2007/7/18
また、この頃ではなかったでしょうか、東條が、コッサール神父に「キリストが十字架に磔柱になろうが、どんな死に方をしようが、私には別にかかわりのないことである。」と言ってしまったのは。神父様は呆れて東條をじっと見つめていたが「あなたの云われることが真実だったら、私がはるばる日本に来た意味もないことになるのです。」と言われたらしい。東條の文学へ寄せる期待が、このように言わせたのではないかと思います。しかし、東條は、神父様の云われることを深く胸に収めて、すぐに反省をしたのではないでしょうか。
東條は、昭和11年に妹立子の親友、文子と結婚をしています。当時全生園では女のもとに男が通う通い婚でしたから、妹は、男女のそうしたことに戸惑ったようですが、やがて、それを通して急速に大人になったと回想しています。文子さんの人柄について、立子さんは、「貞淑でつつましく、献身的に兄に仕えた。仕えるということは、この義姉の姿をさしていうのであろう」と言っています。
また光岡は、「文子さんは、近代女性史のなかで著名な人の姪であった」と著書に書いています。しかしそれ以外のことは、文子さんについて、生年月日も、亡なった日も、一切の記録が不思議にも全生園に残っておりません。ただ、カトリック愛徳会では、いまも文子さんの命日近くのミサにおいて、お名前が呼ばれています。ただそれだけの痕跡しかありません。
東條は、目に絶望的な悩みをもっていました。失明すれば、文学を諦めなければならない。詩を書くこと、文学をすることは、生きることでもあった当時の東條には、詩が書けなくなるということは死に等しかった。文子さんに結婚を断られると死ぬしかないと、北條に心配をかけています。そうして、東條は文子さんと結婚したのです。詩「桐の花」(昭和11年9月号)は、文子さんへ寄せる思いが、詠まれているのではないかと、私は思っています。この作品から、東條は、東條環から東條耿一に名前を変えています。当時結婚と言っても初めは通い婚で、しばらくすると一緒に住む宿舎が与えられたようです。
文学的には、東條は、三好達治に私淑しており、三好達治の同人誌「四季」に、北條民雄の経済的支援を受けて、加入していました。昭和12年に、詩「青鳩」、「靄」、「樹樹ら悩みぬ−北條民雄に贈る―」の三篇が掲載されています。しかし、三好達治との間に感情的な何かがあり、東條はすっかり失意し、投稿を止めてしまいます。
北條とは、日記も見せ合い、何でも語りあいました。「霧の夜の風景に詠める歌」(昭和12年「山桜」6月号)に、
激しい議論の後 友は去り 私は暫くをこの美しい風景に見入る
君は口の酸つぱくなるほど人間を説いた 偉いと思ふ しかし
君はあの病床の夥しい肉塊を知つて得よう さうして自己を
生き乍ら腐つて行く亡んで行く肉体に
何の精神 何の立派な統一性があらう
否定し給へ 否定する事だ 否定し去つた後にこそ
新しく生れる血の滾りを覚え
肉の孕むのを知るだらう ああしかし…
とあります。何を議論したのでしょうか? 私は、人間と神の存在の議論ではなかったのかと思います。北條の生存中は、東條も教会へ足を向けなかったようですが、東條の胸の中では神の存在はしっかりと位置していたと思います。詩「夕雲物語」(昭和12年「山桜」10月号)など東條の信仰がよく作品に反映されていると思います。東條は、北條にも神の存在を認めてもらいたいと思ったことでしょう。東條はカトリックですから、死は裁きの日でもあり、「復活」の喜びでもあります。それを、東條は北條と共に浴したいと思ったに違いありません。しかし、北條は、信仰は現実逃避麻薬のようなものというところに立ち、最期まで信仰は持ちませんでした。
北條が亡くなったのが、昭和12年12月5日です。北條が書いていた日記は、お互いに日記を見せ合ってきた、東條に預けられました。しかし、川端康成から「北條民雄全集」を編むので、遺稿を全部すべて送るようにという要請を受けます。
北條の日記は、大学ノートに書かれた「全生日記」と昭和12年の最晩年に書かれた「柊の垣にかこまれて」という当用日記がありました。全集が編まれた時、その当用日記のみ、その筆跡が違うことが謎になっていました。それは、東條が筆写して、検閲を逃れるために、文子の父親に託し、川端康成のもとに郵送された為だったのです。その日記には天皇批判も書かれており、それが検閲されれば没収は必然であり、北條民雄全集という企画も、川端康成先生にも災禍が及んでしまう、それを東條は恐れたのかも知れません。
その上に、北條の直筆のものを遺品として、東條の身辺にどうしても残しておきたかったのかもしれません。東條は、北條の遺骨のかけらを箱に入れて、北條の日記と共に、生涯身近に置いていました。
北條は、検閲を嫌い、園誌「山桜」にはあまり作品を出しませんでした、直接、川端康成に原稿を送り、川端に認められて「文学界」に発表することが出来ました。北條のいた時代のみ、療養所の文学は、比較的、純粋に文学が出来た時代だったと思います。東條は、昭和12年2月号「初春のへど」で、「現實はもつと負担されねばならないのだ。・・・・・私の詩作は負担である義務である。」と言っています。ハンセン病の発病による宿命を文学で乗り越えようとしています。
北條の亡くなったあとは、園内外に北條批判がもち上がります。日戸修一は、全生園の医師であり、北條の生存時代は北條と親しく交わっていますが、昭和14年3月号「医事公論」に、「療養所は文化機関ではない。ああいう全集を余り思慮なしに出した川端康成氏等の軽率な罪はとにかく非難していい。余りいい癩文学などは実際から言うと必要ない。黙って患者を収めて、ぢっとして消滅する日を待てばそれでよかろうというものである。」などと書いている。療養所内の文学環境は大きく変わってしまったのではないでしょうか。療養所の文学が、施政者のプロバガンダに利用される傾向が強くなっていったように思います。北條と共に純粋に文学をした、東條にとってこれは大きな失望であったに違いありません。昭和13年9月号に「鶯」という詩があります。
鶯
捉はれて
小さな籠の明け暮れも
障子圍ひや 温室住居
外は牡丹の雪降るに
春ぢや
春ぢや
と教へられ 思はず
ケキョ……
知らずに
ホケキョ……
と啼くいてみた
嗚呼やつぱり生命の限り
歌はにやならん 私の性
とても皮肉な詩だと思います。「春ぢや 春ぢや と教えられ ・・・ ホケキョ…と啼く」プロパガンダでも何でも歌わなければいられないと吐露しているのではないでしょうか。
そうした苦しい詩作のなかで、「夕雲物語―その二」(昭和13年10月号)、「一椀の大根おろし」(昭和14年9月号)という東條の代表作が作られています。
昭和16年にはいると、東條の詩はぐっと減ります。昭和16年1月号の「天路讃仰」以降、没するまでたった3篇の詩しかありませんが、表現が大きく変化しているように思います。美しく象徴された韻律の響きも良いものから、そういうことにまったく配慮をしない、自分の心象を素朴に生々しく表現するものへと変わっています。東條にとって立派な詩であるということに意味を持たなくなって行ったのではないかと思います。詩への価値観が大きく変化をしたのだと思います。
それと同じくして、カトリック誌「聲」へたくさんの手記を書いています。

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