2005/8/25
細い道
谷佳紀
春分を絶対感として走る老人
嘘八百も木の芽も跳ねるアップリケ
ほんのり老いケイタイメール春のぽん
美味しい水雑音ばかりの肉体に
更地になるビル化学反応ジャズ
性交の続く小説ねこやなぎ
マラソンの気合続かぬ花粉症
あちこちに穴持つ体春休み
平たい顔とオオイヌフグリ節約家
ふわふわの山かたくりの魔女体操
朝桜戦闘態勢の人もいる
おばあちゃん大好き用があったら桜
チョコボールのキョロちゃん私は花の神
二輪車のふんわり具合山歩く
水仙にどっしり暗い日本海
どくだみ小路ひまな心もほの光る
墨磨ればふくふく梅雨の樹木たち
白鳥は帰って二ヶ月句の白鳥
梅雨の街池あり出発しようと思う
藪みょうが嘘の思い出つくるなり
僕に寄る亀と一緒の梅雨の入り
美しい人が二人の細い道
池のような犬遠くなる夏の雨
峠なり心底雨の中心なり
たくさんのお仏像並び藪っ蚊たち
噛んだ耳蛙になって跳ねている
山百合の向こうギラギラ破裂しそう
ときどき風のさざなみコーラン全市
谷佳紀さんの「しろ 5」が届いた。この冊子は、谷佳紀さんが定年を迎え、俳句の時間を持つことが出来るようになって出されている、個人冊子で今回で5冊目になる。年二、三回、不定期に、誰かの俳人論、また、目に留まった「句集」の俳句論が彼の中でまとまると、それに付属してご自身の自選句や、周りの俳人の句とともに、それと、彼の強靭な体力を淡々と書き記した、某「ウルトラマラソン大会」のメモのような参加記録などがまとめられて、三十頁ほどが一冊となり送られてくる。
谷さんは、「海程」の創刊同人です、そして、商業俳句というものにまったく背を向けて、一時、海程を離れてまで、独自に、俳句の表現の可能性を追ってこられている。彼と神奈川の句会を共に出来ることは私の大きな喜びです。
俳句表現を、追って、追って、いま彼が辿り着いているところを、すこし、拙い読みで申し訳ないけれど、見てゆきたいと思います。
三十句の内、五句が無季俳句、そして、五、七、五の韻律でみて見ると、正確に韻律を踏んでいる句の方が少ないのではないだろうか。季語とか、韻律とか、彼の中では句を作るうえで、大きな問題ではないのだろうと思う。
三十句を通読して皆さんはどんな感想をもたれただろうか? 私は、すごく自然体というものを感じます。日本人という縛られた美的意識からも自由、俳句は日本独自の文学ですから、そこに詠まれるものは、日本独自の美的意識が働いているものが多いように思うけれども、そういう縛りも、彼の中ではありません。
ここにある三十句から見えるものは、ウルトラマラソンへ出るだけの体力のある、元気な初老の男が、目をきらきらさせて、市井の暮らしを思う存分に詠んでいるなあという印象を私は持ちました。いくつか、句を個々に取り上げてみたいと思います。
春分を絶対感として走る老人
「絶対感として」という観念的な言葉に、具体性がないということでまずケチをつける人が居そうですが、私はこの「絶対感」はこれ以外に言えない彼の表現だと思います。「ぜったい」という言葉は、日常的に、強い意識、漲る力を表現する時良く使います。「春分を絶対感として」春の息吹がはっきり感じられるなかをわくわくとして走っている、歩く人も、走る人も、この季節ほどうれしいものはありません。
嘘八百も木の芽も跳ねるアップリケ
エプロンでも、手提げでも、アップリケが施されていると、何か、ほのぼのとする温かいものがあります。「木の芽」はもちろんそんなものですが、「嘘八百」もある面、楽しい「脱日常」ではないでしょうか。作者は、嘘八百だと思っても、にやにや、話に乗っているのでしょう。
ほんのり老いケイタイメール春のぽん
小林佳樹のテレビコマーシャルで、簡単に使えるというケイタイというほのぼのしたコマーシャルがありますが、それをすぐに思い出します。あんなふうに作者は老いようと思っているのではないでしょうか、「春のぽん」が楽しい。
性交の続く小説ねこやなぎ
「嘘八百」も「性交」も、彼には、俳句にならない言葉は無いのである。すべて俳句にしてしまいます。「ねこやなぎ」がいかにもと言う感じがします。むくむくと膨れて、すこし寂しく銀色に発光するのだと思う。しかし、燃え上がってはこない、内心、年を感じているのでしょう。
平たい顔とオオイヌフグリ節約家
「平たい顔」「オオイヌフグリ」「節約家」この関係性が分かるだろうか? 私には分かる。「平たい顔」の代表的な人と言えば寅さんだろうが、いかにも実直な?男には「オオイヌフグリ」が似合う。小さな花が地面にびっしり咲いている、それこそそれは「節約家」の心栄えでもあるだろう。小さき人は、幸いというべきではないだろうか。
墨磨ればふくふく梅雨の樹木たち
作者は、ペンより、筆で書くことを好む。墨を磨りながら、ふくよかな墨の香りのなかで、気持ちが洗い流されるように、すっくと立ち上がってくるものがあるのでしょう。どの句を書いて送ろうかなどと、「ふくふく」と、良い気分になっているのだと思います。
白鳥は帰って二ヶ月句の白鳥
これは「白鳥」が大きな意味を持っている、ある面メタファーになっていると思う。そういう読みをされることを作者は好まないだろうが、そう読んだほうが、私には面白い。残された句に、どくっと、白鳥のような生々しい肌合いを感じて、唖然としている作者というものを私は見ている。
美しい人が二人の細い道
この句を最後に、読んでみよう。これは、無季の句です。作者の現在の女性観が詠まれているように私は読む。二人ということは、作者が、口を挟む必要の無いというか、割り込む余地が無いのである。しかも、道は細い、作者は美しい人、私は、女性と読みたい、その後を黙って、付いてゆくしかないのである。それに、失望もしていないのだと思う。作者には、「原始女性は太陽であった」それを否定するつもりはさらさらないのだと思う。
谷佳紀さんほどに、自由に俳句を作れるように私も早くなりたいものだと思っています。私の俳句も変わりたいし、変わり続けてゆくことでしょう。

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