鴎外雑考
中川原邦雄(中原呉郎)
鴎外の晩年の史傳が、文学的に不動の位置に据った事は、
誰しもの認める所である。つまり鴎外は医家としてではな
く、作家としてその生涯を意義づけたのである。明治二十二
年に六十五篇書かれた医学論文が、明治三十年には一篇も見
られなくなっている。そして、明治四十年、四十六才の鴎外
は、陸軍々医総監、陸軍医務局長の椅子に座り、明治四十二
年に文学博士の称を受けた。高価な人生の玩具を一切手に入
れて、凡俗がほっと一息つくであろう時に、鴎外は生涯の計
画を立てたのである。普通の人間がたるんで肥満し始める時
に、「今日の名誉は害うべし、吾志は奪うべからす」と云う
正氣の上に毅然として立ったのである。
志とは一体何であったか。人間を知ろうと云う事であった
様に思うのである。あの晩年を、史傳の悪罵と嘲笑の中に、
平然と書き進んだ態度を見るが好い。名誉心を越えていなけ
れば、とても出来まい。その日の彼は、「あそび」の姿でも
なく、「傍観者」の態度でもなく、一心不乱であったと思わ
れるのである。
明治二十三年ごろ、勇ましく医学の領域に論争した鴎外
は、医学をどうして捨てたのであろう。医学も人間の学とし
て、興味を持ち続けなかったのであろうか。「何事にも不器
用で癡重と云うような処のある歐羅人を凌いで……」(妄
想)、「理化学的實地操作は堂に入り、その手捌きの巧みな
ることは驚異……」(宇木碩太郎)であった彼が、明治三十
年度、ことに明治四十年以後、医学に意を用いていないので
ある。
もし鴎外が医学にのみ没頭していた場合を考えてみよう。
多くの医学的発見をして、教科書にも一時は名をとどめたで
あろう。しかし他の優れた医家の仕事とともに、それは古く
なる性質のものであろう。それに引きかえ史傅は年ととも
に、その価値が一般に認められて来たのである。彼は医学
が、純粋科学と人間学との両方に足をかけながら、極めて困
難な、ついに結論に到らない未発達の一応用化学である事を
観破していたのである。それはしばしば近代の粧いをしなが
ら、原始的な方法論に立つ場合がある事を知り、按腹の意義
とか、日本の菜食の合理性をすら語ったのである。若年の医
学論争を、くだらない事だったと回想した事であろう。物理
や化学などの純粋科学の世界にいたら、あるいは鴎外はそれ
を綺麗さっぱりとは捨てなかつたかも知れない。しかし先ず
鴎外は人間追求の方法として、文学を選んだのである。
「大抵人の福と思っている物に、酒の二日酔をさせるよう
に跡腹の病めないものはない。それのないのは、唯藝術と学
問との二つだけだ……」(妄想)と考えた彼は、藝であり学で
あり、また興味深かつた史傅の方向に、意識を集約して行っ
たのである。明治三十一年、「西周伝」を書き、明治四十一
年、「能久親王事蹟」を書いた彼は、それについての自信と
興味を十分感じていた。また一見無骨に見える彼の心底に、
澁江優善、森枳園、細木香以に見られる藝人性も、「高瀬
舟」に見られる抒情性もかね備えていたのである。何よりも
文学が好きであつた。またそれによって人間を追求すること
が、最も生涯をかけるに足る業と考えたのである。
しかもそのかたわら、鴎外は官吏としての極めて散文的な
生沽を、いとも丁重に途行して行つたのである。大正十一年
死の年も、能うかぎりの登衙を続け、「今日も出勤す」と云
うことを、心をこめてその日記に書き遺したのである。武士
的なストイシズムもさることながら、長い間の訓練によつ
て、義務を果すことに自らなる満足感があった様である。教
訓や説教好きの日本人のこととて、鴎外は軍医の時も、隣人
から多くの批判を浴びたが、批判した隣人より鴎外の方がは
るかに勤勉であったと思われる。その爲に彼はわずかな睡眠
時間しか取らなかったのである。第二軍軍医部長として、満
洲を転戦した時も、終始読書を続けたと云う。その様な時、
おそらく他の將官達は雑談し、碁に興じていた事であろう。
史伝を書くにあたって鴎外は、科学の方法と云うより、科
学的に訓練された頭によって処理した。つまり非常によく推
理を働らかせ、年代を計算し、順序を考えて筆をとつた。し
かも科学の方法に溺れることがなかつた。科学もその時代
を、その人をそのままに把握するものではないからである。
主観を全然述べない風をしながら、するどい直観によって、
ずばりと事象を切ったのである。その判断や推理について來
