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斉藤瀏 @ »
2007/7/18
「東條耿一の生涯と作品B」
療養所の文学
「兄は、晩年、いままでの詩も絵も日記もすべて焼いてしまって、信仰ひと筋に入っていった」と妹立子さんが書いていますし、遺稿「訪問者」にもそのことが暗示されています。東條が文学をしていた時代のものを焼いたのは、なぜなのでしょうか?いつだったのでしょうか? 昭和15年11月号「散華」に
詩心迷ふ
言にいひてさびしきかな
もだしゐてなぐさまぬかな
昭和13年の「鶯」の詩の時とは全く異なる悩み、詩自体に東條は行き詰まっているようです。「天路讃仰」(昭和16年1月号)は、信仰が美しい詩になっています。しかし、その後の「枯木のある風景」(昭和16年2月号)「落葉林にて」(昭和16年3月号)では、一変して深い悩みを表出しています。
そして、東條の最後の詩は、「病床閑日」(昭和17年7月号)です。そこでは、また静かないのちの歌が詠まれています。
東條は、昭和16年のはじめまで、曲がりなりにも、カトリックの信仰と文学を両立させて来ていたのだと思います。文学は、自意識の世界だと思います。神という絶対者より個、自分がどう考えるかと言うことにあると思います。東條の作品には、カトリックであるにも拘わらず、仏教的思想の作品が多くあります。「盂蘭盆」(昭和13年10月号)「木魚三題」(昭和14年12月号)「奥の細道」(昭和15年6月号)など。東條は、自分の意識がどんどん日本人古来の情緒、自然の、四季の暮らしの中にある慣習にどんどん引きつけられていく、その意識を見つめないわけにはいかなかったのではないだろうか。文学をすることは、東條のこの苦悩をますます深くしていったのではないだろうか。神か文学かの選択をしなければいられなかった、それは、すべて曖昧に出来ない東條の資質から、どこにも逃げ場のないものだったのではないでしょうか。「落葉林にて」(昭和16年3月号)の父は、実父を詠むかたちを取りながら、実は、神、イエス・キリストを詠んでいるのではないでしょうか。
「粛條と雨が降ってゐた。 何か落し物でも探すやうに、私の心は虚ろであった。
何がかうも空しいのであらうか。
私は野良犬のやうに濡れて歩いた。
幹々は雫に濡れて佇ち、落葉林の奥は深く 暗かった。
とある窪地に、私は異様な物を見つけた。
それは、頭と足とバラバラにされた、男の死體のやうであつた。
私は思はず聲を立てるところであつた。
よく見ると、身體の半ばは落葉に埋もり、頭と足だけが僅かに覗いてゐる。
病みこけた 皺くちやの顔と、粗れはてた二つの足と……。
「アッ、父!」と私は思はず叫んだ
(略)
「噫、父よ、父よ………。」日はとつぷりと暮れて、
雨はさびさびと降つてゐた。
「親不孝者、親不孝者………。」
何處からか苦しげに呻く父の聲が、私の耳元に、風のやうに流れてゐた……。」
文学をすることは、自分の信仰を問うとき、やはり「怯懦」ではないかと、東條は昭和16年に結論づけたのではないだろうか。遺稿「訪問者」に「われ怯懦にして、おん身を疎み」とあります、それが、東條が文学をしてきて到達した結論だったのだと思います。
伊藤秋雄の追悼記に「如何にして魂の安住を得ようかと、歌に迷ひ、句に彷徨ひ、生活を眞劔につきつめた態は、はた目にも痛々しい程であった。だが氏は遂に目的を得た。最後に行き着いたのは、聖なるカトリック信仰であった。そこに以前にも増して落ち着いた態が見られ、深々と柔らかなものに埋まってゐる安らかな姿が見られた。」と書かれているところからも、文学をしている時代の、東條が深い苦悩を抱えていたことを、推察することが出来ます。
東條が自ら、自分の文学作品を焼いたのは、「落葉林にて」を書いた後だったのではないでしょうか。
妹立子は、昭和15年に、東條が少年期に入園し受洗もした神山復生病院から来た、渡辺清二郎と結婚します。渡辺清二郎は、岩下壮一神父から受洗した敬虔なキリスト者で、戦後ずっとカトリック愛徳会の代表を務め、自治会の会長もするほどの人望篤い人でした。東條が、文学を捨てて、信仰生活に深く入るとき、よき相談にのって貰っていたことでしょう。
