨を塾の相談役兼事務長とも言うべき中村壮快君に持ちかけた。
彼は快く協力を申し出てくれた。
そしてふたりで先ずはおおまかな製作工程を描いた。
◆本番は11月中頃=これは僕の誕生日が11月13日だもんで!僕のわがまま。
◆4日間で5ステージはやりたい。只この時はまだ東京公演は視野に入っていなかった。と言って東京ではやらないと決めていた訳でもない。
◆次に出来るだけ早く小屋を決める。例えばbaseとか、吉本興業の劇場を借りればいいのだが、それは避けたかった。吉本の外部のイベントに意欲的にシャンプーハットが出るという事にしたかったのだ。
◆それに合わせて出演者の決定を7月中には。
◆その上でチラシを8月末までには。
◆そして台本の仕上がりを7月末として、稽古は8月、9月、10月、11月と3カ月強!
さて、ここからは一応日付をリードに日記形式で。
■3月3日(月)■
そこから2週間後。その日は「明石家電視台」(MBS)の収録日。ゲストがシャンプーハットだった。
当日早速彼らの楽屋に行き、本番の為の打ち合わせの後、実はと切り出した。
「勝手な申し出で申し訳ないが、お二人をメインにコントライブをやりたい。時期は11月半ば。4日間で5ステージぐらい。台本は全部新作で、僕も書くが、ご存じかどうか、僕は作家の塾をやっていて、その生徒にも書かせ、全部の中から、僕の判断でこれはと思うものを絞って作る。他に出演者は3、4名予定しているが、まだ誰も決まってません。どう、のってくれる?」と。
そうなのだ、この時僕は彼らに白羽の矢を立てた二つ目の理由は告げていない。正直、本人達に直接、それも話を持って行った最初から言うのは気が引けたのだ。彼らがこれを知ったら怒るだろうか。いや、そんな後ろ向きな奴らではない・・・だろう。
そして、この時点で僕が想定していた他の出演者の一組は平成ノブシコブシだった。
さて、シャンプーの返事は意外にもその場でOK。いっそ、「僕らを選んで貰って、嬉しい」(てつじ談)とさえ言われた。こちらこそ、有り難かった。
同時に、その日の収録終り、マネージャーの熊崎君にも申し出て、スケジュールの事などあるが、一応の快諾(?)を貰った。
■3月25日(火)■
3月11日の7期生卒業公演を終え、次に動いたのは小屋決め。こちらが11月中頃と言っても、この芝居に見合う、そして僕らの希望に合致する小屋がその時期に空いているかという問題がある。
中村君が幾つか当たってくれた中から、この日、19時からの塾の授業の前、「心斎橋ミューズホール」へ下見に行った。同行は中村君と3期生の城田。
ミューズホールは基本的にはライブハウスだ。ステージには備え付けの大型スピーカーが左右にデンとある。スタンド有りきなのだろう。ステージも高い。キャパは全部座りで150〜80。ソデや楽屋周りを見せて貰い事務所へ。支配人と中村君が話をして、賃料1日15万円!一応11月中に借りたいというところまで決める。
そして、その夜の塾の継続授業(※6か月の基本期間を卒業した塾生の中で続けて授業を受けたい人の為に開いている授業。因みに隔週火曜日、21時半より〜お酒と共に朝まで!)で、そういうライヴをやることを告げ、「参加したい者はこぞってコント台本を書くように!ついては、先ずライヴの大枠案を募集する」と告知。
■4月1日(火)■
この日は、シャンプーのマネージャー熊崎君とスケジュール等に付いての打ち合わせの日だった・・・のに、前日、相談があるという後輩作家の渡辺仁君と朝まで飲んで、起きた時には約束の17時にすっかり遅刻!謝りの電話を入れ、次回のアポイントを取ろうとしたが、暫く忙しいという事で決まらず。嗚呼!
