昨日のブログで私は死の恐怖を克服して悟りを開いたと大言壮語したがどうも嘘っぽいと思われるのは致し方ない。死ぬのが怖くない人など居る訳が無いと思うのが一般常識であるが、現実に毎年3万人以上の日本人が自殺している。自殺するのは死の恐怖を克服した証であり、逆に生きる事が厭になり怖くなったと言う事である。私は生きる事に最大の喜びを感じているので、それが終わるは怖いと言う事は死が怖いと言う事になる。どうも矛盾している様だが本音は死が怖くないと自己暗示に掛けるのに成功したと言う事である。此処にいたるまでには数十年の思索と紆余曲折があった。
私は50歳を契機に孔子の「我50にして天命を知る」と言う教えについて考え、死生観を確立したいと思った。孔子は死を問われて「我未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」と逃げた。パスカルは「死とは最後に少しばかりの土くれが頭上に被せられ、而して時は未来永劫に過ぎ行く」と惚けた。ケルケゴールは「生とは死に至る病である」と喝破した。ヴァレリーは[死とは100年足らずの一瞬の生を除く永遠の時間である」と定義したが何を言っているのか良くわからない。一番感銘を受けたのはバッハの第二夫人が書いた「バッハ伝」の中にバッハは[死こそ人生の完成であり、天国への入り口であると確信し、何時も死に憧れていた」と書いてあった事である。なるほどあの天国へ誘う様なバッハのフーガを聴くと、透徹した死生観と深い信仰に裏打ちされて大悟し、死に憧憬した人でなければ絶対に造れない音楽だと納得出来た。
定年後暇になったので私は自然科学の勉強に没頭した。元々文科系の頭だったから私は物理学も選択しなかった。一般常識のニュートン力学の域を出られず、神の存在も否定し、魂の存在にも確信が持てず形而上学は迷信だと馬鹿にしていた。物理、化学、生物、地学などが長足の進歩を遂げており、自分が習った学問は全く通用しない事が判って眼から鱗が落ちた。特に相対論、量子論、素粒子論、波動論、宇宙論などの現在物理学と生命科学、脳科学、遺伝子学などの新生物学を齧ったお陰で人生観が大きく変わった。科学を勉強すればするほど、科学で判っている事はまだまだ大海の一滴で、大宇宙には科学の及ばない未知の謎が無限にあることも併せ知り、大自然の前で謙虚になれた。そこで馬鹿にしていた形而上学をもう一度勉強しなおす事にした。
私は現代の堕落した宗教は一切信じないが宗教心は持っているので、宗教の原点であるギリシャ哲学、インド哲学やアーユルベーダ、ヒンズー教やチベット仏教を勉強した。
そこで辿り着いたのが霊魂不滅と輪廻転生の思想である。概念は前から知っていたが非科学的だから迷信だと思い込んでいた。現代物理学のお陰で、万物は全て同じ素粒子から成り、素粒子同士がくっついて物質化するから眼に見えるが、物質化しないものもあり、それが物質世界と精神世界の違いに過ぎない。エネルギーは全て素粒子の波動であって、神の意思も、人の想念も、霊の動きも、虫の知らせも、テレパシーや気も物理的には何も矛盾しないことが解ったお陰で信じられるようになった。物質化した肉体は必ず滅びて又素粒子に戻るが、物質化していない霊魂は永遠に生き続けて又新しい肉体に宿ると言う輪廻転生を信じるにいたった。死が怖くなくなったのもこのお陰である。勿論確信があるわけではないし、結局のところ死んでみなければ判らない。然しどうせ判らないのなら騙されたと思って信じた方が安心立命が得られて得である。自己暗示にかけたと言うのはこの事である。死後の世界とか霊魂の存在だとかは余り深く追求しないほうが良い。元々不可知論だから信じるか信じないかだけである。信じる者は幸いなりとキリストが言うとおりである。
私が死の恐怖を克服したと断言するにはそれなりの根拠が要る。先ず私は65歳を契機に一切の成人病検査を拒否している。病気は手遅れで発見された方が潔く死ねて周囲に迷惑が及ばないと信じるからである。早期発見で助かっても麻痺や寝たきりになって家族に大変な迷惑をかける場合が多い。寝たきりになると認知症になって尊厳死も選べなくなる。自分の意思が確かで、下の世話にならない内に死にたいと言う願望は強い。
人間の死に様は思うに任せない。いつ何時倒れて他人に迷惑をかけ、意思に反して惨めな死に様を晒すかもしれない。だからこそ早目に死にたいだけであって、何も生を軽んじたり、家族の感情を無視しているわけではない。寧ろ生を重んじ、家族を愛するからこそ早死にを願うのである。屈辱のうちに生きる方が生を軽んじていると思う。
私はずっと男の美学に拘って生きてきた。死に際も美学を貫きたいと思う。救急車で担ぎこまれた翌日にゴルフをするのも、糖尿病の合併症が出て厳しい食事制限を命じられながら、タバコは吸うわ、酒は飲むわ、塩分はたっぷり取るわ、大福もちは食うわでどうしようもない。娘が訪ねてきて私のマンションに甘い菓子が一杯あるのを見て、母親にパパは死に急いでいると心配していたと聞いたが事実だから仕方が無い。70歳まで生きれば後は余生であり、養生しようがしまいが寿命は10年も違わないだろう。但し
子犬たちが可哀相なので少しは長生きしようと思うようになった。
今日のブログの内容は深刻ではあるが我ながら奥が深いと思う。下らぬ時事ネタなどは足元にも及ばない。偶にはこの程度のレベルにしないと、愛読者に申し訳ないと思うが、深刻なテーマは頭も心も消耗するからがっくり疲れた。暫く休ませて貰うかもしれない。

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