2005/3/25
北條民雄の最晩年(昭和12年)の日記、3月22日に下記のように記されている。
先ず盲目になる。それから指も足も感覚がなくなる。続いて顔、手、足に疵が出来る。目玉をえぐり抜く。指の爪が全部落ちる。頭のてっぺんに穴があき、そこから膿がだらだらと出る。向こう脛に谷のような深い長い疵が出来る。包帯の間にフォークを挟んで飯を食う。鼻血だらだらと茶碗の中に流れ落ち、真赤に染まった飯を食う。さてそのうちに咽喉がやられカニューレ呼吸をする。毎日毎日金魚のようにあっぷあっぷとくるしがりながら寝台の上で寝て暮らす。夏ともなれば蛆が湧き、冬ともなれば死んじまう。それ、焼場で鐘が鳴っている。北條民雄が死んだのだ。
東條耿一の昭和10年の詩に
大境の子守唄
終日―――
病金魚の如く寝台に浮かべば
郷愁は疼く病胸を貫き
ふかぶかと克明の死脈を越えて
おゝ、流れて来る子守唄がある。
白壁に冬蝿は不動と合掌し
晩鴉は枯木に苛苛と祈れど
嗚呼、蒼白の輪燈は
光明無明の大境に明滅し
凛、凛と空中に映へ
地下に響きて
父ならず、母ならず
将又、祖先にあらず
聴こえ来る、響き来る
・・・・誰が哀音(うたね)そ。
がば!! とどす黒き喀血は
終曲に一枚の地圖を加へて
燃上がり、かき消ゆる輪燈よ。
のた打ちつ、仄めぐり
潮の引く如く消えて行く
あゝ・・・・消えて行く
. ・・・・子守唄よ
(昭和十年「山桜」五月号)
このような詩があり、詩の中に、金魚が・・・ふかぶかと・・・と出てきます。病躯を金魚に比喩しています。療養所と言う環境の中で病むと言うことが、病気の金魚にメタファーされているのです。あっけなく死んでゆくと言うことが暗喩されているように思います。
この詩を、北條も読んでいたと思います。それが、記憶にあったから、日記に
毎日毎日金魚のようにあっぷあっぷとくるしがりながら寝台の上で寝て暮らす。夏ともなれば蛆が湧き、冬ともなれば死んじまう。それ、焼場で鐘が鳴っている。北條民雄が死んだのだ。
この様に書いているのだと思います。
一方、東條も、北條のここに書いている
包帯の間にフォークを挟んで飯を食う。
を引用して下記のような詩を昭和14年に、東條耿一は書いています。
一椀の大根おろし
初夏の宵なり
病み疲れた寝臺に起出でて
ほろ苦き一椀の大根おろしを喰らふ
肌あらき病衣に痩躯を包み
ぼつたりと重き繃帯に肉(フォ)又(ーク)を差込み
わたしはがつがつと大根おろしの一椀を喰らふ
思へば病みてより早や幾とせ
げにこれまで生きながらへて来たるものかな
一驚を喫す 一驚を喫す
見よ、己が姿(かげ)を
而して思ひをなせ
日夜 病菌の裡に住へど
かくいのちの在るは嬉しからずや
貧しき一椀の大根おろしを愛ずるは幸ひならずや
われとて何時の日か
父の御許に帰り行くらん
なべてはそれまでの愛の十字架
ああ忘れ得ぬ人の世の一事ならずや
さらば 喰らはん 餓鬼の如くに喰らはん
大根おろし 大根おろし
涎と汁とそして涙と
ああ初夏の宵の一椀の大根おろし・・・・・
(昭和十四年「山桜」九月号)
二人は、短いたった3年間の交流であったが、互いに日記も作品も見せ合い、互いに心を晒して、話し合っている。
東條は、北條より一年前に入園している。東條は、隔離されて入る一般寮舎。北條は、治療費を自分で払う相談所患者。同じ全生園でも環境がおおきく違い普通はその間の行き来はない。だから、たった5人の文学サークルが出来たといえども、北條が東條とゆっくり話をするのに半年以上過ぎてからです。
昭和9年12月27日に、はじめて東條の名前が北條の日記に登場する、「東條君と永い間語る」と記されている。そして、次のようにつづく。
帰ると八時。暫くの間五号で語り合った興奮が覚めないのでじっと火鉢の前に坐って黙想する。佐藤君は眠っている。静かだ。久しぶりに味わうこの気持ちーー文学を語った後の余韻とでも言おうか額の中にはほのぼのと上がる熱気を感じながら、あくまでも冷静な四辺につつまれる気持ちーー亀戸時代のメランコリーに似た侘びしさだ。
私は、北條民雄の「いのちの初夜」に書かれている佐柄木の言葉、
