全生園に豚君之碑というのがある。

園にあった養豚場を閉鎖して、そのお金で、神社通りを舗装したものらしい。昭和51年のこと。「豚君ありがとう」の意味で、この碑が創られたと語られている。
ハンセン病は神経を冒される病気ですので、視神経が冒されて、失明をする人が大変に多い。東條耿一も、ほとんど、失明に近く、手足の知覚神経も冒されているので、失明は、恐ろしい闇の世界に落ち込むものである。東條は、文学を志す作家として、失明を恐れ、それを深く悲しみました。
舗装されると、足下が歩きやすくなる。失明者には特に喜ばれたことでしょう。その返礼の意味で、豚君之碑があるのだという。
鳥ウイルスの流行で、恐ろしい数の鶏が、大きな穴に埋められたりする現代だが、なんという温かい豚への配慮だろうか。
今年初めて、豚君之碑を見た。矢嶋公園の方へはあまり足を運ぶことがなかったからだ。BBSで話題になり、探してみた。
豚君之碑と書かれた石ころがごろりとあるだけだと思っていた。
ところが、画像のように、木に囲まれて、小さいものだが(これが大きかったら、また、違和感があると思う)、立派な碑であった。
これに対面していて、以前、どこかで似たような場面に出会ったような気がした。そう、井月さんだ。
私は、井上井月の漂泊に、むかし心を寄せていた。ハンセン病文学全集に出会うことがなかったら、多分、井月の漂泊の心を、今頃、追っていたと思う。

井月の墓を、やっと探して、3年前に詣でたことがあります。
墓は風化して、「井上井月の墓」と判読するのが難しい。
井月は、乞食井月といわれ、襤褸を着て、伊那谷を彷徨いました。生涯落ち着く家を持たず、書と俳句の会によばれて、風呂に入れて貰い、書を書き、俳句を詠み、ご馳走になり、夜尿症があるので、納屋で寝ました。そんな井月を伊那の人は、温かく見守りました。井月亡き後、伊那の人は、井月を偲び、たくさんの井月の句碑を建立しています。
伊那の人情が、井月を、その地に終生、留めたのでしょう。
一つは碑で、一つは墓ですが、どこか似たところがあると、私に感じられるのも、宜なるところと思います。

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