2005/6/29
林富美子著「野に咲くベロニカ」1981年 小峯書店
本の表紙の絵が、この本のタイトルにもなっているベロニカであるが、ベロニカは、和名 大犬ふぐり(オオイヌフグリ)のことである。P・ベルトの「キリスト伝」に出てくる、ゴルゴタの丘に引かれていくキリストにかけ寄って、血と汗をぬぐって差し上げた女性の名前から由来しているようです。富美子さんの、最もこころを寄せる花のようです。
林富美子さんはまだご存命なのだろうか?ご存命であれば、今年、98歳になられるのかしら?
まず、本の中にある年譜を記します。
1907年(M40)香川県琴平町に生まれる
1930年(S5)多摩全生園の医師。
1932年(S7)長島愛生園に転任。
1936年(S11)林文雄(鹿児島、敬愛園園長)と結婚。2児の母。
1944年(S19) 香川県大島青松園勤務。
1947年(S22) 林文雄死亡。
1951年(S26) 神山復生病院勤務。
1971年(S46) 特別養護老人ホーム、十字の園の医師。
林富美子は、林文雄の夫人なのである。旧姓、大西富美子。実弟が、大西基四夫、やはりハンセン病の医師で、全生園の園長も務めていた。
富美子は、独身時代、全生園と長島愛生園で医師として勤務しているが、光田園長の下で、林文雄とは同僚として仕事をしていた仲である。独身を通すつもりであったが、光田の強い薦めで、林と結婚をした訳だが、今風に言えば職場結婚であろう。
林文雄は、とびっきり優秀な医師であった、医学校では、成績が飛び抜けていたし、敬虔なクリスチャンで、使命感を持って、光田に私淑してハンセン病医療に飛び込んできた人である。
神学の方面で優秀と言えば、神山復生病院の院長、岩下神父が思い出されるが、医者では、林文雄ではないだろうか。
光田イズムという、大きな流れをつくるのは、光田のまわりに林のような優秀な人材が集っていたことも、ハンセン病行政関係者の中で、光田への信頼が絶対的なものになっていったのではないかと想像する。
林文雄には「倶会一処」を読んだときから注目していた。「野に咲くベロニカ」は、林文雄のもっとも近い方の著書であり、文雄の人となりを知ることができ、興味深い。
文雄亡き後、昭和26年に、国立の療養所から、神山復生病院に勤務しているが、二人の子供の教育のために、内地を希望したもので、神山のたった一人の医師として、病院内と神山の地域との医療に奮戦しながら、子どもを女手で育て上げるのである。
文雄も富美子も、徹底してクリスチャンの救癩の精神に貫かれている。
ハンセン病患者さんは、病友と記されて、いつでも、どこで友なのである。
P209に「苦しみとかかわりのないような仕事をするのでしたら、私の仕事はただの社会事業と同じになってしまうでしょう。私は病人の中に、苦しんでいる人の中に神がおられることを知っていました。私は心から喜んで、神さまを追い求めていただけです。ほんとの愛は常に『いけにえ』を必用とするでしょうから」という記載があるが、これが、富美子自身の真情なのではないかと思います。
献身的に捧げた生涯を思うと、この方に批難めいたことを書くことは不謹慎でこころ痛むが、あえて書けば、このお考えは、慈善という自己陶酔に陥りやすい、盲目に堕ちる危険性があるように思う。ハンセン病の病友が、苦しんでいればいるほど、神に近く、喜びがあると言うことになる。
P88に「私は五十年前、先生(光田)を師と仰いだその時と同じ思いで、否それ以上に、先生を慕い求めるのである。血のにじむ救癩の途を、先生の後に従い小川さんと二人で辿ったことを光栄に思う。」と、1981年の感慨として、富美子は書かれているのである。
文雄が、昭和22年に早世しないで、生きていたら・・・・、プロミンの治療が可能になった療養所の病友が、多く、らい菌の陰性になって、昭和28年の「らい予防法」闘争では、はたして、文雄は、病友の気持ちとどのように向き合ったのだろうか?と思わないではいられない。

26
2005/6/23
「亜大陸」渡部伸一郎 一九九九年 深夜叢書社
新宿ゴールデン街「なべさん」の文学散歩にご一緒したご縁で、句集をいただいた。立派な装丁の句集である。お礼の意味もあり、感想を書いてみたい。
