2005/5/18
明石海人年譜
岡野久代編
一、「明石海人年譜」について
明石海人の生年は、海人の死の直後に虫明邦夫(医官=匿名)によって書かれた「宿命の歌
人明石海人の一生」(『婦女界』一九三九年「昭和一四年」八月)には一九〇一年(明治三四年)
と後の調査によって判明した正しい年か明記されている。しかし、なぜか長島愛生園医官・内
田守(「水甕」同人・雅号内田守人)は『明石海人全集』下巻(一九四一年「昭和一六」年三月、
改造杜)の年譜に、「明治三五年某日、浜松市に生る」とし、以後これか定説となった。
また実名、出生地はハンセン病患者の通例として伏せられてきた。理由は言うまでもなくい
われなき偏見差別から関係者に累を及ぼさないためである。前述の『明石海人全集』年譜中、出
生地を一浜松市」としていることについて、内田自身、『日の本の癩者に生れて』(一九五六年
[昭和三一年]七月、第二書房)の中で「この年譜は私が書いたのであるか、この浜松というの
は実は嘘である」と否定している。「某市と伏字してもよかったが、浜松市の名を借りても悪く
はあるまいと考えた]というのである。
山口女子短期大学教授太田静一は「文芸山口」九三号(一九七五年[昭和五〇年]四月発行)
に「明石海人再説」を発表して、生年月日を一九〇一年(明治三四年)七月五日と正し、いく
つかの新事実をも明らかにした。しかし、出生地は静岡県N市S町と明示を避けた。多恵全生
園の入園者光岡良二は太田から海人の戸籍謄本その他の資料提供を受け、療養所の機関誌『多
磨』(一九七六年[昭和五一年]一一月号から)に「幻の明石海人」を連載した。これは出生を
一九〇一竿とし、園内の機関誌だからであろうか、出生地が沼津市であることも述べている。
尤岡はまた内田の年譜中、発病から長島愛生園入園にいたる経過の記述に作為があるのではな
いかとの疑問を呈している。
そのほぽ二年後、内田守は『明石海人全歌集』(一九七八年[昭和五三年]八月、短歌新聞社)
を編集し、『明石海人全集』掲載の年譜にその後の関係図書の出版などを加え新年譜を作成した
が、生年月日、出生地など大半は旧全集のままであり、光岡の疑問にも応えていない。
一般の目にふれるかたちで明石海人の本名と出生地か明らかにされ、時期等の記憶には疑問
が残るものの、光岡の疑問に関係者から具体的な証言かなされたのは、松村好之著『慟哭の歌
八1明石海人とその周辺1』(一九八〇年[昭和五五年]六月、小峯書店)である。松村氏は明
石楽生病院時代から明石海人の療友で、キリスト教の信仰にたって本名を名乗っており、本書
の送稿の翌日重病室に入るほどの重い病状であった。しかし、ここでも生年月日は依然一九〇
二年(明治三五年)のままであったから松村も生年については通説に疑問を持たなかったので
あろう。
三重大学教授栗原輝雄は一九八七年(昭和六二年)八月出版した「生くる日の限り・明石海
人の人と生涯」(皓星社)の年譜の末尾に「太田静一氏には直接海人関係の資料の提供をうけた」
ことを述べ、生年月日は、一丸〇一年(明治三四年)七月五日とし、発病から長島愛生園入園
にいたる経緯もかなり整理された。しかし、本名、出生地および、自身の調査で突き止めた出
身の中等学校名はあえて伏せている。
一九八八年(昭和六三年)、静岡県の女性史研究家市原正恵が、季刊『静岡の文化・秋号』(第
一五号)に本名、出生地、出身校を公表した。これらは前述のように研究者の間ではほぽ周知
の事実になっていた事柄であるが、発表誌の性格上、広く一般の目に触れることとなり、故郷
に波紋を呼ぶ契機となった。この波紋は沼津市若山牧水記念館における全国初の明石海人文学
展(沼津牧水会主催沼津市教育委員会後援・一九九二年[平成四年]六月九日〜七月並旦に
発展し、沼津市民は「優れた歌人の出身地であると同時に、全国に先駆けハンセン病歌人の帰
郷を迎えた」名誉を担うこととなった。
以上のような明石海人年譜の問題点は、ハンセン痢に対する偏見差別が根強く、資料の制約
と調査に極度の自制が要求されるからであり、また、調査の前例もないのである。しかし、こ
うした年譜は明石海人の理解と研究には不可欠なものであり、このままでは後進の研究者はそ