人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言ふこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人達の『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ生命だけがぴくぴくと生きてゐるのです。なんという根強さでしょう。誰でもらいになった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく廃人なのです。けれど尾田さん、僕等は不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然らい者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活、そう復活です。ぴくぴくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それが何処から来るか、考えて見て下さい。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか。
これは、この小説のもっとも印象深いところですが、療養所で生きると言うことの、生き様が描かれています。
この佐柄木は東條がモデルではないかと、そしてこの佐柄木の言葉は一年先輩の東條の言葉で、この12月27日の東條と初めて話したそのなかの会話ではないかと、考えています。
「いのちの初夜」は、川端康成が修正したタイトルで、はじめ北條は「最初の一夜」としていたと思われます。東條との出会いが、北條にとって「最初の一夜」だったのではないでしょうか。そういう思いが込められていたのではないかと思います。
作品を読んでいると、二人の思いは陰と陽、陰の東條、陽の北條と言えると思うけれど、お互いが刺激し合い、作品に反映されている。作品を通して深い関係性を見ることが出来ます。

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2005/3/20
読後感想。
男(わたし)の、気まぐれな性欲のエゴで犯した、森田ミツという女性の短い生涯の話である。
森田ミツは、田舎者まる出しで、スタイルも悪く、歌う歌も低俗で、気のいいだけの女である。
男に棄てられた後、風俗に身を落とし、腕の斑紋からハンセン病と誤診される。
御殿場の復活病院(復生病院がモデルのようだ)に入院し、2週間後に誤診と分かる。
しかし、東京には戻らず、病院で患者さんの世話を献身的にし、ある日交通事故で死す。以上が、ミツの大ざっぱな生涯だ。
ハンセン病の施設に入院した2週間、ミツが世俗を断ち切って、施設で生きてゆく運命を受け入れる苦悩、絶望から這い上がる気持ちの軌跡がていねいに書かれている。北條民雄の「いのちの初夜」より、人間の絶望から立ちあがる生命の治癒力ようなものが書かれているように思った。
それにしても、ミツは、どうして、男のいる東京に戻らなかったのであろうか?戻っても、男とは将来、誠実な関係にならないことが、読者には分かっているから、施設に残ることを当然、良い選択のように思うが、それは読者の感情である。遠藤周作にとって、この本の主題が、ここにあり、重いテーマがあるのだと思う。
武田友寿が解説に書いているが、苦しみへの共感、「運命の連帯感」、ミツはいつでもどこでもそうなんだ、それがミツの聖なるところだろう。人間性の高さは、教養でも、知性でもないのだと思う。
ミツは、「なぜ、悪いこともしない人にこんな苦しみがあるのか?」と、神を否定している。
東條もこの点でおおいに苦しんだ。神がほんとうにいるのなら、これほどの祈りに何も応えられないのが理不尽のように、私も思えてならない。
ミツの、聖なる心、そして行動こそ尊いと思う。
「運命の連帯感」、そして、共に回復しようとする心と行動、忘れてはならない。

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2005/3/14
尹東柱の
序詩
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)
1941年に書かれている、尹東柱が25歳の若さだ。この詩は、高校の教科書(筑摩書房)にも入っていて、茨木のり子さんが、若くないと絶対に書けない清冽な詩と書いている。
http://homepage2.nifty.com/taejeon/Dongju/Chikuma.htm
