ヒラリ、ヒラリと蝶のように。
花びらが舞い落ちている。
ゆっくりと。ゆっくりと。
春、桜風。去りし人を想う。
校門を過ぎた中庭で、直斗は吹く風の中に桜を見つけた。
一片の桃色の出処は、並ぶ木々の中の一本。大気に混じる、ほのかな春の薫りは、少し、彼女の心をくすぐった。
いつの間にか、季節は移ろっていたのだと気付いて。
「よ、直斗」
背の向こうから名前を呼ばれて、直斗は振り向いた。そこにいたのは、一つ上の学年の少年、花村陽介。いつもの笑顔で近づいてきた彼は、そのまま彼女の隣に並んで歩き出す。
「なんか久しぶりだな。春休みはどうしてたんだ?」
「少しだけ、実家に帰ってましたね。後は、久慈川さん達と遊んだりしてました」
「そっか。楽しかったみたいだな」
「ええ、とても。そういえばジュネスで花村先輩を見かけたこともありましたっけ」
「なんだ、声かけてくれれば良かったのに」
「お忙しそうだったので、邪魔しちゃ悪いかな、と」
そんな風に答えてから、ふと、思う。春休みの間、あの仲間で集まることが無かったな、と。
「んなこと、気にしなくていいのによ」
「ダメですよ。仕事はちゃんとやらないと」
「んー、まぁ、そりゃそうなんだけどな。けどなんつーか、ちょっと他人行儀じゃね?」
感じていたことを当てられた気がして、直斗はハッと顔を上げる。どこかよそよそしくなっていたことを見抜かれ、暗に責められているのだろうかと。
だが彼の顔からは、そんな気配は微塵も感じられなかった。落ち込んだ顔を見せているのは、いつものおどけなのだろう。そう直斗は思う。
「ま、仕方ないか。前とはやっぱ、違うもんな」
「――――?」
「直斗ちゃんの彼氏、いなくなっちゃったしな〜」
「なっ!? ちょっと、花村先輩っ!!」
言い返そうとするが、陽介はすでに脱兎のごとく走り出しており、校舎の玄関へと姿を消していた。
「まったく・・・・・・」
呟いて、自分の頬に手を当てる。思った以上に、熱くなっている。
彼氏。心の中で繰り返す。ただそれだけで、より一層、彼女の頬は熱くなった。
自分に恋人が出来るなどと、考えたこともなかった。彼を想い眠れない夜を過ごす、等ということも。
だが、その人は今、この学校にいない。
この街にも、いない。
遠く、遠くの都会の空の下で、彼女と同じように始業式を迎えているのだろう。
そこには彼女の知らない交友があり、彼女の知らない彼の姿があるのだろう。
何故かそれが、切なくて、寂しくて。
そっと見る腕時計。当たり前のように、『計測不能』の文字が浮かんでいる。わかっていても見てしまうのは、もはや彼女の癖になってしまっていた。
「皆の者、おはよう。始業式、まことにご苦労であった。わらわは今年から皆の担任を勤めることになった――――」
体育館で始業式を終えた後、教室に戻ってきた直斗は、担任の女性教師の言葉を聞き流しながら、窓辺の席から外を眺めていた。
考えてみれば、と彼女は思う。
自分達が集まっていたのは、常に何かに追われていたからだった。
年末までは、不可思議な事件を解決することに奔走していた。自分達にしか解決出来ない事柄だったからこそ、いつでも戦いに赴けるように、出来るだけ一緒に時間を過ごすことを心がけていた。
犯人を捕まえたのは年の瀬も近づいていた頃。
気が付けば、彼――――つまり『彼女の想い人』がこの街を去るまでに、あと三ヶ月しかないことに気付いてしまった。
それからは、彼との思い出作りの為に、常に何か楽しいことを探していた。時には二人きりで過ごすこともあったが、大体は仲間達と共にいた。寂しいのは、直斗一人ではなかったから。
そして、別れの日が過ぎ。
追われることの無くなった彼らは、それぞれの生活に戻っていく。会わないわけではない。ただ、いつも中心にいた彼がいなくなったことで、何かがぽっかりと抜け落ちてしまったかのように感じていたのは確かだった。
だからこそ、直斗もりせも、ジュネスで働く陽介に声をかけることが無かったのだろう。
それだけ、彼の存在が大きかったのだと、ようやく直斗は気付くことが出来たのだった。
窓の外、風が吹く。
花びらが、流れていく。
そこに直斗は、去りし人を思う。
出来れば一緒に見たかった。
そう考えながら。
「結構、かっこいいよね」
「うん――――でも、あのジュネスの・・・・・・」
放課後。一階に降りると、女の子が二人、ひそひそと話している声が耳に入った。なんとはなしに見た彼女達の顔に、見覚えは無い。きっと、今年の新入生なのだろう。
