2014/1/28

お伊勢参りと絵馬  

江戸時代には庶民による伊勢神宮参拝の旅、いわゆる「お伊勢参り」が盛んに行われたが、房総の神社や寺に遺された絵馬の中にも、それを記録するものが、いくつか散見される。
 しかし絵馬には信州の善光寺や日光の中禅寺に参詣したものも多い。それはこの二つの寺が房総から地理的に近かった為、伊勢神宮よりも気軽に行くことが出来たからであろう。
伊勢参宮と違ってこれらの絵馬には注文が多かったからか、構図から色使いまで同じものが多く、既に需要を見越して、絵師の手元に既製品が用意されており、要望に応じて奉納の年月日や氏名を記入したようである。

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 参詣の者は、何人かでグループを作った上、旅に先立って、地元の神社や寺に道中の安全を祈願し、無事帰還すると、今度は道中安全な旅をさずかり、念願成就を果たしえたことを報告した。そして感謝の気持ちとして絵馬を奉納したのである。そのうちこんにちまで残されたものを、私たちは参宮絵馬として目にすることができる。

 戦国時代を応仁の乱を発端とし、織田信長による将軍・足利義昭の追放をもって終了とすると、「戦国」と呼ばれたこの動乱の時代は約100年にも及ぶ。戦乱は全国に波及した。それは全国を二分して、100年にわたって合い争ったものではなく、全国に割拠した戦国大名たちが、あるときはどこかで大きな戦さを仕掛け、あるときはどこかで小競り合いを繰り返していたのである。
 国中は荒れ果て、家族は離散したり命を落したり、人々が受けた損害は甚大であった。房総にも幾多の古戦場がある。
 この事情は伊勢神宮とて例外ではなく、定期的に行う式年遷宮も120年以上執り行うことができなかった。その伊勢神宮を建て直すために、神宮で祭司を行っていた御師(おし)たちが外宮(げくう)に祀られている豊受大御神(とようけおおみかみ)への信仰を広め、農民に伊勢神宮に参詣してもらうため、各地に散らばり、伊勢暦を配ったり、豊作祈願を行ったり、またその年に収穫された米を初穂料として受け取るなどによって生計を立てたりした。
 私の手持ちの参宮絵馬の写真には「慶長9年」と年号を書いたものがある。
 この慶長9年(1604)は、江戸・日本橋を起点として、東海道など5つの街道が整備され、一里塚や宿場が設けられたという年でもある。御師たちの活動の範囲も広がり、農民たちのお伊勢参りも盛んになった。

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 お伊勢参りが外宮の豊受大御神への信仰を反映したものであったことは今述べたが、これには意外に思う人が多いと思う。というのは、私たちにとって伊勢参宮といえば、それは内宮の参拝を意味し、内宮とは天皇家の祖神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)を指すからである。
 伊勢参宮が江戸時代から今日まで連綿として続けられてきたものであるとすれば、江戸時代の人も、伊勢参宮は主に内宮を対象にしたものであったと考えるのが普通である。
 しかし明治2年(1869)、明治天皇は東京への出立の途中、伊勢神宮に行幸した。これが近世になって、天皇が伊勢神宮に参拝した最初である。参拝の対象は天照大神であり内宮であった。当時、日本の維新政府は「王政復古」や「祭政一致」を国家の理念に掲げ、天皇を元首とする国づくりが進んでいた。
 明治天皇の参拝を機に、伊勢神宮は国家神道の聖地へと、その性質を大きく変えた。さらに明治政府は御師の活動を禁じたため、民衆の伊勢神宮への参拝熱はいっぺんにさめてしまった。

 それでは、江戸時代のお伊勢参りのもとである豊受大御神の「ご利益」(ごりやく)とは、一体何だったのだろうか?
 それは「五穀豊穣」であった。しかしそれだけならば、何も伊勢まで出かけなくても、身近にある地元の鎮守様でも十分間に合ったはずである。ところが、同じ「五穀豊穣」でも、伊勢神宮でなければ手にすることのできない「ご利益」もあった。
 例えば、伊勢神宮の神田には全国から稲穂の種が集まった結果、品種の改良が行われ、参宮した農民たちは新種の種子を持ち帰るという幸運もあった。江戸時代も中頃になると、農業技術の進歩によって米穀の収穫量も増えたが、農家の中には現金収入を得られる者も増え、新たな知識や見聞、物品を求めて旅をしようと思い立つ者も現れた。
 伊勢に旅立ったものは、伊勢滞在中に大抵、自分たちの集落を担当している御師のもてなしを受けた。御師は自分の家で宿屋を経営し、遠来の農民たちに山海の珍味などの豪華な料理をもてなしたほか、飲めや歌えやの歌舞入りで、心底、楽しませた。そして宴のあとは、農民たちが日常の生活では使ったことがない絹の布団に寝かせ感激させた。
 また、ある者は伊勢参宮から、さらに京や大坂に、またさらに安芸の宮島、太宰府へと足を延ばし旅を満喫した。

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 当時、庶民が居住する地域から他の地域に移動することは、厳しく禁じられていたが、伊勢参宮に関しては殆どが許可されるという習わしであった。また、伊勢参宮の通行手形を所持していれば、どの道を通ってどこへ旅をしても問題はなかった。さらに、親や主人に断りもなくこっそり旅に出ても、伊勢神宮参詣の証拠を持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていた。
 お伊勢参りが「お陰参り」とか「抜け参り」とも呼ばれた所以である。

