2008/11/17
鞠智城から出土のケータイ仏像には孫氏の兵法の最上策『戦わずして勝つ』の思いが… 村のあちこち村おこし
今回は、かつて朝鮮半島三国時代に一時は大きな勢力を持っていた百済が、熊本に大変縁があるということを書いてみます。
九州とは、九つの州と書き、世界という意味かもしれません。まったくその通りで、五色人がやってきたという伝説があるぐらい、いわば民族の大移動の吹きだまりの位置にあるようです。インタナショナルなスケールの人材はこの熊本から、この西原村から出てくることを期待したいと思います。
…………………
この現代に生きる私達が『ケータイ』と呼ぶ時は、携帯電話のことです。
ところが、どうも8世紀頃の肥後人にとって『ケータイ』とは、携帯用仏像のことだったかもしれません。
熊本県北の山鹿市と菊池市の境界あたりに、かつて鞠智(きくち)城があり、そこから最近発掘されたのが百済式の『ケータイ型仏像』でした。
鞠智城は、福岡県の大野城、佐賀県基山町の基肄城に並んで、唐と新羅の連合軍からの防衛拠点になるように築城された…とされています。
白村江(はくすきのえ)の戦いで日本水軍が、唐と新羅の連合軍による待ち伏せ攻撃で、百済再興の願いもむなしく全滅?させられたことは、相当ショックなことだったでしょう。
以後、朝鮮半島との間の制海権を奪われてしまったのです。
日本は列島に閉じこもって防衛をしっかりし、国家の制度を整備し強力にしようと考えたことでしょう。
そこで、福岡県内に水城なども作ったりしたようでしたが、同時に太宰府に都護府に似た名前の都府楼を設けて唐の文化を一生懸命に学ぶという中華思想を満足させる迎合路線という、硬軟両用の二段構えにしたのではないかと、私は想像します。
百済から九州への亡命者の中に、朝鮮半島において高句麗・新羅・唐との間で戦争と外交で非常にもまれてきた軍師みたいな人が、硬軟両用の構えを進言したのではないでしょうか。
【孫氏の兵法明日に、最上の策は「戦わずして勝つ」ことだ書いてありますが、その神髄をしっかり理解していた人がいたに違いないと思います。
太宰府から一定の距離に、隈府・別府・防府という、いずれも「府」の字がつく地名があるのは何か暗示しているようです。
(別の府)とか(隅の府)だとか、(防衛の府)だとか、太宰府を中心においた名に見えます。
さては太宰府に招いた唐の学者?あるいは進駐軍?を安心させるための欺まん的な意味がありはしないでしょうか。
つまり、熊本の隈府・菊池市には、太宰府を守るための、唐からの出張兵が形ばかりいたかもしれない…そんな気がしてきました。
では日本の九州地域は唐の植民地になっていたのか?いやいやそんな単純なものではなく、満ちれば欠けるのが世の習い。進駐軍に似ていても、それは周囲を囲まれた人質にいつでも逆転できるという訳です。
将棋には振り飛車戦法というのがあり、居飛車側から攻めさせて、攻め過ぎを誘って伸びきったところを待って反撃を行うというのがあります。剣道で言えば後の先というのでしょうか。
また囲碁にもサッカーにも、戦線を延ばしきらせておいて反撃をするという戦術戦法があります。
別府・防府・隈府には、いつでも唐側を(人質)に逆転させることができる何らかの仕掛けが施されていたのではあるまいかとは、うがちすぎでしょうか。
かなりしたたかな戦略が、鞠智城の池の中の【ケータイ】には潜んでいたのかもしれないと見れば、忍者漫画にみる巻物忍法帳に似ているような…
755年の安禄山の乱すなわち、玄宗皇帝の時代に唐の勢力は周辺部からいっせいに減退したに違いないと思われます。
でも唐の人々が九州に土地鑑があったとするならば、楊貴妃は殺されたのではなくて実は天草に逃れ住んだという伝説も、にわかに有り得る話に思えてきませんか。
