2005/5/11
沼津の千本浜公園に「明石海人の碑」がある。

歌碑が3つ、それと明石海人を紹介する碑と「白描」の序文の5つの石碑が、人の字に並んでいる。ここに意味が込められているのかも知れない。
左から
歌碑「シルレア紀の地層は沓きそのかみを海の蠍の我も棲みけむ」
歌碑「ゆくりなく映画に見ればふるさとの海に十年のうつろひはなし」
海人の紹介
中央の(画像では右手になるけれど)歌碑、
さくら花かつ散る今日の夕ぐれを幾世の底より鐘のなりくる
「白描」の序文
以上の5つが並んでいるのである。
歌の解釈は、とてもよいサイトがあるので、そこを参照されてください。
歌碑に刻まれた歌とその歌意
皓星社の藤巻さんが、海人の碑に、誤植があるというようなことが、「東風吹かば」に書かれていたが、それは、「白描」の序文の碑にあるらしい。

> 「おえつ(嗚咽)」が「鳴咽」、「こうこう(膏肓)」が「膏盲」。
この碑の中から、上の誤植を見つけるのは、とても難しいことのように思う。さすが!である。
海人の紹介の碑に
明石海人(本名野田勝太郎)は明治三十四年七月五日、現在の沼津市に生まれ、駿河湾と沼津千本松原を遊び場に成長しました。沼津市立片浜小学校から、静岡県立沼津商業高等学校を経て、国立静岡大学教育学部で学びました。
やがて、二十五歳の教員時代に業病と蔑まれたハンセン病を発病。妻子と別れ、転々と療養地を彷徨いますが、岡山の小島に建設された、国立癩療養所「長島愛生園」に隔離収容されます。
長島での闘病生活はハンセン病の三大受難と言われる、知覚麻痺、失明、気管狭窄に襲われ、療友の献身に支えられた壮絶な日々でした。しかし、その苦患の闇に光を求め、文学に志し、歌人として弛まぬ精進を続けます。昭和十四年二月、死の瀬戸際に出版された歌集「白描」はベストセラーになりましたが、同年六月九日、孤高の歌人は三十七歳の生涯を閉じました。略
平成十三年七月五日 明石海人顕彰会建立
このように書かれていた。
本名まではっきりと、碑に刻まれている。
皓星社では、1993年に「海人全集」を出版している。とても高価な本なので、図書館で読むしかないが、まだ、私は、目にしていない。
そこには、海人の本名、出身地、両親まで、記載の理由と経緯まで明らかにして掲載されているようです。早めに、実際に読んで、この部分の補足をしたいと思います。
「北條民雄全集」は1996年に復刻し、2003年に再版になっているが、そこには、北條民雄の本名は記載されていない。
風見治さんは、1996年の「鼻の周辺」海鳥社を出版されるときは、本名を明らかにされなかった。2002年の「季・時どき」海鳥社を出されるとき、本名を併記された。
私は、ハンセン病の、偏見と差別の暗い歴史を超えて、このことが親族に受け入れられ、ひろく社会に受け入れられていくようになっていってほしいと思います。
新しい社会へ、踏み出してゆく良い流れを、と願わざるを得ません。
「海人の碑」は、松の木立の木漏れ日が、斑に、それがまるで宝石を散りばめたような、清々しい、神々しい、雰囲気がありました。

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