の都度、海人の伝記事項を調査し直すこととなり、かえって海人の周辺を騒がす結果ともなり
かねない。
そこで、本年譜は本名、生年月日、出身地についての諸説を整理するとともに、筆者の調査
と資料に基づいて年譜の空白となっていた発病以前の経歴と、誤りの多かった発病から長島愛
生園入園にいたる間の動向を確認した。なお公表を差し控えた箇所や、枝葉の未踏の部分は多
岐にわたり、課題は多く残されている。
これを作製するにあたり、再度、明石海人研究はハンセン病に対するいわれなき差別・偏見
をただす視点を常に失わず進められなければならないことを自戒をこめて確認しておきたい。
年譜の作成にあたっては、日記、書簡、随筆及び著者に関する既刊書の年譜を照合して異同
を確かめ、調査・新資料によって、確認、補足、訂正を行った。論拠については適宜記載した。
年齢は、数え年をもって示した。
「海人全集」(皓星社)1993.3月.別巻より引用。
・・・・*・・・・*・・・・*・・・・*・・・・
上記の「歌人全集」に、海人の本名、出生地、生年月日など年譜にまつわる、公表までの、経緯が、詳しく書かれています。
もともとの発端は、1975年の、太田静一教授の「明石歌人再説」にあるようです。太田氏の研究と調査で、ほとんど出生に関することが明らかにされたようですが、まだ、その事実を公表するには、「らい予防法」が、現行で厳しく施行されており、当時は、明示を避けられたようです。
太田氏の研究が、その後、明石海人を研究をする人に受け継がれ、研究者の中では、ほぼ周知の事実になってゆく。
一般公開をしたのが、1988年、静岡の女性史研究家の市原正恵氏で季刊「静岡の文化・秋号」においてである。
そのことが大きな波紋となって、1992年沼津市若山牧水記念館において、「明石海人文学展」が開催されるに至った。しかし、その文学展は、らい予防法がまだ廃止になっていないので、制約されたものになったようです。
そして、1996年、らい予防法廃止。
沼津千本浜公園の明石海人の歌碑は、1997年、らい予防を廃止を待っていたように、「明石海人顕彰委員会」が発足し、遺子である、海人の長女(医師)とも連絡が取れ、歌碑建立の運びになった。
海人全集は、らい予防法廃止前の、1993年に出されている。海人の出生地、本人の本名の他に、両親、妻、子のすべてを遺族の了解の元に、明らかにした。海人の不明な部分をすべて明らかにし、それを掲載するということは、細心の注意が払われたことだろう。
引用の「海人全集」の編集者、岡野久代氏は、歌碑建立にも参与されたようです。
ハンセン痢に対する偏見差別が根強く、資料の制約と調査に極度の自制が要求されるからであり、また、調査の前例もないのである。
しかし、こうした年譜は明石海人の理解と研究には不可欠なものであり、このままでは後進の研究者はその都度、海人の伝記事項を調査し直すこととなり、かえって海人の周辺を騒がす結果ともなりかねない。
私は、この考えに賛成です。自制が過ぎては、研究は進まない。
研究はハンセン病に対するいわれなき差別・偏見をただす視点を常に失わず進められなければならない
「差別・偏見をただす視点」、そのことをつよく意識しながら、東條耿一の詩の編集に当たらなければならないと、いま思います。
明石海人の詩歌は、日本文学史上に輝く偉業を成し遂げている、それは、疑いようのないことだ。
海人だから、ここまで、出生の公表が進んだということかも知れない。明石海人以外に、出生地や両親まで明らかにしているハンセン病の人がいるのだろうか?北條民雄は本名すら公表されていない。
しかし、私は、明石海人だから出来たというのでは、それは、すこし、違うと思う、お粗末な社会だ思う。
明石海人も、東條も、文学に、己の意識を、崩れそうになる意識を立てて、それは砂の上につくる城壁にも似て難しいものだっただろう、そうして文学に向かったのである。
その尊い精神の領域は、海人も東條も同じなのである。
現代、らい予防法が廃止されたといえど、まだまだ、偏見が残っている。偏見がたやすく消えるものではないと、そのことを予防して、出生の公表が進んでいないようにも思う。
ハンセン病の、暗い歴史から、解かれた社会を願いたいものである。
最後に、明石海人のホームページを紹介しておきます。