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九州とは、九つの州と書き、世界という意味かもしれません。まったくその通りで、五色人がやってきたという伝説があるぐらい、いわば民族の大移動の吹きだまりの位置にあるようです。インタナショナルなスケールの人材はこの熊本から、この西原村から出てくることを期待したいと思います。
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この現代に生きる私達が『ケータイ』と呼ぶ時は、携帯電話のことです。
ところが、どうも8世紀頃の肥後人にとって『ケータイ』とは、携帯用仏像のことだったかもしれません。
熊本県北の山鹿市と菊池市の境界あたりに、かつて鞠智(きくち)城があり、そこから最近発掘されたのが百済式の『ケータイ型仏像』でした。
鞠智城は、福岡県の大野城、佐賀県基山町の基肄城に並んで、唐と新羅の連合軍からの防衛拠点になるように築城された…とされています。
白村江(はくすきのえ)の戦いで日本水軍が、唐と新羅の連合軍による待ち伏せ攻撃で、百済再興の願いもむなしく全滅?させられたことは、相当ショックなことだったでしょう。
以後、朝鮮半島との間の制海権を奪われてしまったのです。
日本は列島に閉じこもって防衛をしっかりし、国家の制度を整備し強力にしようと考えたことでしょう。
そこで、福岡県内に水城なども作ったりしたようでしたが、同時に太宰府に都護府に似た名前の都府楼を設けて唐の文化を一生懸命に学ぶという中華思想を満足させる迎合路線という、硬軟両用の二段構えにしたのではないかと、私は想像します。
百済から九州への亡命者の中に、朝鮮半島において高句麗・新羅・唐との間で戦争と外交で非常にもまれてきた軍師みたいな人が、硬軟両用の構えを進言したのではないでしょうか。
【孫氏の兵法明日に、最上の策は「戦わずして勝つ」ことだ書いてありますが、その神髄をしっかり理解していた人がいたに違いないと思います。
太宰府から一定の距離に、隈府・別府・防府という、いずれも「府」の字がつく地名があるのは何か暗示しているようです。
(別の府)とか(隅の府)だとか、(防衛の府)だとか、太宰府を中心においた名に見えます。
さては太宰府に招いた唐の学者?あるいは進駐軍?を安心させるための欺まん的な意味がありはしないでしょうか。
つまり、熊本の隈府・菊池市には、太宰府を守るための、唐からの出張兵が形ばかりいたかもしれない…そんな気がしてきました。
では日本の九州地域は唐の植民地になっていたのか?いやいやそんな単純なものではなく、満ちれば欠けるのが世の習い。進駐軍に似ていても、それは周囲を囲まれた人質にいつでも逆転できるという訳です。
将棋には振り飛車戦法というのがあり、居飛車側から攻めさせて、攻め過ぎを誘って伸びきったところを待って反撃を行うというのがあります。剣道で言えば後の先というのでしょうか。
また囲碁にもサッカーにも、戦線を延ばしきらせておいて反撃をするという戦術戦法があります。
別府・防府・隈府には、いつでも唐側を(人質)に逆転させることができる何らかの仕掛けが施されていたのではあるまいかとは、うがちすぎでしょうか。
かなりしたたかな戦略が、鞠智城の池の中の【ケータイ】には潜んでいたのかもしれないと見れば、忍者漫画にみる巻物忍法帳に似ているような…
755年の安禄山の乱すなわち、玄宗皇帝の時代に唐の勢力は周辺部からいっせいに減退したに違いないと思われます。
でも唐の人々が九州に土地鑑があったとするならば、楊貴妃は殺されたのではなくて実は天草に逃れ住んだという伝説も、にわかに有り得る話に思えてきませんか。
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なお、このブログへの書き込みはほとんどが出先からケータイで投稿しています。早稲田速記からヒントを得てのケータイ速打法を提案しています。テキストの末尾に少しずつ紹介しています。いずれケータイ入力スピードのコンクールに出たいと思っております。





