オリオ・・
線路が交差する交通の基点・・
交差する場所からみえる景色・・
筑豊へとのびる闇の鉄路・・
商業都市の博多と小倉にのびる鉄路・・
駅の工事で駅周辺がまっさらになってくると
この土地の特徴はなにもなく
この交差する鉄路あるいは水路だけが残るように感じる。
地形の特徴はある。
沼と谷・・
谷底に駅はある・・
山から谷の底へ人が流れてくる・・
黄金狂時代に出てくるような
窮屈な酒場の中に街の広場がある・・
世代がすこしずつ変われば
そんな特徴の街の風景も変わっていく。
まだ馬車が行き交っていた頃の谷や沼の景色を知るひとにとっては
もうその面影は地形に感じるしかなく
学生の街になる前の頃と今の景色もまた大きく違うだろう。
鉄路の交差する街に
いろんなひとがひっかかって
そこで面白いことをした。
何をやったか?
プロフィールに文字として残せないこと。
再現性がなかなか難しいこと。
その面白さの底流として感じるのが
筑豊から若松へぬける文脈だったように思う。
それが自分の井戸と共鳴するように感じたのだ。
じゃあこれからどう面白くなっていくか・・
面白くなっていくための補助線はなにか・・
たとえば岡垣・宗像へとぬける海人と農の系譜か・・
土地とひとの網の目のような補助線は
どこかで分断されてしまった。
分断された裂け目から
ゆるキャラたちがニョロニョロ出てきている。
分断に対する喪失感は
どこかで消費行動につながっているかもしれない。
生きる事がいつのまにか補助線を生産することだったのに
今はとにかく「今」消費できるものを
ここかしこに探している。
消費できる愛玩物を探している。
消費は生産と同時にあるもののはずなのに
バランスが悪くなってしまった。
インターネットが少しずつ浸透し
これまでの街の広場は
別の形のなにかになろうとしている。
バランスをとろうと全体が動いている。
土地と身体、家族と病、それから経済、エネルギー・・
この残された宿題のようなものを
インターネットの広場だけでは残念ながら
新しい補助線、物語はつくれないだろう。
アートはどうやって立ち向かっていくのだろうか・・

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