「そうなんだ? でもそんなの、関係なくない?」
「んー、私はパスかな。カッコイイけどタイプじゃないし。それにほら、うち、店やってるじゃん? ジュネス出来てから、親が愚痴ばっかでさー」
二人の会話の内容に、直斗は少女達の視線を辿る。その先にいたのは、新しいクラスメイトと思しき少年達と笑いながら喋っている陽介の姿だった。
カッコイイ、か。そんな風に見たこと、無かったな。
思いながら、立ち止まって直斗は彼を見る。同い年で仲間の一人のりせも、いつだったかそんなことを言っていた気がした。少し考えて、思い出す。
『花村先輩ってさ、カッコイイよね――――黙ってれば、だけど』
それを聞いていた天城先輩が大受けしていたっけ。里中先輩も笑いながら、花村先輩のあだ名を教えてくれた。確か、ガッカリ王子。
ついつい、思い出し笑いをしてしまいそうになり、直斗は周囲に気取られないように口元を隠す。
失礼だ、と思いながらも、笑い止まらない。悪意はないつもりだが、ガッカリ王子の響きが面白かったのだ。これだけでこんなに受けてしまうなんて、天城先輩の病気がうつったみたいだ。そんなことを直斗は思う。
ようやく発作が止まった後、彼女は改めて陽介を眺める。
カッコイイ、とは思わない。もっとも、それは直斗の基準に照らし合わせて、だ。
彼女がカッコイイと思うのは、シャーロック・ホームズやエルキュール・ポアロのような探偵だった。勿論、彼らが現実の世界の人間ではないことを承知の上で、だ。
物語の中の人間以外では、二人しかいない。
一人は彼女の祖父。
もう一人は、陽介の親友であり、今はこの街にいない彼。つまり、彼女の恋人。
その二人だけだし、それで十分だった。彼らに比べれば、他の人間は――――男も女も含めて――――皆、霞んでしまう。直斗の目には。
「ん? よう、直斗じゃん」
そんなことを思っていると、彼と目が合ってしまった。彼女の考えていることなど知らずに、陽介は小さく片手を挙げながら、直斗の元へと近づいてくる。
「ああ、花村先輩。朝はどうも」
「へ? ・・・・・・ああ、なんだ。あのこと? まだ怒ってた?」
皮肉交じりの言葉を、陽介は明るく笑い飛ばしてしまう。なんとなく、それで毒気を抜かれてしまって、彼女は苦笑した。
カッコイイとは思わないけれど、この明るさは嫌いじゃない。そんなことをつい、思ってしまいながら。
「しっかし、相変わらず学生服なんだな」
校門へと向かう道。舞い散る花びらの中を、直斗は陽介の隣に並んで歩く。追い越していく学生達の中には、時折、振り返って二人を盗み見る者もいた。それだけ、珍しい組み合わせだったのだろう。ジュネスのガッカリ王子と、元・探偵王子の組み合わせが。
「別に、おかしくはないでしょう。ずっとこうだったんですから」
直斗の返事に、そりゃそうだけど、と頷きながら、陽介はわずかに不満そうな素振りを見せた。怪訝に思って、彼女は尋ね返す。
「僕がこの格好してるのって、そんなに変ですか」
「いや、そういうわけじゃなくってな。直斗なら、セーラー服なんかも似合うんじゃないか、って思ってさ」
一瞬、息を呑んで見つめ返す。が、彼はこちらを見もせず、腕を組んで首を振りながら、残念だよな、と言っていた。
知らないで言ってたんだ。そう思って、直斗はホッとする。
セーラー服。実は彼女は着たことがあった。心から想う相手の前で、たった一度だけ。
つい、その後の夜のことまで思い出してしまい、直斗は赤面する。
「別に、どうでもいいでしょう、そんなこと」
顔を隠すように帽子のつばをさらに深く下ろし、彼女はそう答えた。本当にこの人は、どうでもいいことばかりを言う。やっぱり、ガッカリ王子だ。そんなことを思いながら。
「まあ確かにな。アイツにとったら、その方がいいのかもな。男が寄ってこないし」
彼女の様子を不思議に思うこともなく、陽介は少し悪戯っぽく言った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
キッ、と直斗は彼を睨む。陽介が何を言いたいか、わかったから。
アイツ。それが誰のことを指すかわからないようでは、探偵は務まらない。
「そんな、怖い目、するなって」
また笑って誤魔化そうとする彼だったが、直斗はふん、と顔を背ける。
