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2005/12/20
「渋谷その1 ミヅノナガルル:案内は芳賀啓さん」
文学散歩
ナベサン文学散歩 第5弾 2005.12.18
今回の集合は、小田急線参宮橋、午後2時。
参宮橋は、明治神宮西参道の橋という意味で付けられたという、その橋を渡って、代々木スポーツセンターの近代的な建物を左手に眺めながら、代々木の方へ下って行く。途中小田急線の方へ折れる、小道に入る。
この小道が、むかしの、河骨川で、「春の小川」の発祥の地だという。いまは、暗渠となり、地中に潜っている。どこでも、都会から川が消えてしまった。それは小鳥や虫や魚が容易に住めない環境である、都心が無機質化して寂しいこと限りなし、コンクリートジャングル。
私は数年前まで、朝のジョッキングをしていたが、春になると、小川はきらきらとほんとうに輝きを増す。思わず、「春の小川はさらさらゆくよ・・・」と歌い出したものだ。この歌は、誰にも親しまれている唱歌だと思うけれど、
歌碑の前で、みんな声を出して合唱した。
春の小川は さらさら流る。
岸のすみれや れんげの花に、
匂(にお)いめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやく如く。
河骨
は尾瀬でよく見たが、私の好きな花です。ころっとした玉のような黄色の花を、水面にもたげて咲く、イメージの膨らむ花だと思う。私の句に、
河骨や二階の人へ往復す しゅう
という句を作ったことがある。「春の小川」が、河骨の名の付く川で詠まれたのがうれしい。スミレやれんげが咲いていたのであろう。作詞家の高野辰之は、この近所に住んで居り、この歌が作られたものらしい。
そこから坂を上がって、代々木八幡神社へ。
この境内の中に、平岩弓枝が住んでいるという。平岩は、ここの宮司の一人娘で、ダンナがいま宮司を務めているという話だった。
師走らしく、茅の輪が本殿の前に設置されている。若いカップルがお参りして帰って行った。
境内に縄文遺跡がある。
6000年ぐらい前から、この辺りに人間が住んでいたと言うことになるらしい。有名な神社は、縄文時代の土地の要所にあり、多くは岬に位置する。文学散歩の度にそうしたところに出くわした。ここもそれにならい、むかしまわりは海で、岬であったところ、海の幸を採って定住をしたのであろう。岬を偲ばせてくれる斜面
代々木八幡神社から、次は、寺山修司旧居跡へ向かう。
河骨川(上)を歩いてきたが、ここで宇田川(下)へ合流し、ここから宇田川の上を歩く。
渋谷区神山町10。寺山修司が最晩年、この地に(上)母親と住んでいた。建物は、修司の死後程なく取り壊されて、当時の建物ではない。1階に母親、2階に修司が住んだ、仕事場でもあったから、人の出入りが相当に烈しかったらしい、隣はその当時からある家(下)で、迷惑をしたと語っているとのこと。さもありなん。
次に、国木田独歩が信子さんと離婚して傷心のうちに住んだところ。
芳賀さんが用意してくれた資料から
「欺かざるの記、9月
吾が身今は渋谷村なる閑居にあり。
省略
実に昨年のこと夢のごとし。いまや信子は北に在りと云ふ。
哀れなるは吾が身の上かな。
われ詩人たるべしといふ。されどわれに此の資格ありや否や。神の愛と義を感ずる事は極めて薄し。ただ偏へに人生の不思議に驚くのみ。まぼろしの世なるかな。」
文学散歩の参加者に信子さんがいる、その信子さんが読んでくれた。
しばし、国木田独歩の感傷に浸る。
近くに、2.26事件の碑があるというので、予定のコースにないけれど、回る。
碑は、陸軍刑務所の跡に建っている。処刑された将校や、自決した者、20名の霊に報いるものらしい。事件そのものが、わたしは、よく分からないけれど、観音様が手を大きく空へ差し揚げている、どこか異形な、不思議な像である。
次は、竹下夢二の旧居跡、ここで、すっかり渋谷の繁華街に入る。
大正10年に、佐々木お葉と同棲したところ。またその近くに、山野愛山旧居跡もある。人混みの中、17人の群からはぐれないように、ついて行く。
渋谷センター街(上)、この地下に宇田川が流れており、東京が江戸であったむかし、水車も回っていた田舎であった。山手線を挟んで線路の反対側に渋谷川(下)が流れている。宇田川は、渋谷川に合流する。
見えなくても、渋谷の街は、地下に川が流れているので、地下街が造れないのだという。そう言えば、渋谷には大きな地下街がない。
渋谷の首都高の下あたりに突如、暗渠が地上に出ている。
ほとんど水が流れていないように見えるが、雨が降れば、ぐっと水嵩が上がるとのこと、生きた川であり、東京湾へ流れ込んでいる。
すっかり日が暮れてしまったが、渋谷の繁華街の近くに大きな神社がある。私は、いままで一度も気が付いたことがなかったが、金王八幡宮がある。初めて知った。新宿に花園神社があり、渋谷は金王八幡宮か。
この金王八幡宮付近に、渋谷天井桟敷跡や、吉井勇旧居跡があるが、ネオンの中で、もう辺りの様子が分からない。