れない凡庸な読者を一切顧慮しなかった。適切な字であれば
難しい漢字もいとわなかった。締木を締める様にして要約し
た大切な一字一字を静かに刻み込んで行ったのである。
「澁江抽齊などと云う訳の分らない人間の傅記などを書い
て……」と云う批判に対して、「たとえ乞食、幇間の伝記で
あろうと、仝じことだ」と云う意味の事を云って反迫してい
る。しかし鴎外は抽齊にも香以にも、考証家としてまた藝人
として限りない愛着をもっていたのである。つまらない無
意味な人間を書く氣にはならなかつたであろう。そこに文学
と云うものの人間性がある。ロダンの彫刻の「娼婦をしてい
た女」の様な、純藝術的な人間像と云うものが文藝にあり得
るか。あっても良さそうに思う。絵画が昔の肖像画の世界か
ら飛躍して、労働者になり、台所用具になり、破れ靴になっ
た様にである。無論「春の鳥」の様に馬鹿を描いた小説、そ
の他悪人を描いた小説、いろいろな人間を書いた物は澤山あ
る。ただ乞食誰々傳と云うものはない様に思うのである。馬
鹿や悪人では、特定なその人ではなくて、その様な人間の悲
しみや社会や抒情を追っているのであつて、その人間のなま
なましい経歴にまつわる記録ではない様に思われる。しかし
私は、特定の馬鹿、特定の悪人に対する執拗な追求もあって
よさそうに思うのである。そこでは人間的なものは感じられ
ない。生物的な物が感じられるだけである。その時文藝が科
学に広がる可能性を示すと考えるが、如何なものであろう
か。
史傳においては、自由な心理の発展も許されない。自然描写
も余りない。形而上学的模索も限度を越えては許されない。
ましてや人間の創造があってはならない。とすれば我々が創
作としての喜びを持つのは、書かれた人物に対する著者の愛
情を通して、そこはかとない人間的抒情を感ずる所にあるの
であろう。愛情ではなくて憎しみであり、軽蔑であつた場合
に、それは文芸的であり得るか。自然はたんに人間的ではな
くて、むしろ非人間的であるから、その様なものも含まれ得
ると、一応考えて見るのであるが、如何なものであろうか。
某の「高橋おでん傳」にしろ、「鼠小僧次郎吉傳」にしろ、
そこに粋とか、いなせとか、義侠とか云う美化されたものが
入らない訳には行かない。美化すべき何物もなく、認むべき
何等の価値のないものを、ただ単なる自然界の一生物とし
て、生物学者の如く描写する事は不可能であろうか。またそ
れをしても無意味な事であろうか。
人間は歴史を作ったと考えている。しかし人間が歴史をど
の程度に作ったかは、はなはだ疑問である。某の軍人、某の
政治家が出なくても、多くの場合、歴史は同じ様に流れたと
思われるのである。歴史とはその様に生っ白い、へなちよこ
な物ではあるまい。大河の様に、小さなアクシヂントもアフ
エアも越えて、静かに堂々と、高きより低きえ流れるもので
あろう。渦を巻いて逆行するごとく見えても、それは一時の
事である。それを歴史的必然性と呼んだのではなかったか。
歴史とは史(ふみ)に書き残されたものと思われ勝ちなものである
が、入間がその様なちゃちなものを書こうが書くまいが、歴
史的事実は、過去に確かに硬く硬く存在したのである。人間
が自然を作ったのではない。しかし屡々人間はそれを錯覚
する。大自然は人間がおろうがおるまいが生ずる時には生
じ、消滅する時には消滅するのであろう。自然が人間を作っ
たのである。歴史的事実があって歴史が書かれるのである。
歴史が書かれる時、史観が産れるのである。史観があって歴
史が出来たり、また歴史的事實が変化する様に考えている程
滑稽な風景はない。しかもその滑稽な喜悲劇が、いたる所に
演じられているのである。
人間も死んでしまって、揺れ動くものから動かぬものとな
って初めて、硬い事実となるのである。菊地寛は死とともに
風の様に消えて行った。晩年に到るほどつまらないものであ
つたからである。森鴎外は死とともに鋼鉄の様に硬く確かに
輝いて來た。晩年に到るほど立派になって行つたからであ
る。動かぬものは正当に判断される。動いてしゃべっている
間、人々は誤魔化される。動かない固定したものとなる日に
輝く爲に、生きている日をストイツクにまで冷嚴に過すこと
それが鴎外の我々に示す教訓である。(一九五七、七、一六)
「多磨」昭和32年9月号

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