渡部伸一郎氏の経歴は、本の末尾に記されている。
一九四三年東京生。
新宿高校、東京大学法学部卒。
一九六六年日本合成ゴム鞄社。
現在、日本ブチル滑ト査役。
第一句集『蝶』一九九三年上梓。
秋桜同人、寒雷、百鳥。
句集を一読して、じぶんひとり面白がっているなーという印象を受けた。読者を意識していないのだ。私は、そうした態度というか姿勢が好きである。
あとがきに、『俳句は、老人と病人の消閑の具だろうが、好きであるから俳句をつくる。』と書いている。『なぜ句集を出すか?』と自問して、「この短い詩型で生きる空間を最大限にしたいものである」と書いている。この句集は、すべて自選したとも書いている。
要するに、自分の俳句を自分のために一生懸命につくって、そして楽しんでいるのだ。こういう基本的な俳句の関わり方が、私と同じだからだろうか、私は、読んで気持ちが良かった。ただ、自分だけ楽しんで、他人はちっとも面白くない、句に乗れないよというものも多く見受けられる、それを、まず、上げてみたい。
新病棟視界に冬のスタジアム
菊百円薔薇三百円新病棟
暖房の音のみナースステーション
時計屋の競馬放送あたたかや
老犬も春の散歩のコース待つ
蠅を噛みそこね老犬踊りたる
老犬のときめき放ち青嵐
炎帝に老犬眼向けしのみ
村浄瑠璃大きな藪蚊とんできて
アンティミスト、ボナール
(この意味の分かる人はどのくらいいるのだろうか?)
ボナールと生きる喜び春陽花
子猫にもスープを与え午睡する
干し草の匂ひ持ち来る子犬たち
夕凪やマルトの摘みし青葡萄
アンティミストボナールの翳ワイン色
途中ですが、68ページ、これまでにしたいが、マルトは画家ボナールの妻である、そのことを読者が分かろうが分かるまいが、渡部氏は知ったことではないのである。
ボナールと生きる喜び春陽花
「ボナールと生きる」という「生きる」のはふつう作者だろうと思うが、「春陽花」からして、イメージして浮き上がるのは、妻、マルトなのではないかしら? ところで、春陽花って何かそういう花があるのだろうか? それとも、春陽の日を浴びている花一般を言うのだろうか? 私は、後者の意味に理解してます。渡部氏は、ボナールの絵画展にでも行ったのだろうか、絵を見ながら、マルトになって詠んでみたということなのだろう。子猫も子犬の句もそうしたことではないか? 絵を見ている時間を、素直に、湧いてくるものを俳句にしてみたいのだろう。作者が言う時空間を最大限にするために。でもそれは、読者には、その絵を見ているわけではないし、その場にいないのだから、作者ほどには面白くないのである。あ、あ、そう、とただ分かるだけに留まってしまう。それは、読者に媚びていないことも確かで、作者の気質を微笑ましく思う。
ここまでけなしてきましたが、この句集のなかで、注目をしたのは、作者とある程度理解を共有できるテーマは、共感する句が多くあると思いました。
夏武甲
村中は花魁草の昼の闇
日照草老婆仏花を切りに出る
玉虫のじいんじいんと交尾みたる
大石神社
黄鶺鴒来る里に棲む人形師
青芒村浄瑠璃は湖の奥
道行きの三味線嫋々と火蛾の舞
豊穣の稲のかをりや三番叟
大祭(ナーダム)
弓を執る勇者大きく鷺の舞
草原の力士羊のごとくなる
盛装の男の唄は風の唄
馬頭琴この草原の明るさよ
遊牧民風の跳躍見せ踊る
風鐸の鳴りし宮殿荒れんとす
生き佛といはれて亀を飼ひにける
途中だが、私の感銘句を上げるのは、これぐらいにしたい。概して、テーマによって、作者の描く世界に気持ちよく入れるようである。ナーダムと言うのだから、この大祭はモンゴルの革命記念日を言うのでしょう。作者はモンゴルに旅行でもしたのだろうか? それはどうでもよいが、ナーダムを、ただ「大祭」としている、 多分、このモンゴルの革命記念日の祭りに、何か日本に近しい親しみを抱いたからでしょう。
弓を執る勇者大きく鷺の舞
