2009/2/18
小林多喜二が虐殺されたのは なぜ? 日本共産党
赤旗日刊紙に【蟹工船】のベストセラー入りで一躍注目されている小林多喜二についての質問と解説が出ていましたので、引用して紹介したいと思います。
熊本にも徳永直という多喜二に次ぐプロレタリア作家がいました。日本文学史で【太陽のない街】という作品名が答えられなければ減点されるぐらい有名です。
南阿蘇村の元長陽村立野は、今でこそ国道57号線ですいすい行きますが、江戸時代の参勤交代は二重の峠に迂回していたぐらいに人の行く手を阻んでいたところのようです。峻険な渓谷をあえぎながら登っていく鉄道のスイッチバックがあることで有名ですが、立野駅に降り立ってあたりを見回すと、北側から山の斜面に長大な白い鉄管が沢へ向かって落ちかかる光景が印象的です。
1914年の第一次世界大戦が始まる年に、熊本県で初めて建設された悲願の水力発電施設です。ここに徳永直が就職していたことがあり、三つの作品に立野時代のことを書いているといいます。
著作権は1958年没ですからすでに50年が経過して切れていますので、青空文庫で読めるように、作品を手に入れて入力練習かたがたアップしても構わない状態になりました。熟読精読をしながら作品世界に浸るためには、携帯入力ででも入力してみるのが一番です。
十分に作品に浸った上で、いずれ南阿蘇の立野の水力発電施設に徳永直が書いてくれたことを文学碑にして顕彰する運動をしたいと思います。これから熊本と阿蘇の地域おこしの狙いをもって徳永直に注目していただくために前段階として、今回は多喜二の紹介をしておきたいと思うのです。
………引用………
日本共産党
知りたい聞きたい
<問い>
「蟹工船」の作者・小林多喜二は、当時の警察に虐殺されたと知りました。なぜ殺されたのでしょうか。(東京・一読者)
<答え>1933年2月20日の小林多喜二の虐殺はあまりにも有名です。天皇が絶対的な権力を持ち、警察も軍隊もそのもとで横暴を極めた戦前には、天皇制や軍国主義に反対したために逮捕・投獄、虐殺された人はかなりの数にのぼっています。
23年9月の関東大震災の折には混乱に乗じて初代共産青年同盟委員長・川合義虎や労組活動家・平沢計七ら10人が軍隊の手で殺され、さらに無政府主義者・大杉栄が妻・伊藤野枝、おいとともに虐殺されました。
25年、普通選挙法(男子のみ)と抱き合わせに、天皇制廃止、侵略戦争反対を掲げる日本共産党をはじめ、革命的労働・農民運動を弾圧する目的で治安維持法が制定されました(28年に死刑・無期刑に改悪)。その違反名目での逮捕者は数十万人にのぼり、司法省調査でも送検者7万5681人、起訴者5162人、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の調査では、明らかな虐殺だけでも日本共産党幹部など65人、拷問・虐待死114人、病気その他の獄死1503人といわれています。
多喜二の虐殺もそういう歴史の文脈のなかでのことです。同時に彼の場合は、逮捕数時間後の激しい拷問によるものでした。それは彼の作品が、治安維持法の適用による大弾圧「三・一五事件」での警察の拷問の実態を暴いた「一九二八年三月十五日」や、労働者搾取の国家構造を描き出した「蟹工船」、農民と労働者の共同闘争を描いた「不在地主」など、戦争突入前夜に、政府の戦争と労働者抑圧政策を鋭くえぐる内容で、しかも読者も多く、国際的にも高く評価され、為政者から特別に憎悪され、恐れられたからです。
多喜二が作家同盟の中央委員・書記長、プロレタリア文化団体の党グループ責任者など重要な位置にあったことも、「生かしてはおけない」理由だったのでしょう。多喜二の作品は敗戦までは持っているだけで逮捕される国禁の書とされました。 (淳)
〔2009・2・18(水)〕
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熊本にも徳永直という多喜二に次ぐプロレタリア作家がいました。日本文学史で【太陽のない街】という作品名が答えられなければ減点されるぐらい有名です。
南阿蘇村の元長陽村立野は、今でこそ国道57号線ですいすい行きますが、江戸時代の参勤交代は二重の峠に迂回していたぐらいに人の行く手を阻んでいたところのようです。峻険な渓谷をあえぎながら登っていく鉄道のスイッチバックがあることで有名ですが、立野駅に降り立ってあたりを見回すと、北側から山の斜面に長大な白い鉄管が沢へ向かって落ちかかる光景が印象的です。
1914年の第一次世界大戦が始まる年に、熊本県で初めて建設された悲願の水力発電施設です。ここに徳永直が就職していたことがあり、三つの作品に立野時代のことを書いているといいます。
著作権は1958年没ですからすでに50年が経過して切れていますので、青空文庫で読めるように、作品を手に入れて入力練習かたがたアップしても構わない状態になりました。熟読精読をしながら作品世界に浸るためには、携帯入力ででも入力してみるのが一番です。
十分に作品に浸った上で、いずれ南阿蘇の立野の水力発電施設に徳永直が書いてくれたことを文学碑にして顕彰する運動をしたいと思います。これから熊本と阿蘇の地域おこしの狙いをもって徳永直に注目していただくために前段階として、今回は多喜二の紹介をしておきたいと思うのです。
………引用………
日本共産党
知りたい聞きたい
<問い>
「蟹工船」の作者・小林多喜二は、当時の警察に虐殺されたと知りました。なぜ殺されたのでしょうか。(東京・一読者)
<答え>1933年2月20日の小林多喜二の虐殺はあまりにも有名です。天皇が絶対的な権力を持ち、警察も軍隊もそのもとで横暴を極めた戦前には、天皇制や軍国主義に反対したために逮捕・投獄、虐殺された人はかなりの数にのぼっています。
23年9月の関東大震災の折には混乱に乗じて初代共産青年同盟委員長・川合義虎や労組活動家・平沢計七ら10人が軍隊の手で殺され、さらに無政府主義者・大杉栄が妻・伊藤野枝、おいとともに虐殺されました。
25年、普通選挙法(男子のみ)と抱き合わせに、天皇制廃止、侵略戦争反対を掲げる日本共産党をはじめ、革命的労働・農民運動を弾圧する目的で治安維持法が制定されました(28年に死刑・無期刑に改悪)。その違反名目での逮捕者は数十万人にのぼり、司法省調査でも送検者7万5681人、起訴者5162人、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の調査では、明らかな虐殺だけでも日本共産党幹部など65人、拷問・虐待死114人、病気その他の獄死1503人といわれています。
多喜二の虐殺もそういう歴史の文脈のなかでのことです。同時に彼の場合は、逮捕数時間後の激しい拷問によるものでした。それは彼の作品が、治安維持法の適用による大弾圧「三・一五事件」での警察の拷問の実態を暴いた「一九二八年三月十五日」や、労働者搾取の国家構造を描き出した「蟹工船」、農民と労働者の共同闘争を描いた「不在地主」など、戦争突入前夜に、政府の戦争と労働者抑圧政策を鋭くえぐる内容で、しかも読者も多く、国際的にも高く評価され、為政者から特別に憎悪され、恐れられたからです。
多喜二が作家同盟の中央委員・書記長、プロレタリア文化団体の党グループ責任者など重要な位置にあったことも、「生かしてはおけない」理由だったのでしょう。多喜二の作品は敗戦までは持っているだけで逮捕される国禁の書とされました。 (淳)
〔2009・2・18(水)〕
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