1996年に100年に及んだ「らい予防法」が遅まきながらやっと廃止され、その後2001年に画期的な違憲裁判が感動的にも勝訴しました。患者さんは国から賠償をされ人権も回復されたという流れの中に、いまあるかも知れません。
しかし、ハンセン病の歴史は、私たちの意識からこうして精算をしてしまうには、たいへんもったいないものがたくさんあります。
社会から排斥され閉ざされた療養所の中で、患者さんはどのように生きたか、生きようと努力したのか、戦前戦後、時代時代に、生きる証を求めて書かれてきた作品がたくさん療養所の中に残っています。ごくごく一部の、北條民雄、明石海人、津田治子、伊藤保、塔和子、それぐらいの人は多少読まれたかもしれませんが、ほとんどの作品は社会の人の目にいままで触れていません。
日本のハンセン病政策はごく最近まで一貫して隔離政策をしてきた世界に類を見ないものです。100年に及ぶ隔離療養所というのも世界に例がありません。社会から排除された療養所のなかで、患者さんたちは自らの暮らしを自らで治める自治が早くから芽生え、分館(施設側)と対峙してきました。療養所が出来た初期は、浮浪患者を寄せ集めたため、園内の治安が悪く、騒動が絶えず園内は無秩序状態でした。
各園に、それぞれ、園誌が発行されて文化の拠点になってきましたが、多磨全生園では「山桜」が大正8年に創刊されています。(昭和27年11月以降「多磨」と改題されますが。)「山桜」は、深山幽谷に咲く山桜のように人知れずとも、美しく生きてゆこうとこの名前が付けられています。差別・偏見の弾圧の苦しみの中に、美しい精神を築きあげ、高い文化をみんなで形成し、文学作品が書かれています。これら療養所のたくさんの作品群は、世界遺産になっても良いのではないかと思われるほど重厚です。
ハンセン病はたいへん多面的で、善悪良否が複雑です。光田健輔氏を悪と決めつけられない一面を持っています。
ハンセン病の図書資料は、差別偏見というハンセン病の歴史だけではありません。差別偏見に苦しみながらも清らかな精神を養い作り上げた文化でもあります。これらの図書資料が、社会に、教育に、生かされないのは、たいへん勿体ないことだと思います。療養所の中に眠っている図書資料は、もっと社会に活用されてゆかれなければならないと思います。
奄美の公共図書館に「ハンセン病文庫」が設置されたことは、いまはたいへん画期的なことかも知れません。しかし、全国的に多くの図書館に、これが広まって欲しいですね。

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