「鷺の舞」、鷺は日本に限らないかもしれないが、水田に立つ鷺は日本の美しい原風景のような気がする、私には、とても日本的な印象がする。この作者の持ち味なのだろうけれど、「鷺の舞」という鮮やかな言葉を据えても、句をいかにも決め付けた、表現を誇張して歌いきるような、得意になったところの嫌味がないのである。「弓を執る」という入りに、こちらが乗せられるから、第三者的視覚が薄らぐのかもしれない。
ここに上げたなかでもっとも面白いと思うのは、「大石神社」の
豊穣の稲のかをりや三番叟
です。大石神社は、赤穂浪士のゆかりのその神社ではなく、神奈川県藤野町にある大石神社らしい、そこで、浄瑠璃が八月に催されるようですね。秋の収穫の稲にあるかおり、乾いた埃ぽいかおり、それを浄瑠璃の「三番叟」に配合されている。そうすると、三番叟がおおきく膨らんで産土の神が立ち上がるようだ。良い句だと思う。
これからも、俳句をつくられるであろう、また、次の句集も拝読したいと思うが、ひとつ、読者の立場から願うところは、外来語というか、カタカナ言葉の一般性を考慮して使用していただきたいと思う。そして、これからも、大いに俳句を楽しんでいただきたいと思う。

1
2005/6/12
ところで、この「小島の春」は、もともと、小川正子が自主的に書き始めたものではないのです。手記の「後記」に小川は次のように書いています。
『 いつの事であったろう。園長先生が「検診行の記録は全部くわしく書いて置きなさい。時がたつとその時の気分がうすらいで千遍一律の物になってしまうから、その度々直ぐに書き残しておくんですな、土佐日記はできてますか」と仰言った。私が目を丸くして先生の後に突っ立っていると 「出張してその報告書を提出するのは官吏としての義務ですよ」と重ねて仰言られた、義務という御言葉が強く心に残った事がいまでも忘れられない。そうして拙い手記ができ上った。 』
光田の指示で、義務として書いたものなのです。
光田健輔は、もともと小川に、救癩、祖国浄化のプロパガンダに使うつもりで書かせたのではないでしょうか?それは私の穿った勘ぐりなのだろうか?
木下は、
『 猫が草中の蟲をねらふやうに、すりが混雑の中の袂を窺ふやうに、何としつこく此女醫は不幸の家のまはりを徘徊することぞや。』
と書いていますが、小川の検診行は、光田の指令で、彼女の仕事として出向いているのである。
そして、小川のこの土佐日記は、検診行程に沿っておらず、彼女の行程とは前後して収められています。最も救癩思想、祖国浄化の色濃く出た「小島の春その1、その2」が最後に収まっているのです。そしてそこの部分が映画化されているのです。そうした恣意的なものを考えると、一層、小川の手記はプロパガンダに利用されているのではないかと言う思いを一層強くします。
それを、小川は、
『何も彼も田尻、内田、上尾諸先生、その他の方々のご配慮に負った。大勢の方々のご厚意に依ってできるこの本を私はただ一つのこの道での記録として、拙き身を7年間その御庇護の中において下さった光田園長先生の膝下にお捧げ申したい。』
と、書き、自分の手記が利用されているのではないかというようなことは、毛頭考えにありません。
体調を崩しても、使命を全うしようと、痛ましいほど無理をするところが手記の中に、しばしば出てきますが、そうしてついに、小川は過労がたたって結核で倒れてしまうのですが、そこまで至っても一縷も利用されたというものを抱いていない。
光岡が小川に
「そしてもつともつと病者の姿を描いて頂きたい。先生の御眼に寫つた療養所の生活をも描いて頂きたい。その中に私は私自身の生きるべき支へを見たい気がする。」
と書いたのには、
『 御回診があった、園長先生が「南島は全部収容になったそうですね、白砂のは大島へ頂かって貰ったそうな」と仰言った、「そうだそうです。白砂の人、可哀想で済まなくて………」「可哀想?可哀想な事はない、皆療養所へ行く事ができれば皆しあわせです」とゆったり仰言った。ほんとうにそうであった。あの人達がここへこられないからといって、淋しく想うなんて事は私の狭い感傷でしかなかった。どこだってよかったのだ、どこへだって救われればあの人達にも静かな幸福がくる日があるに違いない。あの山の上の人達はどこの療院に行っていても、矢張り私の親しい友達の一人であった。どうかどこにいてもあの人達二人が安らかでおります様に、いつまでもお雑様を飾っていた気持を忘れないで……。でも私は矢張り済まなかった。』
