「戦前の療養所の詩壇における、東條耿一の位置について」
療養所の文学
戦前にハンセン病の療養所からでた詩集と言えば、「野の家族」(全生園合同)、「残照」(坂井新一、長島愛生)、「長島詩謡」(長島愛生合同)「霊魂は羽ばたく」(長田穂波、大島青松)の4冊だと思います。
戦後出た「癩者の魂」(全生園合同)はたいへん良い作品が撰集されているように思います、そこに、戦中に亡くなった、東條の作品、松井秀夜の作品が収められています。
単行本でみるとその辺りに尽きるかと思いますが、まず、「山桜」の詩壇について見てゆきたいと思います。
全生園の詩壇は、昭和7年に佐藤信重が詩の選者をするようになり、徐々に佐藤の指導に育まれて、詩の表現を伸ばしていったと思います。東條が詩を書き出した昭和9年頃には、内田静生、杜芙蓉子、大津哲緒などが盛んに詩を書き、一般誌にも投稿していました。左記三人が詩の先駆者的存在ではないでしょうか。全生園の中に詩を書く人は総勢25名ほど居たのではないだろうか、その人たちが互いに刺激しあいながら、切磋琢磨して、徐々に表現を磨いていったのだろうと思います。
昭和14年になると、「山桜」の詩壇は、第一部、第二部にわかれ、第一部は佐藤信重の選も講評もなく一人立ちさせている。その人たちが、全生園の詩壇を代表する人たちだと見て良いと思います。その人たちというのは、内田静生(大槻達)、鈴木楽光(樫木吹夫)、大津哲緒(丘多藻都)、河野和人(筧雄児)、東條耿一、松井秀夜である。杜芙蓉子は、昭和15年に亡くなるが、昭和14年は病状が良くないらしく作品がほとんどない。
「山桜」の年末恒例に麓花嶺が「本年度療養所文学の動向」を書いているが、昭和15年の詩についての稿を引いてみます。
「療養所文学のなかで、他の種目は、或る水準に達するとそこで一度伸び止まるものだが、詩だけはそれがなく天井知らずの成長を見せている。もっともこれは、特に「山桜」詩壇に対して云えることだが、また一面歴史が若いことによるかも知れない。しかし、それよりも何よりも最も大きな問題は指導のよろしきを得ているという点にあるであろう。「人生勉強のための文学」ということが「山桜」の指導精神であると前に云ったが、これは実は、「山桜」のそれと詩壇に対する佐藤先生の指導態度とが相呼応して作りあげたと云うよりも、寧ろ、佐藤先生の指導態度に既にそれがあって、詩壇を通して「山桜」全体の文学精神に反映したのだと云えるのかもしれない。兎に角そうした意味で、詩壇は勿論「山桜」そのものとしても先生に対しては大いに敬意を表すべきであろう。どこの療養所でも、文学に対して注意してみれば、陰に陽に力添えをしてくれている人は少なくないが、そのなかでも斯うして永いあいだ我がものとして終始親身な手曳きをしてくれる人は、なかなかないものである。
さて、この辺りで作品に就いてだが、この一年を瞥見して、「山桜」詩壇に対して具体的なことを云えば、前にも云った通り、各人がじっくり個性的に伸びてきた。だが、第一部の人々に目立つが、第二部の人々も一勢に響を並べて進んできた。だが、第一部の人々が、他の種目の上部の様に比較的に定着していないで、ぐんぐん伸展していたので割合目立ったが、本質的な伸展の度が大きかった。第一部では、内田静生が不断に努力していたが、これが、芸術的円熟と云うよりも、それへの態度の模索であって、詩人としての人間的苦悩の?がありそれに対し東條耿一は芸術的円熟に入り、河野和人の詩精神は昂揚純粋になり、松井秀夜は真の自己の世界に拓け入り、大津哲緒、樫木吹夫はいよいよ持ち味の滋味が深まってきた。」
満州事変から勃発した戦火は昭和16年に第二次世界大戦へ拡大され、日本全土戦争一色になる。「山桜」は、昭和17年に入ると麓花嶺が「人生勉強のための文学」といった文学的なものから、戦争が色濃く反映されて、療養所にいるのも戦場の兵士とおなじ、御国のために闘うもの、忍ぶものという国揚する作品が占めるようになる。昭和15年ごろが戦前の文芸の最高峰にあったということが言えるように思う。詩壇において上記の第一部のものたちが全生園の詩壇を引っ張っていていた人たちだというだけでなく、療養所全体をみても、指導者に恵まれていた全生園の詩人たちが療養所を代表する人たちだということを言っても過言ではないと思う。文芸特集号はひろく他園からも応募できるようになっているが、戦前においては、ほとんど全生園の中の人が受賞をしている点からも明らかでしょう。私自身は第一部のかなでも、内田静生と東條耿一が、文学的に見て群を抜けていたのではないかと思っている。
