(つづき)
又更にその保証は、単に物の上からばかりではない。日本の國民精神自体の中に嚴として存在するのであります。日本の國民は皆、神の子であります。外國ではそうではない。アダム、イヴが蛇の狡智に誘はされ、蜜柑だか金柑だか、わしや好かんだかを食ったとかで、一生贖罪生活をしなければならぬといふ。いひかへれば彼等はまだこれから人並の人間になる生活をしなければならない。ところが日本は、全部神様です。彼等は「人道」「人道」と喧しくロにするが、成るほど.現在はまだ人でなく、人以下なのだから「人道」「人道」とかつぎ廻るのは不思議はない。処が日本人は既に人間を通り越して、神であります。之から益々磨きをかけて、澄んだ神になつてゆきさへすればよいのであります。
そして又日本人は全部が同じもの一つであります。齋藤は皆様と同じ血同じ魂であります。一体であり、無差別なのである。これを日本の一体観といふ。畏れ多いことながら、上御一人は國体から申し上げれば、生きた神様、現神であらせられる。そして一方、一体観から申せば、上御一人は國民と一であらせ給ふ。皇太后様も皆様を御覧遊ばすのに御自分と同じとしての御覧遊ばし方であります。これに反し、外国は個人主義の角突き合ひであります。我々天子様を、決して赤の他人と思ひはしない。自分の父母兄弟以上の大御親として仰ぎ奉る。死なば諸共であります。死なば諸共國家といふのは世界広しといへども日本が只一つあるのみであります。しかも瓊瓊杵尊の降りたまふ時「豊葦原の干五百秋の瑞穂の國はこれわが生みの子の君たるべき地なり、汝皇孫出でまして治(シ)らせ。さきくませ。寶祚の榮えまさんこと天壌と極まりなかるべし」と天祖の御詔勅を下さった。これは日本は、天子の御系統で君たるべき國である、との意味であります。万世一系なる天子と、万代不易の國民とがある。これが今度の戦ひの戦勝の最大なる所以であります。
かのやうにして日本を建設して來たが、これからが大事であります。このありがたい皇室に対し奉り、國民が何も感ぜずゐられようか。「七生報國」はまだ水臭い。恩に報ゆるといふが、一体恩が勘定出来るか。上御一人の恩、親の恩に報ずるなどといふことは出来ぬ。返しても返しても返し切れない。「報」ではなく「奉」である。身も心ぶちこんで差し上けるのであります。これがわが國民精神であります。日本人は、人に要求する場合に自ら体にあらはして見せる。奪ふ國民でなく、ささげる國民であります。
しからば皆様のごとき境遇に置かれ方はどうすればよいか。皆様はさぞ御病氣を口惜しく思はれてゐることでせうけれども皆様にとつては皆様がここにかくあるのが最大限の忠義であります。くやしい事は一つもない。日本の國民は由来、三種の神器の一つにもあるやうに、鏡に象徴される「澄み」の境地を尊びます。「まそかがみ」とは「真澄みの鏡」であります。日本人は澄むことの好きな國民であります。日本の天子様を「すめらみこと」と申上げるが、この「すめら」はすべる、統轄する、纏めるの意であると同時に又澄める、であります。「澄める尊」であります。最大限に澄めるものにして、はじめて統べることが出來る。統治者は神である。同様に、八紘一宇たらしめるためには、日本を最大限に澄ませねばなりません。その大きな任務の一部を、皆様もその境涯に於て、荷つてゐられるのであります。皆様が不幸にして、かかる境遇になられたことは、恐らく割の悪い役かも知れぬ、しかしそれは、ただ体だけであつて心に於ては煌として光つた日本民族の一人であります。
日本の國は澄まねばならぬ。もし皆が自らの逆境をかこち我儘な生活を社会に於て送ることによつて、この病が人にうつるとすればその時こそ皆様はくやしくないか。自分自身を最高に澄ませる、これが皆様の現在の生活でありますから、それがとりも直さず皆様の、國に封する最大の忠義であります。勿論それ以上に、皆様の有てる才能で出来ることをやられるがよろしい。そして、自分は、國を純化し浄化してゐるんだ、独りを澄ませてゐるんだといふ矜持と誇りをもたれてよいのであります。かかる皆様の御苦労を素知らぬ顔でゐる様な國民なら日本の國民ではありません。日本人ならば、日本國民なら皆様のことを認識すべきであります。
偖このやうな観点に立つ時、きつと皆様は非常に明るく朗らかになる、憂欝なものが追はれ、日本晴れの心になられると思ふ。我らは此処にかく生きるのが忠だ、忠義に変りはないと思つた時、皆様心が暗いですか。かうした氣持で努力してゆくことによつて、國家の隅々までが澄み切つてゆくとどうなるか。「澄む」は「住む」「棲む」と同根である。本當に澄んだものは、そこに総てを有つて來る、「澄む」とは「魂が住み、そこに本尊がゐる」「雑物がない」といふことであります。又「澄む」は「濟んだ」と伺じである。仕事が濟んだ、とは、魂があつて片が付いたといふことであります。そしてかかる生き方をした時、日本は「進め」るのであります。「進み」は「澄み澄み」であります。一つづつ片がついて行くことであります。
皆様はその境に於て、その生活に於て自己を最大限に澄ませて行って頂きたい。そして今日を終へて、一日一日と建設し進んでいただきたい。皆様は罪なくして、かかる御病氣になられた。しからば最大限の自分の事さへやればそれでよい。皆様が、かく住んでゐられることが、尊き國民の存在として、敬意を.ささげ、お話する所以であります。
どうか御体を大切にされて、以上私の申し述べた様な思ひで、日々を生きてゆかれんことを望んで、講演を終わります。
「山桜」昭和17年8月号より

0