映画にも出てきましたが、桃畑の女が、小川のいる長島愛生園ではなく、大島青松園に入園してしまったのを、「済まない」と自分が看てやれないのを悔やんでいるのです。
小川は、「救われればあの人達にも静かな幸福がくる日があるに違いない」と真実思っているようです。療養所の生活が、真実幸せな生活なのか? 小川の無垢な心で、療養所の生活を活写してもらいたい、光岡には、療養所の生活を、どのように考え、どのように生き抜けばよいのか、迷うばかりで、それがどうしても見えて来ないからでしょう。それは、多分、東條耿一にも同じ思いだったことだろうと思います。小川先生が、これこそが療養生活というものを描いてくれれば、それを支えにしてもいいと、光岡は考えているのです。
木下が、
『亦敬虔な長い勤務に身を痛めて病の床に臥す其作者にも告げたい。ここに新しい道が有る。其開拓は困難であるが、感傷主義に萎へた心が、其企圖によって再び限り無い勇気を得るであらう。そのやうな熱烈な魂が、まだ此癩根絶策の正道の上にも必要であるのである。』
と、小川の「熱烈な魂が、まだ此癩根絶策の正道の上にも必要」とエールを送っている。
小川に、ほんとうに正しいハンセン病医療のあり方を、木下は期待しています、それは、この本の中に、患者に向かう純粋で無垢な小川だからこそ、きっと、感傷主義の「あきらめ」ではない、ハンセン病医療の真実のあり方に気付くときがくると、見るからでしょう。
「小島の春」には、いくつも、在宅にあって病を養っている老人の例が出てきます。小川も、それは神経型だから隔離しなくてもよいだろうということを言っている。それを推し進めれば、小笠原先生の「隔離不要論」に辿り着くのではないだろうか。
光岡が、小川のことを「あくまでも温い眼、どのやうな人間の中にもよさを見出す無垢の心である。」と書いているが、光田健輔を私淑する余り、無垢な小川には、光田の野望を見抜くことができなかったのではないだろうか? 小川は、光田の傀儡にされてしまっていたのだと、わたしは思う。
小川がハンセン病医療に携わったのは、たった7年間だった。無我夢中でやってきた7年間なのではないだろうか。木下の言う「正道」にまで、まだまだ考えの及ばないまま、病気で倒れてしまったというのが、小川の正しい見方ではないだろうか? 小川が健康で長くこの医療に携わることができたら、「小島の春」に見られるハンセン病患者への限りない「やさしさ」は、きっと、ハンセン病の医療のあり方が、隔離一辺倒であることに疑問を持つだろうと、私は推測します。
小川に、救癩思想や祖国浄化思想の先鋒者として、今日、小川を非難するのは、どこか間違っているように私は思う。小川の真心を踏みつけているように思えて、心が痛む。
「小島の春」、この手記と映画がその時代に及ぼした影響、それをもって、小川を評価し批難をするのはあまりにも、こちらがわのこころが無さ過ぎるように思う。荒井英子著「ハンセン病とキリスト教」に「小島の春現象」として、縷々書かれているが、私は、それは視点がずれているように思う。
私は、小川は純粋な情熱を利用されて「祖国浄化」のファシズムのしくみにはめ込まれてしまった、それが非人間的なもので間違っていると気付く以前に過労で倒れてしまったのであり、「小島の春」の社会的影響をもって小川を問題視するのは、あまりに雑な認識のように思います。

3
2005/6/11
昭和15年の映画「小島の春」を、65年も経て、先日、東京国立近代美術館フィルムセンターで観ることが出来ました。この65年間に、ハンセン病の認識が、大きく変貌しました。「らい予防法」が廃止になり、また、それが違憲であったという判決も出たのです。昔、正義だったものがいま、悪になっています。ハンセン病の差別・偏見はどこから生まれたのか?その検証も、いま進められています。
「小島の春」を観るわたしの関心は、昭和15年当時のハンセン病への差別偏見はどのようであったのか?また、「無癩県運動」の先鋒をなしたこの小川正子の手記「小島の春」と、この映画は、どのような内容なのだろうかという、単純なものでした。