そういえばこういう人だった。人のことをからかって楽しむのは、今に始まったことではないことを思い出す。ちっちゃいだの何だのと、よく言われていたものだ。
「なんだ、機嫌悪いな。あれか? アイツと喧嘩でもしたか?」
「――――!! 花村先輩!!」
つい怒鳴ってしまってから、後悔する。ムキになるからからかわれる。そう判っていたはずなのに。
案の定、彼は、そんな直斗の姿に声を上げて笑っていた。
「ちゃんと仲直りするんだぞ。会えなくなるのは辛いぜ?」
「知りません!!」
いい加減にして欲しい。思いながら応える。今日はもう、話すのは沢山だ。ここで別れよう。
そう直斗が思った矢先のこと。
「ホント。会えなくなるのは、辛いんだぜ?」
陽介の、声音が唐突に真剣なものに変わった。ハッとなって振り向いた彼女を、彼は見ていない。その瞳の奥には、どこか隠しきれない哀愁が漂っている。まるで、遠くを見つめているかのような、だがその視線を辿っても、そこには民家と夕の太陽、電線に止まったカラスしかいない。
不思議、を直斗の脳が見つけた。すぐにフルスロットルで動き出す頭。脳の中の引き出しが次から次へと開かれて、必要と思われる資料が次々に揃っていく。
やがて導き出される解答。それに直斗は、微かな居心地の悪さを覚える。言葉にしていいのか。そんな風に思って。
「・・・・・・花村先輩」
迷って、迷って。それだけを言う。ん、と聞きながらこちらに目を向けた陽介は、すぐに彼女が気付いたことを知ったのだろう。
小さく、苦笑する。
「さすが、って褒めた方がいいか?」
「そんな・・・・・・」
直斗は、首を横に振る。心をしめるのは、罪悪感。目の前の少年の心の、一番、敏感な部分に触ってしまったような気がして。
「そんな、自分を責めるなって」
俺が悪いことしたみたいじゃないか。言って明るく笑う。その姿が、直斗をより一層、苦しめる。ギュっ、と左手で自分の右腕を掴む。強く。
ピーヒョロロロロ
空の上をトンビが飛び回っている。その鳴き声すら、彼女は自分を責めているように聞こえて。
「・・・・・・すいません」
「だから、いいって。俺も迂闊だったわ。直斗が名探偵だってこと、忘れてたしな――――こんなにちっちゃいのに」
「――――ちっちゃいって言うな」
いつものからかい、いつもの返答。少し弱々しい声になってしまったのは、きっと仕方ない。それでも、彼が差し出してくれた救いを、無駄にすることは出来なかったから。
「んじゃな。気をつけて帰れよ」
「はい。先輩も、お気をつけて」
気が付けばいつの間にか、分かれ道に来ていたらしい。彼女に向かって手を振って一人、歩いていた陽介は、すぐに踵を返してその場に立ち竦んでいた直斗に近づいていった。
「あのな、直斗」
困惑したような、照れ臭いような、そんな雰囲気を漂わせながら、彼は直斗に言った。
「変に気、使うんじゃねぇぞ」
「・・・・・・ええと」
「俺はな、直斗。相棒に彼女が出来て喜んでるんだからな? それも、こんなに可愛い彼女が。だから、な」
頭をかきながら、陽介は言葉を探していた。そして、
「だから、お前らが幸せなら――――俺も、幸せなんだからな」
結局、ありふれた台詞しか出てこなかったらしい。
だがその、ありふれた言葉だからこそ、直斗は心を震わせて。
「ありがとう――――ございます」
だから。
ありふれた、感謝の言葉を返す。
笑みと共に。
その笑顔は、美しい笑顔は。
一瞬、陽介をハッとさせるのに十分なほど、綺麗なものだった。
遠くの林から、梟の鳴き声が微かに聞こえる。八十稲羽はそれぐらいには田舎なのだろう。それよりも激しいのは、田んぼの蛙の合唱。初めて来た時には、直斗は少し驚いたものだ。こんな中で眠れるだろうか、と。
今ではすっかり、慣れてしまっていた。ふとした瞬間に、ああそういえば、と気付くぐらい。
その静かな喧騒の中で、直斗はベッドに座り、膝を抱えていた。
ありがとう、と言えた。それは良かった。けれども、それは陽介の優しさがあったというだけ。罪悪感は、心で燻っている。罰せられたいわけではないけれど、糾弾されたいわけでもないけれど。
何だか、居心地が悪い。そう感じている。
だから直斗は、睨めっこ。携帯電話と睨めっこ。浮かぶ番号は彼のもの。会いたいと願う彼のもの。
それでも、話すことはなんだか、押し付けることになる気がして。自分の中の、ドロドロした何かを、あの人に。
やめておこう、今日は。こんなに声が聞きたいと思った日はないけれど、でも。
思った瞬間。