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2005/5/16
岩波新書の「詩の中にめざめる日本」真壁仁編著(1966年、)古書で見つけた本に、光岡良二の詩を見つけた。
岩波の「伝説」には誤植が多い、ハンセン病文学全集にもこの詩は収録されているので、全集の方が正しいように思うので、詩は、そちらを引いた。
私は、この「伝説」は、たいへんに面白い詩だと思います。真壁仁のコメント「滅びのイメージ」も引いて、紹介をしようと思う。
厚木 叡 ・ 伝 説
ふかふかと繁った森の奥に
いつの日からか不思議な村があつた
見知らぬ刺をその身に宿す人々が棲んでゐた
その顔は醜く その心は優しかつた
刺からは薔薇が咲き その薔薇は死の匂いがした。
人々は土を耕し 家を葺き 麺麭を焼いた
琴を嗚らし 宴に招き 愛し合つた
こそ泥くらゐはありもしたが
殺人も 姦通も 売春もなかつた
女たちの乳房は小さく 含まする子はいなかつた
百年に一人ほどわれと縊れる者がゐたが
人々は首かしげ やがて大声に笑ひ出だした
急いで葬りの穴を掘り 少しだけ涙をこぼした
狂つたその頭蓋だけは森の獣の喰むに委せた
いつもする勇者の楯には載せられなんだ。
戦ひはもはやなく 弩(いしゆみ)とる手は萎えてゐた
ただ時折り密かな刺の疼きに呻き臥すとき
父祖達の猛々しい魂が還つて来て
その頬を赭く染めた
宵ごとに蜜柑色に点つた窓から呻きと祈りの変らぬ連禱(リチユアル)が
香炉のやうに星々の空に立ち騰つた
幾百年か日がめぐり 人々は死に絶えた
最後の一人は褐いろの獅面神(スフインクス)になつた
崩れた家々をきづたが蔽ひ
彼等が作つた花々が壮麗な森をなした
主のない家畜どもがその蔭に跳ね廻つた
夕べ夕べの雲が
獅面神の双の眼を七宝(しつぽう)色に染めた
・・・・*・・・・*・・・・*・・・・
滅びのイメージ
伝説の村はやがて滅ひる存在のイメージで
あろうか。からだに刺をやどす人々、その人
たちの顔は醜いが、心は優しいという。剌か
らは薔薇が咲き、その薔薇は死の匂いがする
という。もっともみにくいものともっともう
つくしいものが一つになっている世界。
自ら存在を絶つ自殺者もたまにはあったが
それは狂ったものとして葬られ、頭蓋は獣の
餌食にされた。すっかり萎えたその手の疼き
にうめきながら生きようとする。琴を喝らし、
宴し、愛しあう。しかしやがて人々は死に絶
えるのである。最後の一人はスフィンクスと
なってのこった。それは眠りにおちた神々を
守護するかのようにうずくまり、タべのひか
りにその眼を七宝色に染めた。
厚木叡は一九一二年兵諏県生まれ。三高を
経て東大美学科中退。在学中ハンセン氏詞に
かかって多摩全生園に入園した。四二年退所
して会社員、教師、通訳などをしてはたらく。
四八年再発入園した。そして五二年以来ライ
予防法促進委員会活動に従っている。この詩
は大江満雄か編んだ日本ライこ71・エイ
ジ詩集『いのちの芽』(三一書房)にとりあげ
ている九篇のなかの一つである。大江は「厚
木には知的な意志的な方向感がある」と言い
日本のライ詩人のなかでは第一人者として推
している。たしかに絶望の渥からたちかえっ
た人の感得する生のふかい把握と、それをた
しかなものにすることばの思慮にみちたはた
らきを示してくれる人だと私も思う。この詩
人は『ライ園を世離れした畸型的な別世界と
してではなく現実の生きた社会の中に据えて
眺めなければならない。ライ園文化というよ
うないい気な呼び声はライ園のほんとうの成
長解放にとって危険だ」といっている。社会
保障が不十分なうえ医療合理化がぎりぎりお
しすすめられている中で[伝説]の主人たち
の生きる道はけわしい。(真壁仁)
・・・・*・・・・*・・・・*・・・・
村井メモにも、光岡の詩は「少年」を取り上げている。
少年より、伝説の方が、私には、とても魅力的です。
少年は、最後の連が甘く結んである、そこに、光岡の人間性の特徴が出ているのでしょう。光岡のことを、義兄の原田嘉悦は、光岡の甘さを皮肉って「かれはすべてに優秀だが、ただ無精卵だ!」というようなことを言ったと山下道輔さんから聞いたことがある。
人間的な甘さが、「伝説」では、いい形に、ファンタジーのような、幽玄の世界に結実したように思う。
宮崎アニメに出てくるような、「伝説」の社会が描かれている。
東條や、北條は、生き急いだ。光岡は、当時、そんな彼らを冷静に分析できる余裕を持って生きた。その、光岡だから書けた詩のように思う。