映画と本では内容に違いがあるのか無いのか、幸い、2003年に新装版として長崎出版から出ている「小島の春」も手に入れることが出来ました。

本には、小川正子がその場でどんな思いでいるのかということが書かれているが、映画では映像ではそれは表現できない、観てる人には分からない。そのことを除外すれば、この映画は、小川正子の手記に沿ったもので、特別の演出がなされているようには思いません。
この映画では、主人公の女医(小川正子)は、「癩は、遺伝でも体質でも業病でもなく、伝染病なのだから、人に病気を移してしまうんだから、療養所に入らなければいけない」その信念に燃えており、映画は、島に行って検診をし、ハンセン病の話をし患者を療養所へ来るように説得をする、それだけの話なのだが、その女医の気持ちの細かい逡巡を、観ているものは知るよしもない。映画は、その点では一面的で、ただ、救癩の女医の献身的な美しい話で終始しているのである。
映画のクライマックスで、船が出る時になっても、入園を渋るハンセン病患者をその家に呼びに行くのだが、本には、次のように書かれているのです。
『……昨日干して居た麥は今日土間の中に山と積まれてあ
つた。この麥を誰れが叩いて粒にはするぞと、昨夜も一晩
思ひつづけた事であらう。私は何にも言へなかつた、庭の
入りロからそうつと這入つて、ただ立つて居た許りであつ
た。村長さんに、さとしつめられるとじつと私の方をみる
村長さんの言葉を聞き、村長さんに言葉を返す時の眼が爛
々と燃え立つのを唇を噛んで凝視めて居た。
是程までに残る心を、苦しむ心を、つれて行つて幸福に
なるかどうか、私には分らなくなり相だつた。行つてこの
人か不幸になるとは少しも思はない、残つて家族の者が不
幸になるとも決して思はなかつた。行く事がお互の最も好
い道である事は分つて居ながら、私は唯目の前の押しせま
る感情の波に押し倒されてしまひ相だつた。『どうか頼みま
す、そうしてつかあせ!』と、もう一遍云つた言葉を村長
さんが押し戻された。抑戻きれた眼が私に向けられた。私
は一言も物が言はれなかつた。ただこの判らない、分かつ
ていて判らなくなつた思いのままの眼で病友をみつめただ
けだつた。
沈黙の散秒聞が経つた、『それぢやお世話になります、お
伴します』と病友は背負子に掛けた手を突き放して、きつ
ぱりと言つた。背負子が影を曳いて庭にバタンと倒れた、
ハラハラと私も泣けて來た、ワツと言ふ聲がして、居る事
を忘れて居た井戸端の、娘が泣き出した。』
映画で、私は、女医のこのこころは、読みとることが出来なかった。「さあ、行きましょう」と強い気持ちで患者を見ているとばかり思ったが、そうではなかった。
光岡良二が、この「小島の春」の本の方に感想を、昭和14年「山桜」6月号に書いていて、ちょうど上の部分の文章を引いて
『 何といふあはれに深い情景の活寫であらう。そして作者の
心の何といふ弱さ……だが此の弱さこそ本當は強さである事
を知らねばならない。人間の心の一番奥深くにあるものを常
に感じとられる先生の、優しい美しさに心から敬愛を覚える。
今は御病中と聞く先生の御健康をほんとうに祈りたい。そし
てもつともつと病者の姿を描いて頂きたい。先生の御眼に寫
つた療養所の生活をも描いて頂きたい。その中に私は私自身
の生きるべき支へを見たい気がする。』
と、大変にこころを打たれています。
患者の立場である光岡は、また、小川正子を、次のようにも書いている。
『先生の柔く、適確な感受性は、此のさらりと無雑作な文章にどのや
うな風物をも人間をも浮き彫りにしてゐる。それは冷徹な眼
ではなく、あくまでも温い眼、どのやうな人間の中にもよさ
を見出す無垢の心である。』
私も、小川正子という人は、ほんとうに純粋な人だったのではないかと思います。真に、ハンセン病患者を救いたい、ハンセン病に苦しむ人をこの世から無くしたいというその思いだけだったように思います。伝染病なのだから、感染をするのだから、隔離されて療養所に入ってほしい、ハンセン病の苦しむ人がいない次の世代を小川正子は夢に見ていたのだと思います。
