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2007/7/18
「東條耿一の生涯と作品@」
療養所の文学
東條耿一の生涯と作品
フランシスコ・ザベリオ、これが東條耿一の洗礼名です。15歳の時、神山復生病院のレゼー神父より、洗礼を受けました。このカトリックの教えが生涯にわたり東條のこころの柱になっています。
東條耿一は、1912年(明治45年)4月7日、栃木県鹿沼に生まれました。
六人兄弟姉妹の五男ではないかと思われます。きょうだい六人(養女の姉を含めると七人)のうち、三人がハンセン病を発病しています。全生園には、妹の立子と一緒に入園していました。
「癩者の父」(「聲」昭和16年1月号)によりますと、東條の発病は、15歳ですが、その二,三年前から顔に斑紋があったようです。家には、次男の兄がハンセン病を発病しており、東條は、小さい頃からずっと父の、兄への所業を見て育っています。
東條の生家はもともと、造り酒屋の裕福な家であったらしいですが、火災にあい身代を潰してしまいました。東條の記憶には、せまい長屋住まいの中で、来客があると、次男の兄は狭い戸棚の中に潜んで、病が世間に知れないよう、世間の目を恐れて、汲々と悩み苦しむ家族の姿ばかりが記憶に残っています。そうしたなかに、東條自身も、発病しました。
父は、兄に続いて東條も発病しましたので、烈しく落胆して「人間に生まれて人並みの身體を持てず人並みの生活も出来ない者は、生きていても本当に詰まらぬ。生きている資格がない、長く生き恥を晒すよりは、一思いに死んだ方がましだ。死ぬには一分とはいらない、剃刀で一寸咽を切れば万事解決される、お前にやる勇気がなければ、父が咽喉を切って手本を示そう。」と死を迫り、夜ゆっくり寝ていられなかったと書いています。
父に死ね死ねと攻め立てられて、家を出奔していた兄は、身延山深敬園から神山復生病院に流れてゆき、そこから手紙で所在を知らせてきました。その、兄の入っている神山復生病院に、昭和2年8月30日に、東條も入院しています。
親に死ねと攻められ、生きる希望を全く失っていた15歳の多感な東條が、神山復生病院で生き返ったのだと思います。
神山復生病院は、1890年(明治23年)フランスの宣教師テストウィード神父によって設立されました。すべてフランスの資金によって設立され、パリミッションのカトリックの教えによって運営され、西洋的な情感が色濃く病院内にあったのだろうと思います。
東條が洗礼を受けたレゼー神父は、第五代院長です。もともとフランスの貴族の生まれで、明治初期に日本に宣教師として来日され、日本各地を伝道して回られ、晩年自ら志願して、神山の院長になられました。昭和五年に亡くなられており、いまも、神山復生病院の墓地に眠っておられます。体格のとても大きく、声も大きい、口角泡を飛ばす熱弁の説教をされたそうです。著書に「真理の本源」という改訂版も出て、版を重ねたご本も残っています。
東條が入院している頃、後にナイチンゲール賞を受けられた井深八重さんが、看護婦の資格を取って、レゼー神父を私淑して、戻っておられていたはずです。井深さんがちょうど30歳頃だと思います、英語の教師をしていた英語力で、レゼー神父と患者とを繋ぐ橋渡しをされていたそうです。東條も、井深さんの看護を受けながら、信仰を得ることができたのだろうと思います。
しかし、東條は、翌年の昭和3年4月12日に、入院から僅か8ヶ月余りで、顔の斑紋が消えたのを、癩が直ったように両親は喜び、退院をせがまれ、止む無く退院しています。
郷里に戻り、線香工場に就職し、大楓子油を打ちながら、この注射が当時唯一の治療薬で、注射はとても痛いそうです。注射の跡から人に気付かれるのではないかと気の休まらない脅えた日々を送っています。だんだん、復生病院の思い出も、洗礼の感激も忘れ、自暴自棄になり、刹那享楽に、酒を飲み、女と遊ぶ日々に堕ちていきました。
数え20歳の春、徴兵検査を受け、当然体の異常を発見されて落ちてしまいます。家にも帰られず、誰にも告げず自殺行に出ます。薬を用意して飲みましたが苦しくて吐き出してしまい、死に切れず、人に捕らえられるように全生園に収容されます。昭和8年4月21日のことでした。その後すぐに、同病の妹に、「心配しないでこちらに来るように」と手紙を書き、二週間後に妹、立子も全生園に入ります。そのとき妹立子は、「兄は明るくなっていた」と感想を述べています。きっと、ハンセン病でも人目を気にしないで生きられる場所があって一時的にホッとしたのでしょう。