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2005/5/11
沼津の千本浜公園に「明石海人の碑」がある。

歌碑が3つ、それと明石海人を紹介する碑と「白描」の序文の5つの石碑が、人の字に並んでいる。ここに意味が込められているのかも知れない。
左から
歌碑「シルレア紀の地層は沓きそのかみを海の蠍の我も棲みけむ」
歌碑「ゆくりなく映画に見ればふるさとの海に十年のうつろひはなし」
海人の紹介
中央の(画像では右手になるけれど)歌碑、
さくら花かつ散る今日の夕ぐれを幾世の底より鐘のなりくる
「白描」の序文
以上の5つが並んでいるのである。
歌の解釈は、とてもよいサイトがあるので、そこを参照されてください。
歌碑に刻まれた歌とその歌意
皓星社の藤巻さんが、海人の碑に、誤植があるというようなことが、「東風吹かば」に書かれていたが、それは、「白描」の序文の碑にあるらしい。

> 「おえつ(嗚咽)」が「鳴咽」、「こうこう(膏肓)」が「膏盲」。
この碑の中から、上の誤植を見つけるのは、とても難しいことのように思う。さすが!である。
海人の紹介の碑に
明石海人(本名野田勝太郎)は明治三十四年七月五日、現在の沼津市に生まれ、駿河湾と沼津千本松原を遊び場に成長しました。沼津市立片浜小学校から、静岡県立沼津商業高等学校を経て、国立静岡大学教育学部で学びました。
やがて、二十五歳の教員時代に業病と蔑まれたハンセン病を発病。妻子と別れ、転々と療養地を彷徨いますが、岡山の小島に建設された、国立癩療養所「長島愛生園」に隔離収容されます。
長島での闘病生活はハンセン病の三大受難と言われる、知覚麻痺、失明、気管狭窄に襲われ、療友の献身に支えられた壮絶な日々でした。しかし、その苦患の闇に光を求め、文学に志し、歌人として弛まぬ精進を続けます。昭和十四年二月、死の瀬戸際に出版された歌集「白描」はベストセラーになりましたが、同年六月九日、孤高の歌人は三十七歳の生涯を閉じました。略
平成十三年七月五日 明石海人顕彰会建立
このように書かれていた。
本名まではっきりと、碑に刻まれている。
皓星社では、1993年に「海人全集」を出版している。とても高価な本なので、図書館で読むしかないが、まだ、私は、目にしていない。
そこには、海人の本名、出身地、両親まで、記載の理由と経緯まで明らかにして掲載されているようです。早めに、実際に読んで、この部分の補足をしたいと思います。
「北條民雄全集」は1996年に復刻し、2003年に再版になっているが、そこには、北條民雄の本名は記載されていない。
風見治さんは、1996年の「鼻の周辺」海鳥社を出版されるときは、本名を明らかにされなかった。2002年の「季・時どき」海鳥社を出されるとき、本名を併記された。
私は、ハンセン病の、偏見と差別の暗い歴史を超えて、このことが親族に受け入れられ、ひろく社会に受け入れられていくようになっていってほしいと思います。
新しい社会へ、踏み出してゆく良い流れを、と願わざるを得ません。
「海人の碑」は、松の木立の木漏れ日が、斑に、それがまるで宝石を散りばめたような、清々しい、神々しい、雰囲気がありました。

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2005/5/11
一般誌「詩人時代」の昭和10年12月号の住所録に、東條環と筧雄兒が、同じ住所「府下束村山村南秋津1610」で、載っている。この住所は全生園です。
全生園には、東條が詩を書き始める時に、すでに、指導的な詩人が多くいる、杜芙蓉子、内田春生、大津哲緒、山本田木男ら。
彼らでなくて、なぜ、東條環と筧雄兒なのだろうか?
東條は、詩を昭和9年から書き始めている。東條の生涯を通してみても、環の時代は、習作期で、それほど、完成された作品はないように思う。


詩人時代は、東條と筧が住所録に載った翌年に、編者の吉野信夫が亡くなり、続かなくなって終刊をむかえている。東條にとって、一般の「詩人住所録」に載ったのは、ついに初めで終わりなのではないだろうか。
詩人時代について概要は、下記のとおり。
基本標題 = 詩人時代
出版地 = 東京
編者 = 吉野信夫編
出版者 = 詩人時代社
出版年月 = [1巻1号(昭和6年5月)-6巻[]号(昭和11年11月)]
出版者注記 = 出版者:→現代書房
住所録に載った理由として考えられることは、
@ 誰かの(佐藤信重か?)の推薦
A 「詩人時代」の会費の納入者
B 登竜門的な選考を抜けている・・「推奨」に掲載。
Aについては、たしかに、「詩人時代」には同人はいたようだが、会費は、ふつう同人会費と、一般誌会費に分けられる。同人になることは、住所録に載ることより難しいことだと思う。
Bは、全生園の詩人には他に多くの療友が早くから投稿している。本誌の「推奨」にも、上に揚げた人たちも掲載されているので、東條と筧の二人だけと言うことに、疑問がある。
「山桜」の詩の選者であった佐藤の推薦ならば、光岡良二という東大を留年して入園している、相談所患者の、園きっての知識人や、詩話会の発足当時からの人を差し置いて、東條、筧の二人と言うことに、はたしてそんなことがあるだろうかという思いも抱かざるを得ない。
佐藤信重の、二人に向けて、熱い期待があったのだろうか?

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