木下杢太郎は、小川正子の手記に対して、昭和14年に、次のように絶賛をしています。
『國民間に廣く蔓延する慢性傅染病の豫防には、一般に必要な事柄であるが、殊に癩に關しては、第一第二の頃目は我國では十分に行はれてゐない。内地に果して幾人の患者が有るか、確か事を知ってゐる者は一人も無い。また宣傅といふのは、一般の人々にこの病気に關ずる知識を與へることである。是れも當局者が怠つてゐるのではなからうが、成績は餘り上つてゐない。
所が小川正子女史の救癩手記「小島の春」を讀むと、唯功利的の立場からいっでも、この宣博の功が満點に値してゐる。
・・・・・・・・・・・・・・
そして其本文は、救癩手記といふ事を除いて見ても、またすばらしい田園文學である。自然と農民と舊家との共同生活がいきいきと描寫せられてゐる。
女史においては救癩と醫療と、詩と、宗教と生命とは渾然として一體となつてゐる。
わたしは、此本の讀者の一人でも多からんことを望まずにはゐられないのである。
昭和一四年三月二〇日
「東京日日新聞」「読書」欄に
木下杢太郎署名で掲載 』
木下は、病気は、無関心から蔓延するものです、病気の知識をひろく持たれるように、この種の手記に、内容的にも、小川の真情が感動的ですばらしいしので、まず、絶賛をしたのでしょう。
しかし、1年半後の、昭和15年8月には、この映画に、一転して激しい批判を書いています。動画「小島の春」(太田正雄)、長文なのですが、是非お読みいただきたいのでリンクをします。
『 癩根絶の最上策は其化學的治療に在る。そして其事は不可能では無い。「小島の春」をして早く此「感傷時代」の最終の記念作品たらしめなければならない。』
木下は、この1年の間にハンセン病への医療のあり方について、木下の認識が変わったのではないでしょうか?
木下は、細菌学の東大の教授であり、ハンセン病に関して、医事報などで小笠原登や日戸修一の論文を、専門的見識で読んでいたことでしょう。
ハンセン病は、医療面において、「隔離」が最善なのだろうか? 軍国化の進む中で、何か、違う方向へ向かって行っている・・・という思いが、この一年で強くふくらんでいたのではないでしょうか?

24
2005/6/3
歌人・津田治子 米田利昭著 沖積舎
二〇〇一年(平成十三年)八月一日
津田治子と言えば、
現身のヨブの終わりの倖はあらずともよししのびてゆかな
この歌が最も印象深いものだろう。この歌から取られただろう、「忍びてゆかな」という大原富枝の小説もある。津田の最も初期の作品で、昭和14年、「アララギ」にも載っていない歌である。この歌について米田の説明を引くと
『<現身>、神話の中の人間でない生身の人間なのだから、真っ向から奇跡を否定し、<ヨブの終わりの倖>、すなわち神に許されて元の体に戻り、財産が二倍となり、一族が栄え、長生きするなどは無くとも良い、いや有り得る筈もない、と神の恩寵、必ず神はお救い下さるという考えを否定している。だから、我慢して生きてゆきましょうという。
これは宗教的立場なのか、それとも人間の立場なのか。救いを求めないからこそ宗教とも言えるし、全く人間の声だとも言える。』
津田治子の、人間として逆境にしぶとく強い、柳のような強さの性格が、この歌によく出ていると言えます。
しかし「しのびてゆかな」、この言葉には、男と女の臭いがあります。津田の生涯、伊藤保との「忍ぶ恋」をしてゆかなければならない運命を、はからずも暗示しているようでもあります。
津田治子の年譜
本名 鶴田ハルコ
明治四五年三月五日、佐賀県松浦郡呼子に生まれる
大正十一年十月十日、母に死別、ひとり父と残る。
福岡県飯塚市に育つ。
十八歳(昭和四年)の三月発病
昭和八年 飯塚の教会で入信
昭和九年 回春病院入院
昭和十一年 アララギの田中光雄のすすめで、短歌を始める。
昭和十二年 「檜の影短歌会」に入会。
昭和十五年 恵楓園(当時九州療養所)へ転院。
伊藤保との交際が始まる。
昭和十九年 玉川敏夫と結婚
昭和二十五年 夫と死別
昭和二十七年 谷幸三と再婚
昭和三十年正月 「津田治子歌集」白玉書房
昭和三十八年九月三十日 肋膜炎で死す。享年五十一歳
