2005/3/6
北條が亡くなると、川端康成は、「北條民雄全集」を編集するから北條が書いていたものすべてを送るように療養所と、北條と親交のあった園友に要請をします。
北條民雄の日記は、ずっと日記を見せ合ってきた、東條の手もとにありましたが、川端の要請で園に差し出し、提供しています。ただ、最晩年に書いた当用日記だけ、内容に2カ所気がかりな点があり、自分の手元に持ち、それを、書き写して一応問題のないように伏せ字などして、川端康成へ、妻文子の父に託して届けられたのです。東條がそこまで気に留めた、一点は、天皇制について書いている点、あとの一点は、林院長、並びに内田守人について書いている点でしょう。その部分を書き出します。
1月28日
民衆から(天皇)を奪つたら後に何が残るか。何にも残りはしないのだ。彼等はこの言葉の中に自己の心のあり場所を求めやうとしてゐる。それは何千年かの間に築かれた(偶像)であるにしろ、しかし彼等はこの(偶像)によつて心の安定を得てゐるのだ。それは国家そのものに対する態度である。現在の彼等にとつてはこれのみが残された唯一の(偶像)なのだ。重要なのはこの点だ。
3月28日
しかし(事務員共)よ、(汝等)は余にこれだけの侮辱を与えてそれで楽しいのか?
しかしこんなことを云ったとて分かる奴等ではない。
彼等の頭は不死身なのだ。低俗なる頭には全く手のつけやうもない。
(内田守人)の文章を読むと、(林院長)は癩文学を保護してゐるさうだ。笑はせやがる。
(内田守人)には二度会ったことがあるが、愚劣極まる男だ。私も十二年癩文学のために努力してきましたよ、と何度もくり返して平然としてゐられる男だ。誠にもって(癩療養所の医者)にはろくな人間がをらぬ。

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