冬の日の暮れは早い。また、日暮れ近くからぐっと空気が冷たくなった。今回の文学散歩は、川に沿って歩いた。地図の専門家、芳賀さんのご案内がなければ、歩けないコース。渋谷の知られざる地形を、文学と共に歩くことが出来ました。次回をまた楽しみにしてます、ありがとう。
2
投稿者: しゅう
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2005/8/29
「永井荷風の文学散歩/銀座」
文学散歩
文学散歩シリーズ第3弾
2005.8.28
今回の、「文学散歩」のご案内は、このブログの下に句集「亜大陸」を紹介しているが、その句集の俳人、渡部氏である。
数寄屋橋交番に午後2時30分集合。
なかなか全員が揃わず、ひとり終点のそば屋さんで合流することが電話で確認できて、3時まえやっと、スタート。
永井荷風が、「断腸亭日乗」を書き始めた頃、大正4年ごろから京橋区に住み始める。そして、銀座のカフェー通いを頻繁にしていたらしい。
江戸時代に、能役者の住まい「金春(こんぱる)屋敷」があった名残ので、金春通りと名付けられている通りに、黒猫意匠の宅急便取扱所がある。今日的なお店と思うが、如何にも金春通りに相応しい古風な佇まいであった。
表通りに、「since 1899」と看板が掛かっている、ビヤーホール「ライオン」がいまも同じ場所に建っている。
荷風は、店として品のよかった当時はカフェーと呼ばれたようだが、「ライオン」より、新しくできた風俗度の高い「タイガー(太訝)」へ好んで出かけたようです。「タイガー」は今日、消失しているが、「ライオン」のはす向かいにあって、現在のワシントン靴店の隣あたりになるらしい。
銀座の表通りから築地方面へ、いま、首都高速が走り、昔、築地川だったと言うから、驚きである。亀井橋を渡り、築地警察署の前を通り、荷風の家のあった築地2丁目へ行く。
築地2丁目の交差点に、鰻屋の「宮川」がある。横浜にもあり、時に食べに行くが、ここが本店という。
この路地あたりが荷風が住んでいたのではないかと立ってみると、如何にも、当時を偲ばせてくれる小綺麗な古い家があった。徹底して個人主義を通した荷風は、幾人の女と築地二丁目の家で暮らしたのだろうか? 女とどんな暮らしをしたのだろうか?
荷風の住んでいた当時から、荷風の「雪解」などにも出てくる築地本願寺がすぐ近くにある。
震災で焼けて、荷風が眺めただろうと思われる建物ではない。この本堂の再建は、東京(帝国)大学工学部教授・伊東忠太博士の設計による古代インド様式で昭和六(一九三一)年に起工、三年後の昭和九(一九三四)年に落成されたもの。
京都にある、西本願寺の築地別院ということですが、本院とは似ても似つかない異形の寺院に、私は、初めて訪ねたので、唖然としてしまった。
最後に、「断腸亭日乗」に、「つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染みを重ねたる女を列挙すべし。」と書かれ、載っている名前を挙げておこう。
[原本数字朱書]
一
、鈴木かつ
二
、蔵田よし
三
、吉野こう
四
、内田八重
五
、米田みよ
六
、中村ふさ
八
、野中直
七
、今村栄
十三
、関根うた
十二
、清元秀梅
十一
、白鳩銀子
十五
、黒沢きみ
十六
、渡辺美代
この外臨時のもの挙ぐるに遑(いとま)あらず、
[欄外墨書]九、大竹とみ
[欄外墨書]十、古田ひさ
[欄外墨書]十四、山路さん子
朱書にある女性と、墨書にかかれた女性と、荷風の中で何が違うのだろうか?よく分からない。
「この外臨時のもの挙ぐるに遑(いとま)あらず」これには、思わず失笑してしまいました。
今回も楽しい文学散歩であった。渡部氏に感謝して、簡単ですが、この辺で、銀座の文学散歩のメモを終了にしたい。
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投稿者: しゅう
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2005/6/1
「平維盛伝説」
文学散歩
ゆくりなくも一夜の湯宿(やど)に秘話ありて維盛の墓訪ねてもみん
美しい日本の景なす水張りの棚田の中に五輪の墓現り
日を浴びて光る水田の芥ともおたまじゃくしが生れて浮遊す
千年の眠りの底よりもたげたる潜望鏡とも見えし墓かも
飛図温泉、静岡県芝川町上稲子
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投稿者: しゅう
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2005/5/10
「平維盛伝説」
文学散歩
インターネットの宿泊予約で、パソコン上にひょっこり上がってきた、「秘境の一軒宿」という、「飛図温泉」に、それほどの期待もしなかったが、一夜の宿にすることにした。
静岡県芝川町上稲子、カーナビがあるから、どんな秘境でも、苦無く行くことが出来る。
