2005/2/10
東條は、山桜に( 山桜S12、2月号 )次のような、( 東條のおかれている状況がいかに厳しいものであったか、それを知ることの出来る、) 彼の文学観について、彼自身、書いているものがある。
義務の文学
東條耿一
室生犀星は復讐の文学と云つた。また或る詩人は、ああ現實は復讐されねばならない。と詠嘆して復讐の詩作を宣言した。然し私は負担の文學義務の文學と云ひたい。現實はもつと負担されねばならないのだ。われわれ人間の、現實への負担は極めて大きい。現實はわれわれ人間に對して益々負担を過重し、偉大なる義務を要求してゐる。人間は生れ乍らにして負担を輕くする義務をもつてゐる。宇宙は負担に滿ちてゐる。われわれは義務の哲學、義務の思想、義務の行動を採らねばならない。私の詩作は負担である義務である。さうして私が私の義務を遂行し了はつた時、私は死ぬであらう。
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谷内修三さんにいただいたご意見を、谷内さんがとても東條のこころを掴んでくださっているように思いますので、紹介します。
しゅうさんが紹介している「義務の文学」(東條耿一)を読みました。東条は「義務」と「負担」を重なる形で使っています。「負担」とは「義務」である、というふうにとらえていると思います。
特に印象に残ったのは次の部分です。
>現實はもつと負担されねばならないのだ。
現実を負担する義務が(されねばならない)――これは一般論的な表現に見えるけれど、本当は、東条の決意ですね。現実を負担する義務がある、と東条は東条自身に言い聞かせているのでしょう。
あるここには、東条が現実からけっして目をそらさずに生きていこうとする決意があらわれている。
そして、見逃してならないのは「もつと」に込められている決意です。
これは、単に病気であるという現実、病気と向き合って生きるということを超えた決意だと思う。
そこにあるものを負担するだけではなく、その背後にあるものを負担する。
その背後にあるものを負担しきれたとき、東条は「宇宙」の負担――真理にたどりつく。そこまで現実を負担しなければならない。
自己の現実を超越し、その背後にあるもの、宇宙の(あるいは世界の)真理につながる、ということだろう。
>私の詩作は負担である義務である。さうして私が私の義務を遂行し了はつた時、私は死ぬであらう。
ここに書かれている「死」は肉体としての死ではない。
「私」という個人は死に、私という枠を乗り越えて生まれ変わる、再生する、という意味だ。
再生した人間にとって、再生前の人間は「死」。
死ななければ、人間は再生はできない。
聖書で言う「一粒の麦死なずば……」で書かれている「死」である。
とても強靭な決意だと思う。

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