西日本を襲った豪雨の被害が日々明らかになっている。ここ山口県でも光市や岩国市を中心に河川氾濫や土砂崩れが各地で起こった。大規模インフラに頼った現代社会生活では、通常に戻るまでの時間はまだまだかかりそうな様子だ。
地震では家屋崩壊や津波、豪雨災害では大水や土砂崩れなど、どこに住んでいようが、いつどこで起こるかわからない自然災害から生き延びるためには日々の備えと、そして逃げることしか命を守る手段はないと思う。命あれば生きているだけで再起のチャンスはいくらでもある。そうやって僕たちの祖先も生きてきたはずだ。自然は制御できない。制御しようとした結果が今回の災害にも繋がっていると思う。そして今回の被害の半分以上は人災であったのではないか。
SNSでかつて僕が暮らした宇和島の吉田町の衝撃的な空撮写真がシェアされていた。20数年前にお世話になった人の顔が浮かび、ジムニーに食料と大量の水、野営道具とスコップや一輪車、その他もろもろを積み込んで吉田町に向かった。宇和島の海岸部は複雑に入り組んだ入江で海からは急峻な山々が立ち上る。主要道路に出るための細い道のあちこちが土砂崩れで封鎖されていた。自衛隊が一早く入り、道の土砂を撤去し、生きるために必要な最低限の水と食料を供給していた。そして孤立する浦々では、一番の被害のあったところからの復旧作業が、地元住民自らの手で粛々と行われていた。以前と同じ相互扶助の共同体の姿が変わらずあった。絶望的な現場ではあったが、被災した人達にそれほどの落胆の姿はない。一次産業に従事する人たちは強い。ユンボ、軽トラ、ダンプ、身の回りにあるもの全てを惜しみなく提供し無駄なく動く。指図されることなく、自らも被災者でありながら、惜しみない労働をかってでる人達は美しく、そしてある意味羨ましいとさえ思えた。
「生き続けることのできる安心感」
井戸や自家発電などの身近なライフラインの整備はもちろんだが、地域ごとに長年培われた小さな共同体の姿が、災害時には一番の安全保障になることが良く分かった。
各地で被災されたみなさまの一刻も早い復興を願うばかりです。またできることはまた自ら動いていきたい。
山口の帰路、フェリーまでの時間があったので八幡浜に向かった。ここは明治から大正の初めにかけて6隻もの打瀬船がアメリカの出航した土地だ。
日本人として最初の自主的な帆走航海での太平洋横断を成し遂げた保内の漁師吉田亀三郎の顕彰碑、そして詳細な多くの記録が残っている天神丸が出航した真網代の顕彰碑を訪ねた。
そして真穴の公民館の館長で「北針」の会代表の松浦氏にも偶然にもお会いすることができた。ふるさとの先人の不屈の精神を後世に伝えていくために結成された「北針」の会では以前2分の1スケールの打瀬船を自らの手で建造したのはおろか、当時の天神丸を復活させて、サンフランシスコのポイント・アレナまでの航海も行おうとしていたとのことだった。
打瀬船プロジェクトの趣旨を伝えると大変共感していただき、ぜひ協力して進めていこうと意気投合。やはり偉大な太平洋の先達を輩出した八幡浜の気概はすごいものである。
今後も連絡を取り続けて松浦さんのお元気なうちに、ぜひとも実現させてたいと改めて決意する今回の四国行きであった。


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