なんと、津田治子は、東條耿一と同じ年の生まれです。
本著では、米田は、歌を通して、津田の生涯を追い、津田と伊藤保との恋愛を分析している。
東大アララギ会誌「芽」を率いていたと本にあるから、「アララギ」誌上で、津田治子や「檜の影短歌会」の面々の歌を長年にわたって読んできていたのだろう。誌上から津田治子、伊藤保の恋愛関係について、米田は、アララギ読者としてずっとひそかに関心を持ち見ていたのかもしれない。
臥しをればわれの額に茅萱なびき夕昏れてすむその上の空
沼の辺の赤芽柏も刈りそけて片側明るし山にふる雨
高原の檜の杜の梟は鳴きしづまりて月かたぶきぬ
檜の中の赤芽柏に吹き付けて山の平らを風通るなり
これらの歌は、伊藤の歌と関連付けて、逢引のときの歌だろうと分析をする。そして、この本の終わりに、米田の「恵楓園訪問記」があり、
『わたしが入江さんに、しかし津田治子や伊藤保の歌を読むと山の感じなんですがね――と言うと、檜の下は下草や雑木が繁って、こんもりと山のようになるのですよ、と言う。さもあろうが、保と治子が二人して檜の下の雑木や下草、蔦の繁みをかきわけ、かきわけして、愛の安住の地を求めたとは、しかも男は義足で、女も病みあついのであるから、ちょっと想像のつかぬことである。やはり小高い山、ないし丘があって、檜の木があり、目印の大木があり、そこで二人が相抱き得た土地があった、と考えたいのである。』
と書いている。米田の津田治子への育んできた長い時間のあいだに逢瀬の場所を自分なりにすっかり具体的に想像していたのである。なにやら、微笑ましい。思わず、にやりと、この著者に好感を持ってしまった。
米田は、津田を
『津田の歌で病苦を訴えたものは少ない。彼女は自分をあくまでも普通の人間として歌ったので、その点をこそ、ぼくは豪の者とも非凡とも思う。』
と言っている。私も、この点にこそ大きく揺さぶられる。私が、まず、風見治さんの小説にこころ打たれたのはこの点でした。風見さんのどの小説を読み進んでも、この主人公は何の病気なのか?と首を傾げるうちに話が終わってしまう。ハンセン病の病から来る悲惨を書き連ねるようなことをしない、同情を買うようなことは、風見さんは書かないのである。私は、ハンセン病文学全集を読み始めて、風見さんのその姿勢にうたれて、今日まで、ハンセン病の療養所の文学に、たち入ることが出来たように思う。
この著書の、米田は、はっきり直裁にものを言う。著者自身、ハンセン病というバイアスを、津田治子に被せてはいない。ひとりの人間として、ハンセン病と言う最も過酷な疾病でも、引くことも足すことも無しで、津田の歌を読むのである。「この年は全然良い作品がない」などと書いているところもある。私はそれが、ハンセン病の療養所文学を読む姿勢として良いのだと思う。それは時に、あまりに非情で傲慢な態度、こういう自分はこの環境で泣き言を言わないのか?と自問しながら、でも、私は、そうすることが、彼らの望むところなんだと理解している。
そして、米田は、津田の生涯の最高傑作の一つに
命終(みょうじゅう)のまぼろしに主よ顕ち給へ病みし一生(ひとよ)をよろこばんため
これを上げ、
『治子をクリスチャンと呼ぶ人は多いが、なまはんかのクリスチャンよりずっと強い。主に向かって「顕(た)ち給へ」と命令するのだから。対等に、あなたが現れてくれなければ、病気をした甲斐がない、病んだ一生をこれでも良かったと喜ぶためには、最後には来てくれなくては駄目よ、と念を押す。これはクリスチャンの歌ではなく、まったく人間の歌である。』
と、気宇の大きさ、生命力の強さを讃えている。
