2005/2/14
尹東柱の獄中の2年間は、詩を書いていないのか、書いたけれど残っていないのか不明だが、1942年の、立教大学時代の5編の詩が絶筆であるらしい。その辺りも、東條の生涯と、理由は大きく異なるが、最晩年の、詩がないことは共通している。
村井メモに引いた詩「白い影」も、その5編の中の一つです。
日本の植民地治世下にあって、日本語を強制的に教育される中、母国語を最後まで捨てなかった、その為に、独立運動をしたという嫌疑で、検挙され、命まで奪われてしまったのである。
それにしても、尹東柱は、なぜ、思想弾圧の厳しい日本に来たのだろうか?
キリスト教の信仰から、はじめ、立教大に入学しているが、立教は、昭和17年には、厳しい軍の圧力が掛かっており、尹東柱も、入学間もなく頭髪は丸坊主にされている。
あまりの軍の圧政に、失望をして、京都の同志社に、その年、編入をしている。京都では、つかの間、日本人との友人にも恵まれたようだが、まもなく、検挙されてしまったのである。
柿の木掲示板で、新渡戸稲造の、戦争中の、キリスト教と武士道の話が出ていたが、立教大は、イギリス聖公会を柱にしているために天皇崇拝の校風があったようで、すすんで軍部と関係をもったのではないでしょうか。
尹東柱は、最後まで、母国語の誇りを通して、ハングルで詩を書き通した。
東條は、北條が天皇は偶像であるというようなことを日記の書いていますが、東條も同じ考えをしていたでしょうが、また、東條の資質としては、新渡戸と同じ武士道的な考えも持っていたのではないでしょうか。相反する矛盾したものが、あの戦争の武士道のように思います。東條の、「国旗」は、私は、そのように読んでいます。
尹東柱という、精霊な青年の命を奪った日本人の責任は逃れようもありませんが、そのことを顧みず言えば、尹東柱は、純粋に、ひと筋に、キリスト者として、朝鮮人として、誇りを持って生きることが出来た。神に愛されていると言うことを疑うこともなかったでしょう。それは、ある面、幸せであったと思います。
一方、東條は、ハンセン病という最も重い病苦に、キリスト者として、何故ここまで苦しまなければならないか、神との間で、内面の葛藤があったことでしょう。その上に、戦争の思想弾圧が重くのし掛かってくる。どこにも己の気持ちの称揚するところがない。身もこころも沈むばかりだったろうと思います。私は、その東條の苦悩の中で書かれた詩を尊いと思うのです。
もちろん、尹東柱の清明な詩も愛するものです。
国旗 - 東條耿一 -
白地を浸し
日の丸を抜き
露ら 群をなして
光りぬ
光りぬ
萬象をひとつに孕み
瞬間を燦と光りぬ
静づ静づと竿を濡らし
こころよく肌へをめぐり
露ら 虔しく 鮮やかに消えぬ
ひとつ、
またふたつ、
(悲しきか)
(あらじ)
(嬉しきか)
(あらじ)
日に遭ひて更に光りぬ
風勁ければ
彼等一瞬にして麗はしく死絶へぬ
(はた風の吹かざるもまた・・・)
こは何ならむ
露ら知らじ
とこしへに露ら知らじ
―ただ日の丸の紅きを知るのみ。
(昭和十二年「山桜」十二月号)

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投稿者:アルジャーノンに花束を
ふと思うのですが、療養所に居ても居なくても一般の目に
触れる形で出版されてもされなくても、ご本人が文芸活動を
していたのだと自負があれば、立派なジャンルでは無いかと。
そして、それがご自身にとってどんな意味を持つのかはご本人が
一番よく判っていたのであって、後の付帯価値は後の世の人々の
主観に過ぎないのは無いかと。蛇足ですがそう思います。
投稿者:アルジャーノンに花束を
そうですね、個人的な思いこみが激しすぎたかもしれません。
些か的はずれだったと、反省してます。こちらのHP全体の
内容を否定したかった訳では無いので、今後も気にせずに
活動を続けてくださいね。
投稿者:しゅう
アルジャーノンに花束をさんのおっしゃることは、文学の世界ではありません。
東條も、北條も、純粋に文学をしたいと願った人です。そして、それが、療養所の環境上、叶えられなかった人です。
いまのこの時代になっても、アルジャーノンに花束をさんの仰るようなことで、彼らの文学を読んでしまっては、二重に彼らを貶めることになると、私は思います。
投稿者:アルジャーノンに花束を
幾つかの点で誤解を解いておきたいのですが
まずは、私の発言が誰か他の方と勘違いされた様子ですが。
何度かあげられた名前は、まったく無関係と申し上げてます。
問題を感じた記載と言うのは、ブログ上のハンセン病文学に
関しての取り扱いで、ご存じだと思いますが国立の療養所内に
「高松宮記念ハンセン病資料館」と言う資料館があります。
これは、従来福祉に高い関心を抱いておられた高松宮様が当時の
現状を憂いて、資金援助に関して賛同の意を示して下さった為に
多くの民間、その他からの援助を経て資料館が出来上りました。
その後、出来上がった財団法人東楓協会もその流れを組んでおり
後のふれあい財団に、移行していきました。
ハンセン病問題を扱う方のHP上で、皇室との関連を扱った記載は
過去に例を見ないのですが、それは自身が遣り取りをしている方が
具体的に療養所内におられる場合に、その方への影響を考慮しての
事なのだろうと思います。そう言う意味で、当時の記載から愛国に
対する抵抗感を示した作品を、抜粋されていくのは故人であっても
その方が反体制側の人間と、HPを閲覧された方には目される訳で
現実にその方の、遺族又は知人友人の方が存命中であればそれらの
事に対して、配慮されるべきではないか、と言う意味でした。
また作家扱いで良いのかどうか、と言うのはハンセン病文学に関して
作品そのものよりも、作者のプライベートに記載が傾き過ぎでは
無いかと思える点が、幾つか見受けられた点です。ご自身の身元を
伏せたがる方達も多いので、そう言う記載はWEB掲載前に関係者の
方のご了解を得た方が良いのでは無いかと言うニュアンスでした。