ついこの間まで、うちの次男の口癖が、
「つまらない。退屈だ」だった。
彼が生まれてからこの方、この言葉を彼の口から相当数
聞いた様な気がするが、
ついひと月程前にカッチンと切れた。
「アホか。退屈やなんて、まちごうても言うな!
てめぇの事くらい、てめぇでエンターテインできんで、
どんな人間になれる、言うねん?」
息子は、ハッと息を呑んで、一瞬思考した後、
「うん」と頷いた。
その時から、一度も彼は「退屈だ」と言わなくなった。
『退屈』とはとても貴重な時間だ。
『退屈』な時間に、学ぶ事はとても多い。
他人から常にエンターテインして貰う事を待ち構えている人が
いるとしたら、それはその貴重な『退屈』な時間を、
それはもう、無駄に過ごしている事になる。
そして、人生そのものが、大方の割合で『受動態』に傾倒した
物となり、大変残念な結果に終わるであろう事は必至だ。
人は「退屈だな」と思う。
そして、「やる事がないよな」と思う。
それから、もしかしたら、ある人は映画を観に出かけるかもしれないし、
ある人は本を読むかもしれないし、ある人は何かしらクラフトを
始めるかもしれないし、ある人は哲学を頭の中で
始めるかもしれないし、で、ある人はただボーッとする事を
始めるのかもしれない。
行き着く先は”ボーッ”であっても、”映画に行く”であっても、
その人はそれまでに思考し、ある程度の意志決定をする訳である。
それがとても大切な事のように、私には思えるのだ。
「退屈だ、退屈だ」と騒ぎ立てる我が次男のような人間に、
物事の判断能力も意思決定力も備わる訳がない。
だから、子供にとってでさえ、『退屈』は必要な事なのだ。
言い換えれば、子供だからこそ、
「何もしない時間」、「予定のない時間」、
「親が放任しておく時間」が必要なのだ。
そして、我が息子のように「退屈だ」と訴えて来たならば、
小さい内は「あれとかあれあるよー、やれば?」と提案するも良いが、
我が息子の様に(笑)、15年という年月を経ても未だ
「退屈だ」言うならば、
「アホか。(以下同文)」を言うてやれば良い。
そして、次男は遅ればせながら、
「そうか。退屈な時には自分で自分をエンターテインしてやれば、
いいだけだったのか」と灯台下暗しな事を知った訳である。
めでたし、めでたし。

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