1945年に、福岡の檻房で獄死するのだが、その自分の背負う運命を予感しているような詩であることに驚かされる。
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
日本の植民地化され母国語を奪われ、日本語の教育をされても、一編の詩も日本語では書いていないと、尹東柱は胸を張るのであろう。
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
この詩を書いたすぐ後に、日本へ留学してきているのだ。
「わたしに与えられた道」とは、尹東柱は何を考えていたのだろうか? 尹東柱の親は、医者になることを望んだが、文学の志を捨てられなかったらしい。
日本へも当然、文学を学びに来たはずである。
「日本人作家では、立原道造、三好達治、北原白秋、小川未明などを読んでいる。」と、生い立ちに書かれている。
尹東柱も、東條耿一と同じく、三好達治の詩を好んでいたのである。村井メモに、尹東柱を取り上げたとき、東條の詩と文体的に似ていることを先ずはじめに書いたが、二人の文学は共通するものがあると言うことである。
東條の資質にも、尹東柱とおなじ、清冽なものを持っていると私は思います。
ただ、東條の場合、それに徹することが東條の環境の中でできなかった。東條は、あまりに過酷ななかで詩を書いていたのだと思う。尹東柱の「序詞」に、東條の「鞭の下の歌」を添えたい。
鞭の下の歌
ちちよ ちちよ
いかなればかくも激しく 狂ほしく
はた切なしく われのみを打ちたまふや
飛び来る鞭のきびしきに耐え兼ね
暗き水面の只中を泳ぎ悶轉(まろ)べど
石塊(いしくれ)の重き袖は沈み 裳裾は蛇の如く足に絡みて
はや濁水はわれを呑まんとす
おお わがちちよ
なにとて おん身 われを殺さむとするぞ
死にたくはなし! 死にたくはなし!
卑しく 空しく いはれなき汚辱の下に死にたくはなし!
好みてかくも醜く 病みさらばへるにあらざるを
おん身の打ち振ふ 鞭は鳴り
鞭はとどろき
ああ 遂にー
鼻はちぎれ 額は裂けて血を噴けり
おおされどわれ死なじ 断じて死なじ!
たとへ鞭の手あらくなりまさり 濁水力を殺げど
おん身の心やはらぎ 憐情に飢ゆる時までは
おおその時までは 血を吐き 悶絶すとも
おん身の足下に われ泳がん 泳ぎて行かん。
(昭和十二年「山桜」六月号)

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2005/3/6
北條が亡くなると、川端康成は、「北條民雄全集」を編集するから北條が書いていたものすべてを送るように療養所と、北條と親交のあった園友に要請をします。
北條民雄の日記は、ずっと日記を見せ合ってきた、東條の手もとにありましたが、川端の要請で園に差し出し、提供しています。ただ、最晩年に書いた当用日記だけ、内容に2カ所気がかりな点があり、自分の手元に持ち、それを、書き写して一応問題のないように伏せ字などして、川端康成へ、妻文子の父に託して届けられたのです。東條がそこまで気に留めた、一点は、天皇制について書いている点、あとの一点は、林院長、並びに内田守人について書いている点でしょう。その部分を書き出します。
1月28日
民衆から(天皇)を奪つたら後に何が残るか。何にも残りはしないのだ。彼等はこの言葉の中に自己の心のあり場所を求めやうとしてゐる。それは何千年かの間に築かれた(偶像)であるにしろ、しかし彼等はこの(偶像)によつて心の安定を得てゐるのだ。それは国家そのものに対する態度である。現在の彼等にとつてはこれのみが残された唯一の(偶像)なのだ。重要なのはこの点だ。
3月28日
しかし(事務員共)よ、(汝等)は余にこれだけの侮辱を与えてそれで楽しいのか?
しかしこんなことを云ったとて分かる奴等ではない。
彼等の頭は不死身なのだ。低俗なる頭には全く手のつけやうもない。
(内田守人)の文章を読むと、(林院長)は癩文学を保護してゐるさうだ。笑はせやがる。
(内田守人)には二度会ったことがあるが、愚劣極まる男だ。私も十二年癩文学のために努力してきましたよ、と何度もくり返して平然としてゐられる男だ。誠にもって(癩療養所の医者)にはろくな人間がをらぬ。

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