しかも、「シャンプーが4日間はきついと言ってるので」と熊崎君が言う。芸人、この場合はメインの出演者にそう言われるとつらい。「短くする方向で検討します」と返事。テンション下がる!でも仕方ないしなぁ。
これ以後、僕の頭の中は何かにつけてライブの事だ。日にちや会場の事もあるが、何よりも先ずは内容。その時、4日のつもりでいたのが2日になった事で、それならどうしても4日やらないと済まないようなモノをやればいいのだと思った事から、それならやはり芝居かと思い始めたのだ。コントより芝居が上とか言うのではなく、作る熱量とそれを全部発散させるのに必要な時間の問題だ。
だが、2日である事は変更できない。ならば、もう一か所別の所でやるならシャンプーもOKするのでは。と勝手に思いは膨らみ、芝居なら東京でやらなきゃ!と、最初の思惑がドンドン進化して行った。
‘芝居’そう思った途端、僕の頭には前から考えていた本(物語)が頭をもたげて来た。テーマはロシアンルーレット!だから、この時点で相当話は出来上がっているのだ。今は詳細は書かないが、しかしこれなら大筋を変えることなく、生徒達の作品も注入できるし、僕の念願も叶う!そういう芝居なのだ。
その物語の主人公は6人。内女性がひとり。他に脇役的に同じぐらいの人数が欲しい。芝居の内容はほぼ決まった。その日から僕は役者を誰にするか、誰にお願いするかばかりを思案するようになった。
その事で大きな変更を余儀なくされた。会場である。残念だが心斎橋ミューズホールでは小さい。中村君に僕の頭の中の推移と変更を告げ、ミューズホールは断って貰った。ミューズホールさんすいません。
同時に東京の小屋探しが始まった。だが流石に東京!こちらが望むような小屋は来年の春ぐらいまで詰まっているのだ。
■4月?日(?)■
こんなものを書くとは思っていなかったので、スケジュール帳に仕事の予定と見た映画と麻雀の戦績と筋トレをやった日とオナニーをした日しか記していない僕はその日を確定できないのだが、中村君が大阪の小屋として梅田のアムホールと話をし、11月4(水)、5(木)、6(金)を仮押さえしてくれた。
■4月?日(?)■
この辺も思い出しつつだ。
実は芝居と決めた時から、ひとり頭に浮かぶ役者がいた。東京の役者で、いわば今売出し中。だが仕事ではなくひょんな縁で一度会っただけで、2度目にいきなり芝居に出て欲しいは礼を欠く。実際僕の何を知ってるんですかと聞かれたら困惑する。だが、その時聞いた彼の情報からすると、彼はこの芝居に打って付けなのだ。
何日か迷った挙句、連絡を取るべく、その縁を作ってくれた彼の友達でもある僕の従兄弟にメールを入れた。
返事はすぐ帰って来て、従兄弟に事情を説明し、彼に一度会ってこちらの話を聞いて欲しい旨、伝えてくれるように頼んだ。
■4月?日(?)■
その2、3日後だった、突然もうひとりが僕の頭に閃いた。彼に出て貰おう!だが彼もひどく親しいという間柄ではなかった。
■5月3日(土)■
鄭哲。それが僕が彼を知った時の彼の名前だ。1972年の春、岐阜大学教育学部の男子寮・望峰寮。その前年僕はその寮に入り、彼は1年後輩だった。民青と革マルが共存する寮で、学内にはまだ政治意識が残存していた。そんな中、彼は岐阜大学という地方大学には珍しい大阪出身。僕は入学前の3年間を大阪にいたという事と、共に現役入学ではなかった事から互いを認知しあった。
その何年か後、学業を全く疎かにしたふたりは、彼が寮を出て行き、僕が大阪へ舞い戻る事になって全くの音信不通になっていた。
それが4年前、同じ寮出身の先輩からの電話で、彼がシャンソン歌手になり、大阪でも月例のコンサートを開いているという案内を受けたのだ。早速に僕は上本町の喫茶店で開かれている彼のライブに出かけた。
今里哲、それがシャンソン歌手としての彼の名前だ。30年ぶり!2時間ほどのライブ。やはり大阪人だ。軽妙なしゃべり――それも女言葉。そこは今日に至るも確かめられていないが、恐らく彼はホモか、オカマか。いずれあちら側の人間だろう――で笑いを取りながら、十数曲のシャンソンを聞かせてくれた。
学生時代、布施明の唄をよく歌っていた彼が彷彿とした。
彼のホームページ「おしゃべりシャンソン」で曰く、
〜あらゆる因果が私という「命」と「魂」を生んだ。
〈私は誰なんだろう・・・そして、何のために・・・〉
私は永遠に何かを探し求めて歌ってゆくのだ。
ロマンとあきらめのくりかえしの中で・・・〜
しかも、この芝居にきっとシャンソンは持って来いだ。
早速に僕は、この日、暫くの暇を詫びつつ、芝居の概要とここまでの決定事項を書き、「この芝居に、是非出て欲しい」とFAXを送った。
■5月4日(日)■
返事は翌日にあった。「是非出たい。とっても嬉しい話です。丁度その日は何にも入ってません!」
■5月5日(月)■
僕からも「早速の返事、ありがとうございました」。そして、6月16日、彼の月例ライブが大阪であるので、そこで更に詳しい話をしたいと返信。これで3人決まった!
東京のあの役者はどうなっているのだろう!
■5月7日(水)■
東京のその役者さんから電話!こちらの意思を再度伝えると、「一度マネージャーと話をして欲しい」とマネージャーの携帯を教えられる。彼自身は意欲的なのかどうか聞きたかったが、答えが怖くて流石に憚られた。「明日から台湾で撮影なんです」そう言って、彼は電話を切った。
■5月8日(木)■
そのマネージャーに電話。話を聞かせて欲しいという事で、5月23日、東京であって頂く事に。有難い事なり!
因みにその役者の名は中村譲。プロフィールに「現在、香港・台湾で日本人No1モデルとして活躍中」とある34歳だ。因みについ先日までTBSの「スイート10」にも出ていた。
日本語、英語、北京語に堪能という、益々欲しくなって来た!
果たして答えは!!!!!