当時、全生園では、治療費を自分で収める〈相談所患者〉と、東條のように収容されて入る〈一般寮舎〉とがありました。東條が収容された同じ年のひと月早く、昭和8年3月に、相談所患者として、光岡良二が東大二年を休学にして、入院しています。
園内では相互扶助ということで作業が強いられていましたが、東條は当時最も重労働と言われ、やり手の少なかった不自由者棟や精神病棟の付き添い夫を失明するまでずっとしています。
また、園内では、文芸活動が奨励されており、「山桜」は大正8年に創刊され、その後月刊されるようになってきていました。文芸特集号として選者による選考も随時あり、特に、詩は佐藤信重という詩人が昭和7年頃から作品を読み、講評を書いて、指導をしています。佐藤信重は「詩の哺育者」と呼ばれているほど、多くの詩人を育てました。東條は佐藤信重の指導のもと、ハンセン病という最も過酷な受難を自ら癒すための自己表現として詩を急速に習得していきました。
そして、東條が全生園に入った1年1ヶ月後の、昭和9年5月18日に、相談所患者として北條民雄が入ってきます。北條と東條、この名前の近しいことでも分かりますが、ふたりは決定的に、宿命の出会いをしているのです。北條は、日記のなかに東條のことを「いのちの友」と呼んでいますが、東條にとってもそれは同じことでした。光岡良二は、「いのちの火影」で、東條について次のように書いています。
『東條耿一は、同じ病で兄の入院していた富士岳麓の神山復生病院に少年時を過しており、そこで身につけた西洋的なミッション病院の情感と、郷里の下野の荒々しい野生を身体の中にひそめた、無口で、はげしい青年で、来た頃は絵、音楽、詩、何にも手をつけ、器用であった。彼は妹と前後して入院してきた。北條と最も親交を結ぶことになったのは彼であった。直情的な気性のはげしさと、虚無的な心情、そうした二人に共通したものが彼らを結びつけたのだろう。<中略>彼は病勢が早く進み、盲人になるに及んで、少年時に植えつけられたカトリック信仰に入って行った。』
と、あまり好意的と思えない感想を述べています。
北條は、気性の激しさを外に出しますが、東條は、激しさをうちにひそめた青年だったようです。
昭和10年に、北條民雄を中心とする「文学サークル」が結成されます。内田静生、東條準(東條耿一)、十条號一(北條民雄)、岸根光雄(光岡良二)、於泉信雄、フモト・カレー(麓花冷)の初め六人集として結成されますが、すぐに、北條の傲慢さと、フモト・カレーの施設側に媚びた態度にそりが合わず、フモト・カレーが抜けて五人集になったようです。
昭和11年2月号「文学界」に、川端康成の推薦で北條民雄の「いのちの初夜」が掲載され、大きな反響があり、北條は、その年の文学賞を取ります。そのことで、全生園では、一層文学に熱が入り、東條も文学に、文学だけは、ハンセン病でも差別されることがなく才能があれば世に出ることも出来る、自由があると期待したと思います。東條も昭和11年までさかんに一般誌に投稿をしています。そして、西條八十の「蝋人形」では、特別推薦詩人に選ばれてもいます。北條民雄の在園した4年間が最も全生園の文学熱が盛んな時代だったのではないでしょうか。長い全生園の歴史の上からみても、文学の花が咲いた一時代だったと思います。
東條の詩作する場は、 園内作業の、病棟の付添夫の机でした。「柏舎」に入っていましたが、12.5畳の部屋に8人が棲む雑居部屋では、一人の思索は難しく、作業場の机が創作の場になっていました。北條民雄の昭和11年6月28日の日記に「東條がA・Gの所から本箱を貰ってきて盛んに本を並べ出した。半分くらいは僕が呉れてやった本であるが、しかし彼は楽しそうに本を並べている。じっと見ているうちに僕はなんとなく涙ぐましいほど彼が気の毒にもいとおしく思われた。勿論、これといって値のある本は一冊もない。それでも彼は、右に置いてみたり左に立ててみたりしながら、なるべく立派に見えるように骨を折っている。彼にはこうしたこと以外に何にも喜びがないのだ。あの狂病棟の一室で、毎日毎日狂人たちと暮らしながら、その部屋を自分の部屋と定め、粗末な机と貧弱な小さな本箱を眺めては、豊かな喜びを味わって詩を書いている彼。僕は今日ほど彼に友情を覚えたことはない。彼に本をやったことをこの上なく嬉しく思った。」と書いています。北條の日記によって東條の文学環境を知ることが出来ます。
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投稿者: しゅう
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