「小川正子のまごころを踏みつけていないだろうか(2)」
療養所の文学
ところで、この「小島の春」は、もともと、小川正子が自主的に書き始めたものではないのです。手記の「後記」に小川は次のように書いています。
『 いつの事であったろう。園長先生が「検診行の記録は全部くわしく書いて置きなさい。時がたつとその時の気分がうすらいで千遍一律の物になってしまうから、その度々直ぐに書き残しておくんですな、土佐日記はできてますか」と仰言った。私が目を丸くして先生の後に突っ立っていると 「出張してその報告書を提出するのは官吏としての義務ですよ」と重ねて仰言られた、義務という御言葉が強く心に残った事がいまでも忘れられない。そうして拙い手記ができ上った。 』
光田の指示で、義務として書いたものなのです。
光田健輔は、もともと小川に、救癩、祖国浄化のプロパガンダに使うつもりで書かせたのではないでしょうか?それは私の穿った勘ぐりなのだろうか?
木下は、
『 猫が草中の蟲をねらふやうに、すりが混雑の中の袂を窺ふやうに、何としつこく此女醫は不幸の家のまはりを徘徊することぞや。』
と書いていますが、小川の検診行は、光田の指令で、彼女の仕事として出向いているのである。
そして、小川のこの土佐日記は、検診行程に沿っておらず、彼女の行程とは前後して収められています。最も救癩思想、祖国浄化の色濃く出た「小島の春その1、その2」が最後に収まっているのです。そしてそこの部分が映画化されているのです。そうした恣意的なものを考えると、一層、小川の手記はプロパガンダに利用されているのではないかと言う思いを一層強くします。
それを、小川は、
『何も彼も田尻、内田、上尾諸先生、その他の方々のご配慮に負った。大勢の方々のご厚意に依ってできるこの本を私はただ一つのこの道での記録として、拙き身を7年間その御庇護の中において下さった光田園長先生の膝下にお捧げ申したい。』
と、書き、自分の手記が利用されているのではないかというようなことは、毛頭考えにありません。
体調を崩しても、使命を全うしようと、痛ましいほど無理をするところが手記の中に、しばしば出てきますが、そうしてついに、小川は過労がたたって結核で倒れてしまうのですが、そこまで至っても一縷も利用されたというものを抱いていない。
光岡が小川に
「そしてもつともつと病者の姿を描いて頂きたい。先生の御眼に寫つた療養所の生活をも描いて頂きたい。その中に私は私自身の生きるべき支へを見たい気がする。」
と書いたのには、
『 御回診があった、園長先生が「南島は全部収容になったそうですね、白砂のは大島へ頂かって貰ったそうな」と仰言った、「そうだそうです。白砂の人、可哀想で済まなくて………」「可哀想?可哀想な事はない、皆療養所へ行く事ができれば皆しあわせです」とゆったり仰言った。ほんとうにそうであった。あの人達がここへこられないからといって、淋しく想うなんて事は私の狭い感傷でしかなかった。どこだってよかったのだ、どこへだって救われればあの人達にも静かな幸福がくる日があるに違いない。あの山の上の人達はどこの療院に行っていても、矢張り私の親しい友達の一人であった。どうかどこにいてもあの人達二人が安らかでおります様に、いつまでもお雑様を飾っていた気持を忘れないで……。でも私は矢張り済まなかった。』
映画にも出てきましたが、桃畑の女が、小川のいる長島愛生園ではなく、大島青松園に入園してしまったのを、「済まない」と自分が看てやれないのを悔やんでいるのです。
小川は、「救われればあの人達にも静かな幸福がくる日があるに違いない」と真実思っているようです。療養所の生活が、真実幸せな生活なのか? 小川の無垢な心で、療養所の生活を活写してもらいたい、光岡には、療養所の生活を、どのように考え、どのように生き抜けばよいのか、迷うばかりで、それがどうしても見えて来ないからでしょう。それは、多分、東條耿一にも同じ思いだったことだろうと思います。小川先生が、これこそが療養生活というものを描いてくれれば、それを支えにしてもいいと、光岡は考えているのです。
木下が、
『亦敬虔な長い勤務に身を痛めて病の床に臥す其作者にも告げたい。ここに新しい道が有る。其開拓は困難であるが、感傷主義に萎へた心が、其企圖によって再び限り無い勇気を得るであらう。そのやうな熱烈な魂が、まだ此癩根絶策の正道の上にも必要であるのである。』
と、小川の「熱烈な魂が、まだ此癩根絶策の正道の上にも必要」とエールを送っている。
小川に、ほんとうに正しいハンセン病医療のあり方を、木下は期待しています、それは、この本の中に、患者に向かう純粋で無垢な小川だからこそ、きっと、感傷主義の「あきらめ」ではない、ハンセン病医療の真実のあり方に気付くときがくると、見るからでしょう。
「小島の春」には、いくつも、在宅にあって病を養っている老人の例が出てきます。小川も、それは神経型だから隔離しなくてもよいだろうということを言っている。それを推し進めれば、小笠原先生の「隔離不要論」に辿り着くのではないだろうか。
光岡が、小川のことを「あくまでも温い眼、どのやうな人間の中にもよさを見出す無垢の心である。」と書いているが、光田健輔を私淑する余り、無垢な小川には、光田の野望を見抜くことができなかったのではないだろうか? 小川は、光田の傀儡にされてしまっていたのだと、わたしは思う。
小川がハンセン病医療に携わったのは、たった7年間だった。無我夢中でやってきた7年間なのではないだろうか。木下の言う「正道」にまで、まだまだ考えの及ばないまま、病気で倒れてしまったというのが、小川の正しい見方ではないだろうか? 小川が健康で長くこの医療に携わることができたら、「小島の春」に見られるハンセン病患者への限りない「やさしさ」は、きっと、ハンセン病の医療のあり方が、隔離一辺倒であることに疑問を持つだろうと、私は推測します。
小川に、救癩思想や祖国浄化思想の先鋒者として、今日、小川を非難するのは、どこか間違っているように私は思う。小川の真心を踏みつけているように思えて、心が痛む。
「小島の春」、この手記と映画がその時代に及ぼした影響、それをもって、小川を評価し批難をするのはあまりにも、こちらがわのこころが無さ過ぎるように思う。荒井英子著「ハンセン病とキリスト教」に「小島の春現象」として、縷々書かれているが、私は、それは視点がずれているように思う。
私は、小川は純粋な情熱を利用されて「祖国浄化」のファシズムのしくみにはめ込まれてしまった、それが非人間的なもので間違っていると気付く以前に過労で倒れてしまったのであり、「小島の春」の社会的影響をもって小川を問題視するのは、あまりに雑な認識のように思います。

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