富士山麓と身延山地の狭間にあり、富士川へ合流する稲子川の両側は、奥深い山がそそり立っている。稲子川に沿って県道、469号が走っているが、飛図温泉の少し先で、行き止まりである。どこにも抜けることの出来ない山峡の部落なのです。
宿で、ここは「平家の落人の里」だと聞いた。村のほとんどは、佐野さんで、平維盛の墓もあるという。自給自足、田もあり、茶畑あり、野菜を作り、山の恵みを戴く。
山峡の部落だから、田には段差があり、私の田舎の田園風景と異なる。
最近は、休耕田が多いという、思いがけず、蓮華田に出会った。肥沃な土地なのだろうか、蓮華がよく育って、背が高い。これでは、蓮華の花輪が、うまく作れそうだ。
田んぼの中にあるという、平維盛の墓を、郵便局とも農協とも思えるところに入ってゆき、すいませ〜んと、教えてもらう。
斜面を、道なりに登ってゆくと、あるという。かなり急な斜面だ。
しばらく上ると、棚田の中に、ぽつんと、五輪の塔がある。
平維盛は、平清盛の直系の孫。大変に美男で、笛を奏でる貴公子であった。あまりに天下太平の中で育ったので、武士でありながら武術にはひどく弱かった。源平の合戦では、まず富士川で合戦するけれども、鳥の飛び立つのに敵の急襲と間違えて、恐れを抱いて、敗退をしたと言われている。壇ノ浦で、入水したということになっているが、実は生きのびて、ここ稲子にひっそりと棲んだと言い伝えられているらしい。平維盛の、落人の先は、ほかにも幾つかあるようなので、真実の程は分からない。
墓は、確かに、稲子の部落を一望できるところに建っている。田植えを終わったばかりの棚田、水鏡の眩しさの中で、平維盛は、いま静かに眠っている。
水田の中には、生まれて間もない、おたまじゃくしが、夢想するように、四方へ自由に泳いでいた。
畦には、いまは珍しい、ニホンタンポポが、くっきりと、黄色の花を大きく広げて、溶けだすように咲いていた。
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投稿者: しゅう
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2005/4/27
「福田甲子雄を悼む。」
文学散歩
2005年4月25日未明に亡くなられた。享年77歳。
福田甲子雄は、1927年、山梨県に生まれ、飯田蛇笏に師事、そのご龍太に連なり、龍太の「雲母」終刊後は、「白露」の創刊同人である。
甲斐の厳しい風土を愛し、そこに暮らし人間の営みを、澄み切った心眼で詠む俳人である。
冥福を祈って、私の特に好きな句をすこし上げておこう。
牛の眼が人を疑ふ霧の中
あるだけの明るさを負ひ麦運び
磨かれし馬匂うなり夏木立
行く年の追へばひろがる家郷の灯
誕生も死も花冷えの寝間ひとつ
人それぞれに山中の寒気に溶け
眠る田に三日つづきの嶽颪
ふるさとの土に溶けゆく花曇
舌かみ切らんばかり余寒の山桜
水番の筵の上の晴夜かな
稲刈つて鳥入れかはる甲斐の空
秋は豊かに山富む国の晴れわたり
恋のこと報せくる子や麦穂立つ
春一番砂ざらざらと家を責め
思はざる山より出でし後の月
北嶽のかがやき増せば一挙に冬
甕の落つ蛾の銀粉のひろがれり
北風の吹けば吹くほど富士聳ゆ
葦を焼くなかにひとすぢ蓬の香
金襴の下は冷たき未知の国
思ひ切り悪き子もゐる夏の川
植ゑをへしどの田にも星沈みをり
黍畑に月の輪熊の遊びをり
一山の新樹のうねる目覚めかな
花月夜死後もあひたきひとひとり
紅梅の雪は一夜の戯れか
豊年を呼び交わしゐる山河かな
身じろぎも許さぬ月の真葛原
靄あげて種蒔くを待つ大地かな
部屋中に川音を入れ衣被
今頃、葬儀の最中だろう。福田甲子雄をこころから悼む。
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投稿者: しゅう
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2005/4/26
「漱石散歩」
文学散歩
4月24日(日)
池袋駅東口 PM1:30集合、天気は快晴。
岩波の「漱石全集」の編集者、秋山氏のご案内で、漱石のゆかりの地を歩こうというお誘いに参加、漱石好きが集まっている。
暑くなく、寒くなく、春のうららかな日に誘われて、気持ちも軽く、足取りも軽やかに出発。
1.雑司が谷墓地
漱石の墓がある。まことに重々しい、肘掛け椅子のような形の、大きな石の固まりである。設計は鏡子夫人の妹婿の建築家である鈴木禎次による。墓碑の筆蹟は、漱石の先輩、菅虎雄の筆による。
文獻院古道漱石居士
その左に夫人の戒名が、同じ筆蹟で彫られている。
圓明院清操浄鏡大姉
漱石は大正5年12月9日に亡くなっている。その一周忌に、夫人は自分の戒名も墓に入れたようですね。一周忌の記念写真に、すでに墓に刻まれている写真が残っている。夫人は、昭和38年4月18日に没しているので、実に、47年後に、すでに戒名の刻まれた、この墓に入ったことになる。自分の戒名を墓に早く入れると長生きできるのだろうか?
