2005/2/5
我々は暗黒時代ともいうべき世紀末的苦悶のうちに蠢いてゐたのでもある。がこの一二年に於ける療養所文芸の動きは我々に仄かなる光明を暗示してゐるかのようにも思はれるのである。徐々にではあるが順当な発展を遂げつつあるやうである。一ツの転換期乃至過渡期と見ても差し閊へないだらう、今迄の政策的、機関的文芸から脱出してそのヘゲモニーは我々の手に収められてゐる、そして自己の文学として力強い意欲を見せるやうになつてきた。しかしまだ我々のものとなつてからの文学した期間は極く纔かのものでしかない。
於泉は、「今迄の政策的、機関的文芸」のことを「暗黒時代ともいうべき世紀末的苦悶」と言っているのではないだろうか。この文章からはそう読むことが出来ると思う。
「政策的、機関的文芸」とは、療養所の中で文学が奨励され、ほどほどの自己表現によって、癩患者としての苦悩を慰める、文学は、療養所側にとって慰安事業であったのである。そして、その文学は、検閲があり、思想統制めいたものがされていたのである。
そういうことに敏感なインテリには堪え難いプライドを傷つけられてきたのだと思う。北條民雄も徹底して検閲を嫌った。於泉はそれを「暗黒時代ともいうべき世紀末的苦悶」と言い放ったのだと思う。
この評論が書かれたのが昭和十一年十一月です、この時期を療養所文学の「転換期乃至過渡期」と於泉は見ています。
北條民雄の入園で発足した「文学サークル」が昭和九年の末に出来ています。昭和十年は、北條民雄の「いのちの初夜」が、文学界から発表され、大きな反響を呼んでいる。若い於泉が、
今迄の政策的、機関的文芸から脱出してそのヘゲモニーは我々の手に収められてゐる、そして自己の文学として力強い意欲を見せるやうになつてきた。
この時期、このように、希望的観測を述べていることでも分かるように、全生園では、文学への希望、期待の、烈しい熱が盛り上がっていたと思われる。その、中心的な存在に、北條がこころの友とする、東條が居ることは間違いがない。
東條もしきりにこの時期、「四季」「文学界」「蝋人形」「詩人時代」などの一般誌に投稿し、そしてその中で一般の文学愛好者を尻目にして特別推薦詩人に引き立てられていたりする。
我々のものとなつてからの文学した期間は極く纔かのものでしかない。
我はまだまだ自己認識自己検討に費した労力は充分とは云へないのである。
結果的に、東條の生涯を通してみても、文学が、療養所の入園者自身のための文学であったのは、北條民雄只一人であったのではないだろうか。東條も、北條亡き後(昭和十二年十二月)、一般誌への投稿を打ち切っているようだ。(まだ詳細には調べて尽くしていないが。)
東條のように、インテリで、無口で激しい性格であっても(光岡良二が東條の人物評をこのように書いている)、於泉の言う「 自己認識自己検討 」、「 真摯なる人生探求者 」としての文学の道を、挫折しているのである。
その理由に、日本が太平洋戦争に突入していって、思想的に、日本国中がイメージの貧困化したということも、大きな理由にあると私は思う。日本男子が、国家存亡の時、療養所という社会の扶養者という引け目が、東條の思想を痩せさせたと思う。一般誌自身が、思想的に痩せている。療養所は、一般社会より一層そういう環境に弱かったと私は想像する。東條の生きた時代が悪かったということに尽きるように思う。
最後に、もう一度、於泉の求めた文学は、実現し得なかったけれど、於泉たちが理想とした文学論を読んで、彼らの無念を、噛みしめたいと思う。
「暗さ」を取り除くことのみ汲々としてはならない。余りに「光」を求むることのみ急であつてはならない。我等は深長なる考慮のもとに不断の思索を怠らず、慥かりと大地を踏みしめて、この現実を凝視しその中に自己の真の貌を発見してゆかなければならない。「汝の立つ所を深く掘れ。そこに必ず泉あり」と教えるニーチェの後に従いて、真摯なる人生探求者として、あらゆる障碍に挫けず我等の途に踏み出すべきであらう。そして人間本然の貌に立ちかへり、内部生命から迸り出る真の要求に向かって進むべきである。

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