全生園から目を外に向けて見てみたい。
まず、単行本の詩集「残照」を出している坂井新一ですが、彼の詩は、泉のようにこんこんのわき出でる清明な心情の発露がありますが、作品は素朴で、文学的には小品ではないでしょうか。坂井は昭和9年に亡くなっており、「残照」は遺稿集です。
あと一人の、「霊魂は羽ばたく」を上梓している長田穂波は(大島青松園)は、「医事公論」(昭和14,3,18)で、光岡良二、古家嘉彦と共に、癩についての所信を書いているところからも、長田は社会的にみてかなり著名な存在であったのだろうと思います。彼は、敬虔なクリスチャンで、宗教書の著作がたいへん多い、しっかりとした療養の思想をもって作品を書いていると思います。詩集「霊魂は羽ばたく」は、宗教色がたいへん色濃い。信仰が詩のかたちで表現をされた宗教詩ということが言えると思います。東條もキリスト者ですので、共通するところがあると思いますので、長田の詩についてはすこし詳細に見てみたいと思います。
長田の詩を一篇引いて見ます。
活ける味
長田穂波
活きてることは有難い
何と大いなる恩寵ではないか
活きて居ることは神の在す確かな証だ
感激で涙ぐましくなる。
× × ×
活きるのはつらいつてか
活きて居れるからつらい想ひも出来る
苦痛と言ふことは
くわゐの苦味と同じやう
決して悪いものでない!
× × ×
活きることは厭きたつてか
それは(活きる)その真味をしらぬ故だよ
おちついて噛みしめてみよ
棘と堅さと渋味の奥に
本味があるんだ・・・・・・栗のやうに
視よ・・・・・・神は永久に活きて在す。
そして、あきることはない
それ程によきものが
何うして悪かろう筈がない。
× × ×
何うしたのか?
君は、まあ・・・・・・何と言ふことか!
死など・・・・・・いやな死など背負つて
さあ、捨てなさい
そんな物を持つて居るから
活きるのが悲しいの厭だのと
言わねばならんのだ
捨ててごらん、ほら活きるのは嬉しからう。
× × ×
以下略
この長田の宗教詩は文学と言えるのでしょうか?
わたしは、長田の詩を読んで、東條が昭和16年ごろ生じた文学への行き詰まりについてふと感ずるところがありました。
東條は、クリスチャンであっても、こうした長田のような宗教詩というものを、最後に書いていますが、途中は書いていません。東條の宗教が色濃く出た詩と言えるものには、遺稿となった「訪問者」の他には、「天路讃仰」ではないでしょうか。これら二つの作品は、長田の作品とはひと味違っていると思いますが、東條は、宗教詩、信仰がありのまま出る、主を賛美するものは、文学とは違うと考えていたのではないでしょうか。
東條が「盂蘭盆」や「木魚三題」の異宗教を題材とした詩を書いているのは、何故か?と理解に苦しむところですが、これは、東條の、詩人としての自負なのだろうと思います。自負が書かせたのではないでしょうか?
東條は、信仰生活が深くなるにつれて、詩人としての自立した自負を保ちえなくなった、とうとう、主を讃える詩を直裁に書くところまで行き着いてしまった。東條のなかで、キリスト者と詩人の両立を保ち得なくなった。東條の詩人は斯くあるべき思うところは私たちが想像するよりもっと高いところを目指していたのではないだろうか? 自分の病からくる言われ無き苦しみ、その負担を負ってくれるのはイエス・キリストをおいて他にない、文学も負担を負ってくれるものではあったが、それを両立することができなくなった時、それは、大きな衝撃であったに違いない。それが、作品の「枯木のある風景」(昭和十六年二月号)、「落葉林にて」(昭和十六年三月号)に出ているのではないだろうか?
東條は、その現実を受け入れた、それは、文学を捨てても悔いがないほどに絶対なる神を、東條は、内的に、はっきり創造していたからだろう、そこで、東條は、自分の作品も文学書もすべて焼いて灰にしてしまったのだろう。
東條は長田の宗教詩を文学とは認めなかっただろう、と思います。
話の筋が東條の晩年の文学放棄に反れてゆきましたが、「詩壇における東條の位置」について、私の見方は、内田静生と東條耿一が、戦前の療養所の詩壇を代表するものであると考えます。二人とも個人の詩集を今日まで持っていないこと、時代の中で忘れ去られ、埋もれてしまっていることを惜しみます。

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