 伊勢参りは、ほぼ60年に1度、数百万人規模のものが大挙して伊勢神宮に向かうという大フィーバーをもたらした。そのようなフィーバーが、江戸時代に3回あったが、そのうちの一つ、明和8年(1771)の場合、参詣者の数は4月から7月までの5ヶ月間で約200万人に達したという。当時、日本の人口は3110万人であったとされているから、その熱狂ぶりが判るというものである。

 最後に絵馬について説明すると、@は天保4年(1833)の伊勢大神宮参詣時の門前の賑わいを表したもの。小屋の中で三弦を弾く女性とその前を通る参詣者の様子を描いた風俗図で、民俗資料としても貴重なものであると、夷隅風土記にも高く評価されている。
 Aは伊勢・二見ヶ浦を行き交うお伊勢参りの一行。文久3年(1863)奉納のもの。Bは伊勢神宮からさらに足を延ばして安芸・厳島神社にも参詣したもの。下のCは戦時中の小学校教科書ではお馴染みの「天の岩戸」である。弟の乱暴狼藉に立腹した天照大神が岩屋の中に隠れてしまったため、この世は闇になるが、神様たちは一計を案じ、岩屋の外で賑やかに騒ぎ出す。不審に思った天照大神がそっと外を見たときに、力持ちの神様が岩戸を開け放ち、天照大神を外に引っ張り出してしまったので世の中は再び明るくなったというお話である。のちにこの天照大神が孫を日本に送り出し統治させることにしたというのが日本神話である。この絵馬にある明治16年には、日本の学校教育も福沢諭吉らが推進した開明思想の普及から、文部省による皇国史観教育が中心となり、伊勢神宮はますます荘厳になるのであった。 

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寝釈迦
●浦松幹雄様 大井啓男です。
問題なく拝見でき、興味深く読ませて頂きました。
有難うございました。
仏涅槃図は方々のお寺にありますが、釈迦涅槃像はわが国では珍しいですね。

●今まで一番綺麗に見れました。   ホッタ

●Bangkokでキンキラキンの巨大な涅槃像を観たことがありますが、涅槃像の意味を全く知りませんでした。”沙羅双樹の木の下で静かに息を引きとる姿”はゴルゴダの丘で磔となった最後のキリストとは大分違いますね。キリスト教はその発生からして戦いの宗教でもあり、人は原罪を背負って生まれてきて、許しを求めるものですが、仏教は”心のやすらぎ、心の平和”を求めるが故に根深く人々の生活の中に根付くのでしょうか。
私が行った学校は玉縄城の跡に建てられました。北条早雲が1513年に建てた山城でした。諏訪壇という丘を残しただけで、キリスト教の我が母校は壮大なる自然と歴史の破壊をやってのけました。   ゆこ

●浦松様
暮れも押し迫る中、相変わらず房総探索をされていますね。今回の寝釈迦像の話も初耳で面白く拝読しました。
海雄寺の像は大きく部屋が窮屈そうに見えます。それだけに昔の農村、漁村の仏教に対する信仰が深かったことを感じとれます。
私の早稲田の研究室の友人で土岐頼彦という名の友人がいますが、氏も名の「頼」も万木城主に近いので縁があるのではないか訊いてみます。まずは友人にこの閑報を送ってみます。
 クリスマスカードや早慶戦ブログなどもありがとうございました。早慶戦の早稲田側はハンカチ王子の斎藤投手がプロで活躍しないので早慶戦にも影響しているのではないかと思っています。 谷口

●明けましておめでとうございます。
今さらですが、クリスマスメールもありがとうございました。
お返ししようと思ううちにお正月三が日も過ぎてしまいました。
失礼をお許しください。
今年もよろしくお願い申し上げます。

釈迦涅槃図ですが、これとほぼ同様のものが実家にあります。
子供の頃、お盆になると祖母か母が出して来て飾っていました。
たいへん古いもので、当時すでにボロボロでした。
聞くところによると、これはうちの所有物ではなく、地区を代表して
預かっているのだとか。昔お寺が消失して、菩提寺がなく、葬儀は神式で
行っています。そのことと関係あるのかもですね。
預かっていると言っても、返すところもないのです。
わたしも家族も信仰心はほとんど持ち合わせていないのですが
涅槃図は魅力的で、どんな絵師さんが描かれたのかなあと
よく想像していました。   飯田圭子

●時代の荒波に耐えて、人びとの信仰に守られて来た物は尊いですね。念じる力が塗り込められて、感動の光を放つのでしょうね。時代の中で埋もれてしまった謎の部分をほどいて解き明かしたり、想像を巡らせたりするのも、年月の重みに対する敬意と、過去の人々の想いに心沿わせる事も、信仰に近い物があるかもしれませんね。
今回も面白く拝見いたしました。  中山育美

●幹ちゃん、淳平です。
新年おめでとうございます。いつもよい文章と映像を有難う存じます。時々読んで、房総の歴史の勉強をさせてもらっています。今年もお元気で、いろいろと教えてください。

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2013/12/31

賀正 2014  

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千葉県茂原市にて所見 長屋門

新年あけましておめでとうございます。
          本年もよろしく。


閑 報       浦 松 幹 雄
e-mail:uramatz@1956.jukuin.keio.ac.jp
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