23日は待ちに待ったナイノア氏来日福岡講演の日だった。すぐにブログでも書いてみたかったのだが考えれば考えるほどホクレア号来日の意義を考え言葉で表現することが難しくなっていった。ホクレア航海はあまりにも壮大で正直海に携わる仕事をしている僕にとってもビジョンとして想像することが難しい。それを僕が語ることはなにかホクレア号を軽くさせてしまうのではないかという怖さもある。ターザン特別編集のホクレア号について語ろうやホクレア号が行くを読めばホクレア号の意義は分かる。ただホクレア号ナビゲーターナイノア・トンプソン氏に直接会うとまたホクレア号来日が今の僕達が失ってしまった、そして取り戻さなければならない重要なものを運んでくる出来事になることだけはよくわかった。
予定時間を越えての熱い講演後、僕達は登壇から降りてきたナイノア氏に駆け寄り手紙や祝島の写真集を手渡した。彼は熱心に本当にまっすぐな目で真摯に話を聞いてくれた。「神舞」に興味を持たれ祝島が航路の途中であることを知るとうれしそうに「是非寄港させてもらうよ」と約束してくれた。それは社交辞令ではなく本当の約束だと僕は確信している。
凄いのはその後だ。ロビーに出られた後、駆け寄る聴衆に一人一人丁寧に対応される。その姿を見て人々はナイノア氏の前に列を作った。各人想いがあるわけでとても話が長い。でもナイノア氏は嫌な顔一つみせずに、というよりも非常に興味を持って会話をされる。時間の観念よりもナイノア氏の目からその人と喋れた喜びが湧き出ている。一時間以上は聴衆に囲まれていただろう。最後の聴衆がロビーから立ち去るまで彼はそこに留まった。それは決して義務的な作業ではなく心からナイノア氏がみんなと話したいからそこにいたように見えた。ナイノア氏は人格者であった。僕は心からホクレア号を迎えようと思った。ナイノア氏とクルーそしてホクレア号は日本人が忘れかけている心も一緒に運んでくる。
余談だがナイノア氏は福岡に来てもなお毎日カヌーで海に出たのだという。
ナイノア氏は海の「気」を忘れない為に毎日海に出ているのだろう。そしてその「気」からまた大きな活力を得ているのだろう。
海の「気」は海に出ないとすぐに忘れてしまう。
そして長く海に出ていないと忘れていることにも気付かなくなる。それは現代社会で失われてしまった日本人の今の姿に似ている。
今回僕はナイノア氏から感じたのはそういうことだ。
ナイノア氏から僕個人に向けても質問を投げかけられた気がした。
「君は海を感じているか」と。
福岡から帰ってきて僕は毎日海に出る。30分でも一時間でもいい。
それは人にとって一番大切な「気」を取り戻す大切な作業だ。


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