私は、津田治子の五十一歳の生涯を通して見るとき、津田治子は、津田治子の環境の中で、精一杯、自分らしく愛に生きたのだと思う。昭和十五年、津田が二十八歳の時に、運命の伊藤保と出会ってしまう。そのとき、伊藤はすでに既婚。津田は、自分が二歳年上でもあるので、伊藤とはまず分別をもってある距離を置いて付き合ったのだと思う。だから、昭和十九年に自分も結婚をしたのだと思う。結婚をすれば、大部屋から夫婦の落ち着いた部屋があてがわれる。歌を作る最低の、歌に集中できるひとりの空間、その環境を手に入れることが出来るのである。その夫とは、昭和二十五年にたった六年で死別してしまう。そこから、伊藤と深い関係になるのではないだろうか。それでも、津田は、伊藤に離婚を求めない。自分の愛の犠牲を伊藤の妻に求めなかった。だから、伊藤との関係を絶つように、二十歳も年上の人と二年後に再婚をするのであろう。ひとりでは、歌を作る環境が療養所には得られない、伊藤とは歌の上の良き友人として、歌に生きようとしたのだと思う。形ばかりの夫婦、男には前妻と子どももあり、療養所へ津田に会いに来てもいる。精神的には、伊藤の愛を内に引きずっていたのだと思う。それは、時に修羅に堕ちる日もあったはずである。狭い療養所の中では、お互いの暮らしは見ようとしなくても見えてしまう。気にもなる。それでも、これが、最善の選択だと津田はつよく思って耐えていたのではないだろうか。伊藤への津田なりの愛の成就の形なのだとおもう。津田の歌には「うつしみ」という言葉が大変に多い、くり返し詠まれている。それは、津田のこの愛の無常から出ているのだと思う。病にも、愛の宿命にも、精一杯生きた、それであればこそ、
命終(みょうじゅう)のまぼろしに主よ顕ち給へ病みし一生(ひとよ)をよろこばんため
いのち終わるとき、神様が顕ちて、「よく生ききった」と言って欲しいのではないだろうか。そう言われる自信が、津田にはあったのでしょう。大原富枝の「忍びてゆかな」を読んでいない、これは、私の、この米田の本を読んでの想像でしかない。
最後に、私の好きな、津田治子の歌を、まだここに上げなかったものを、三十首上げてみたい。
病み崩えし身の置処なくふるさとを出でて来にけり老父を置きて
いつ逢はむたどきを知らに老父が身をいたはれと短く言ひつ
現身の終の仕えと老父の夜のしとねを敷きまゐらせつ
鴨の群はすでに渡りて明けそめし東の空に雲の片よる
蔦かづらからめる石に呟やかむ石は言葉を持たぬもの故に
草の上昏みゆくまで野を歩みあゆみを返しがたく寂しき
隠すなきことばの前にうろたへて咲きしづまりしさくらを言へり
花ふふむ荒地野菊の限りなき野を移りゆく黄なる夕かげ
見る影もなく崩れたる身を歎くことも少なくなる迄に老いぬ
現身の在りつつなづむ悲しみよ苔青く生ふる処まで来し
赤芽柏の広き葉ぬれてゆく見ればほとほと音にたちて来る雨
うつしみの吾が通路の檜山ふかぶかとしてあたらしき落葉
ただ堪へて生くるいのちの醜さは心に沁みてゐて堪ふるなり
うつしみの老いて再び人に副ふ沁々として生きゆくべしも
霜がれし櫟と吾のうつしみと相向ひ佇つ雪々のした
癩園に児童患者のふえゆくは死ぬいのちより哀れと思ふ
権利のみ主張する改正草案にうなづきがたし爪はじきさるるとも
雪山の阿蘇に向へりうつしみの身を死なしめむこの思ひゆゑ
うつしみの老いの面に眉を引く生に沁みる行為にして
めらめらと炎立つ炭火のかなしさに言つつ沁みて相向ひゐつ
沁みとほるひたきのこゑはきこえつつ吾の思ひのきよからなくに
夜々に暖かき時雨降りくれば身もやはらかくなりて眠るも
いたづきの秘すすべなくなりしときわが名を津田治子とは言ひそめたり
睡蓮の葉が浮きて来し池の水にけさより少しづつ降り来る霾(よな)
この土に根を下ろしたる草木と蜂と雀と吾と老い夫
うつしみの夜の眠りに見る夢のいつのときにも唯ひとりにて
平なる池の底ひにころがりて影持つ石を今日は見たりき
身をよせてをれば沁みくる冷たさよ木蔦にまかれ立つ山の石
枯草にうづもれて石ひとつあり日ぐれはしろくながき春の庭
病むために苦しむために来し世とも肯ひて身に残る倖


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2005/6/1
ゆくりなくも一夜の湯宿(やど)に秘話ありて維盛の墓訪ねてもみん
美しい日本の景なす水張りの棚田の中に五輪の墓現り
日を浴びて光る水田の芥ともおたまじゃくしが生れて浮遊す
千年の眠りの底よりもたげたる潜望鏡とも見えし墓かも

飛図温泉、静岡県芝川町上稲子

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