「癩者の改心」は、「いずみ」(昭和28年12月号)に載った遺稿ですので、いつごろ書かれものか分かりません。そのなかに東條が、「私は癩になった事を深く喜んでゐる。癩は私の心を清澄にし、私の人生に真の意義と価値を与えてくれた。癩によって私は始めて生き得たのだ。私を選び給ひし神は讃むべきかな」と言っています。そして、ヨブ記のことが書かれていますが、ヨブの如く生きる、全ての受難を身に負い、神を讃えて生きることを喜びとしたのではないでしょうか。
文学を捨て、ヨブの如く生きることを選んだ東條が、晩年、どのように暮らしたのでしょうか? 東條は、小鳥を飼うことが好きでした。東條は、昭和12年1月号の「初春のへど」に、三好達治の次の詩を引用しています。
日が暮れる この岐れ路を 橇は發つた……
立場の裏に頬白が 啼いてゐる 歌つてゐる
影が増す 雪の上に それは啼いてゐる 歌つてゐる
枯れ木の枝に ああそれは灯つてゐる 一つの歌 一つの生命(いのち)
――三好達治開花集より――
病が重なって、慰みで小鳥を飼いはじめたのではなく、もともと、小鳥が好きだったのではないでしょうか。愛唱する三好達治のたくさんの詩の中からこれを引用しているのは、小鳥に対する思いが若い頃から深いことを示しているように思います。「山桜」には随筆「駒鳥」(昭和15年3月)、「聲」には「鶯の歌」(昭和16年6月号)という文章もあり、また詩の中にもたびたび小鳥が出てきます。「鶯の歌」では、東條の口笛で、鶯が、掌に乗ってホーホーと啼き、籠にもどって、ケキョケキョと続ける、芸までするように小鳥と親しんでいます。また、
『「鶯は三段に鳴きわけるといふが、どうだ鳴きはわかるかな」と義父はまた煙草を吸付けて云つた。
「どんな風に鳴くのが良いのか、さつぱり解らないんです。ただ鳴き聲を聞いてゐれば楽しい方なので」
「それでいゝんだよ。小鳥を飼ふ心はなかなかいゝもんだよ。然し小鳥に飼はれてはいかんし、小鳥を飼ふのでもいかんね。そのどちらでもあつて、どちらでも無い心、この心を會得する事は、人の道、人生の妙味を會得する事にもなるんだ」
私は一語一語を深く味わった。』
と書いていますが、義父との会話のようにして東條の小鳥を飼う心を説明しているように思います。小鳥を飼うことにも、東條の自意識が出過ぎないように、自制しているしているのではないでしょうか。小鳥は小鳥らしく、自然体の中で小鳥を飼いたいと思っているのでしょう。それが、人の道であり、キリスト者の道だと信じていたのでしょう。
東條の、晩年の様子が、伊藤秋雄の「道を求めて」(昭和16年「山桜」11月号)に書かれているので、知ることが出来ます。
「あれ以後の氏は信仰生活に浸りきつてゐるやうに見える。その生活態度は実に落付いたものだつた。そして日増に募る信仰心は何物をも除けて、ひたすら美はしきものへと近づきつつあるやうに思はれた。「詩も書かなくなつた、近頃は殆どペンを持たぬ」と、いふ。書かなくても生活し得るやうになつたのであらう。いや生活そのものがすでに詩の世界なのであらう。「ペンを持たぬ詩人になりたい」とは私も希求する処の願望である。」
と書いています。「あれ以降」というのは、東條が作品を全て焼いてしまったことを指しているのではなかと思いますが、確信はありません。ただ、この稿は昭和16年11月号ですから、晩年の東條の落ち着いた精神生活を伺うことが出来るように思います。この頃、目はほとんど失明に近い状態でしたが、園内でも比較的恵まれた環境の「山の手地区」と呼ばれていた、北條が住んでいた「秩父舎」に近い「赤城舎」に棲んでいたようです。文学の詩を愛するように小鳥を飼い、その小鳥とともに東條の精神意識は自由に自然へ飛翔してゆき、豊かな、そして、落ち着いたものになっていたのではないでしょうか。
妻の文子さんは、昭和17年1月に急性肺炎で亡くなっています。東條は、後を追うように、その年の9月4日に没しました。
東條は、ハンセン病というもっとも厳しい荊の道を、個我を紛れさすことなく、宿命から逃げず、若いときは文学に、晩年は信仰ひと筋に、その生涯は壮絶な闘いの連続であったと思います。この世の負担を全身全霊で引き受けながら、それでも精神は清澄さを最期まで失わず、30歳の天命を全うして逝ったと思います。
そして、東條の、「負担は負わなければならない」という、厳しくも浄らかな精神は、私たちに、美しい詩を遺して逝ってくれました。(了)
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投稿者: しゅう
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