2.甘泉園
漱石の、幼友達、鈴木禄三郎の屋敷であったところで、よく一緒にここで遊んだという。湧き出る水がお茶によいということで、この名前があるとか。水質が良いので、池のなかに生き物が多いらしい。子供たちが、池の中に入って、しきりと何か探して遊んでいた。「エビが捕れた」と見せてくれた。漱石も、こんな遊びをしただろうか?? ここは子供が大勢遊んでいる。
3.小倉屋
漱石の生家の隣。赤穂浪士の堀部安兵衛が高田馬場の仇討ちに、ここの升酒を引っかけて仇討ちに臨んだという酒屋。いまも酒屋で、「夏目酒」というお酒も売っているらしいが、生憎、日曜日で休業していた。残念である。
4.漱石の生家跡
小倉屋の隣が、漱石の生家で、「夏目漱石誕生之地」という碑が経っているのみ。
家の前の坂は、現在、「夏目坂」と呼ばれているが、もとは漱石の父直克がその名を与えたらしい。
漱石の父は、そのあたりの名主で、普通の町家には玄関をこしらえる家はなかった。玄関がある家は、当時、その周りにはなかったので、近所では、「げんか」「げんか」と呼ばれていたという。江戸情緒のある、素朴な呼び名である。
5.誓閑寺
漱石の作品に多く登場する、鐘楼の寺。
「ことに霧の多い秋から木枯らしの吹く冬へ掛けて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、何時でも私の心に悲しく冷たい或物を叩き込むやううに、小さい私の気分を寒くした。」(「硝子戸の中」より)
漱石は、俳句にも、よく寺を題材にして詠んでいます。それが、私は好きですね。幼少のころの、この寺の記憶が生涯からだに残っていたのでしょう。
私の好きな、寺にまつわる漱石の句を3句だけ。
釣鐘のうなるばかりに野分かな
杉木立寺を蔵して時雨けり
山門や月に立つたる鹿の角
6.漱石山房跡
漱石は、生涯自分の家を持なかった。終焉の地となった、新宿区早稲田南町の家は、300坪、一角が漱石公園になっている。その中央に、若い頃の、なかなか美男の漱石の胸像がある。ここは小高い丘の上のような、当時なら、まわりを見晴らすことが出来そうだ。
公園の脇に3階建ての集合住宅もある、300坪というのは、なかなか広いものだとひと周りして思う。
漱石山房の見取り図も、秋山氏の用意された資料に入っている。この山房の書斎は、神奈川近代文学館に復元され展示されている、それを私は見たことがある。
ああ、ここに、「漱石山房」が建っていたのである。
漱石山房を後にする。漱石は、葬式には、「禅宗のお経なら聞いても良い」と夫人に言って亡くなる。斯くのごとく禅宗に心を寄せていたようで、若い禅僧との付き合いも生前からあった。その禅宗の済松寺の門は閉ざされており、外からうっそうと茂る木立を見上げながら、通り過ぎる。
漱石の時代からあるという、矢来町の「交番」を抜けて、神楽坂へ向かう。だんだん、まわりは少しずつ暮れてきた。
漱石山房の早稲田南町からだと、買い物は神楽坂であったらしい。漱石は、毎日散歩に出ていたようなので、神楽坂へ、原稿用紙など求めに、この道を通ったに違いない。
漱石は、はじめ建築家になりたかったらしい、散歩しながら、この家は何点だと、点数を付けていたとか。文学者の漱石が、建築家としての目を、隠れた一面として残していたのだろう。
いよいよ「漱石散歩」の終点、神楽坂だ、とうとう着いた。すっかり暮れて、街には灯が点っていた。
さあ、みんなで、打ち上げだ。
良く歩いた。
喉もからからだ。
ステキな春の一日、「漱石散歩」であった。レジメから、漱石の作品の文献、漱石当時の地図まで用意してくださった秋山氏であった、感謝です。
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投稿者: しゅう
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