Prrrr Prrrrr
唐突に掌の中で携帯電話が暴れだした。慌てた彼女は、誰からも確認しないまま通話ボタンを押してしまう。
「も、もしもし?」
「おわ、びっくりした。こんなに早く出るとは思わなかった」
聞こえてきた声は、まさにずっと聞きたいと思ってた人の声。
思わず、絶句。そうしている間にも、顔が真っ赤になってくる。
「あ・・・・・・い、いえ、その・・・・・・」
言葉に、ならない。あまりに唐突過ぎて。
彼は、何も言わない。待っていてくれているのだ、と気付いて、感じるは歓喜。
優しさが嬉しい。
「――――先輩」
「ん?」
その幸せが、心の奥底の澱みを押し出していく。言葉にして。
「先輩。聞いてくれますか? 今日のことを」
「ああ、いいよ」
直斗の声に混じる真剣さに気付いたのか、瞬時の躊躇いもなく、彼は応と頷いたのだった。
そうして彼女は話し出す。ゆっくりと、今日のことを。
探偵として培ってきた能力の一つに、いかに客観的に物事を語るか、というものがあった。そうやって人に語ることで、自分でも気付いていなかった事実に気付くこともあるから。
淡々と、直斗はあえて感情を殺して話す。陽介と今日、出会ったこと。一緒に帰っていたこと。からかわれたこと。そして彼がふと見せた仕草から、彼女が『推理して』しまったこと。
「ダメですね。人の心の機微に疎い、とは以前から言われていましたけれど」
そこで一度、直斗は言葉を切る。話している間中、ずっと彼は電話の向こうにいてくれた。真摯に聞いて、時に相槌を打ってくれた。
だから彼女は、ここまで話せた。だから彼女は、この先を話そうと思った。
「僕の推理が、花村先輩を傷つけてしまったかもしれない」
「どうして?」
「花村先輩の、弱い部分を見透かしてしまったから」
あの時、陽介が見ていたのは、民家でも、夕の太陽でも、カラスでも無かった。
彼が見ていたのは、電柱だった。
「――――もうすぐ、一年、なんですよね」
溜息と共に、吐き出した言葉。
一年前に、起きた事件。
きっとその時も、桜は咲いていて。彼はこの先の闇も知らず、退屈な生活の中で、明るい未来を思い描いていて。
「小西早紀さんが――――亡くなってから」
その未来には、きっと少女の姿があったに違いない。
想うという言葉の意味を、今の直斗は知っている。
愛するという言葉の意味も。
だがそれを、理不尽に奪われる辛さは、まだ、知らない。
けれど、想像することは出来る。それは身を千切られるような痛みと絶望。
彼は――――花村陽介は、その辛さを知っている。
奪われたのだから。明日もきっとあると思っていた日常を。
想う人を。
「思えば花村先輩は・・・・・・強い人ですね」
ほぅ、と息を吐く。もし自分だったならば。置き換えて考えてみて、首を横に振る。
彼を唐突に奪われたとしたら、きっと立ち上がれない。指の一本すら動かせない、糸の切れた操り人形のようになってしまうだろう。
直斗は、花村先輩はすごい、と思う。自分に出来ないことだから。
きっとそれは、男とか女とか、そんなことは関係のないことなのだ。
「ああ、そうだな」
電話の向こうで、彼が頷いた。そして、
「ついでに言えば、優しくていい奴だぞ」
「え?」
「今日、花村から電話があってな。直斗に電話をかけて、話を聞いてやってくれ、って言われたんだよ」
あ、と思う。
そこまで、優しい。
「なんのことか、と思ってたけど――――ホント、いい奴だよ」
「ホントですよ」
僕が傷ついているかもしれない、とそう思って。
一番の薬を、気付かないうちに手配してくれて。
なんて――――なんて優しい。
こみ上げてくる感情に、涙腺が決壊してしまう。
理由はわからない。だが、涙が止まらない。
その夜。直斗は静かに泣き続け。
彼は電話の向こうで黙ったまま、だがずっと、側に寄り添っていたのだった。
翌日。
泣き腫らした目を、りせにどう説明しようかと迷いながら登校した直斗は、桜の木の下で、風に舞う花びらを眺めている陽介の姿を見つけた。
その姿は、いつもの彼のもの。
けれど、瞳は優しく笑っていて、ただほんの少しだけ寂しそうで。
きっと、去りし人を想っている。
直斗は、名探偵としてではなく、一人の少女として直感的にそう気付き。
そしてまた、少しだけ、泣きそうになってしまったのだった。

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