学生時代は碌々学校にも行かず人生の抽象的煩悶に悩んで哲学書を読み漁った。カント、デカルト、ヘーゲル、ショーペンハウエル、エンゲルスのどれを齧っても解った験しがなかった。旧制高校生の流行り歌にデカンショ節と言うのが有ったが、これはデカルト、カント、ショウペンハウエルの略である。詰まり昔の高校生は皆哲学を勉強していたと言う事である。今の大学生が漫画しか読まないのと雲泥の差である。私も古希を過ぎれば少しは解るかもしれないと思って読み返しているがやはり良く解らない。30分も読むと忽ち眠くなる。但し年の功で漠然とではあるが哲学のイロハは理解出来るようになった。哲学と言えば難しいが要するに人生如何に生きるべきかを考える事であり、誰でもやっている事である。哲学者は矢鱈難しく考えて難しく表現するから凡人には解り難い。何故もっと普通の言葉でシンプルに表現しないのかと苛々する。
カントは「純粋理性批判」が主たる著書であり、彼は絶対神を信じていたから形而上学を始めた精神一元論者である。デカルトは元々数学者だから自然現象、人間の思惟を徹底的に追求して数学で解こうと試みた。我思う故に我ありという至言は誰でも知っている。デカルトの場合は精神物質二元論者である。ヘーゲルは弁証法の創始者として知られる。弁証法とは対立する矛盾を解き明かす論法であるがヘーゲルのは唯心的弁証法であった。この論法を活用して唯物的弁証法を打ちたて、物質一元論で共産主義の思想的背骨となったのがマルクスとエンゲルスであった。唯物論だから宗教は人間のアヘンであるとして排斥した、人間の精神活動や理性も単なる脳の産物だから人間は肉体と言う物質だけの存在であるとした事が共産主義の没落に繋がったのだと思う。
東洋の哲学は全て精神一元論だと言える。インドで生まれた仏教が東洋最古の哲学であるが空や無という観念は素晴らしい。古代中国にも易経と言う哲学があった。道教や儒教の礎となったものである。易者は現代も流行っているが彼等は別名陰陽師と言う。陰陽とはプラスとマイナス或は光と陰の事である。易経の三大定理は全ての事象は陰と陽から成る。全ては相対的である。、全ては変化するというものであるが、これは西洋哲学にも通じるものである。陰陽を有無、善悪、真偽、美醜、光陰、生死、男女、老若、愛憎、などの対立概念に当て嵌めれば良く解る。全てが相対的だというのは当にアインシュタインの相対論の元祖である。全ては変化すると言うのもギリシャの哲人ヘラクレイトスが万物は流転すると言ったのと同じである。
従来宗教は科学と対立していたが現代では科学が哲学に仲介されて宗教に歩み寄っている。ニュートン力学では時間は永遠の過去から永遠の未来に一定速度で流れる絶対的なものだったし空間も一定の大きさで果てがあるものとされていた。それがアインシュタインによって時間も空間も相対的であることが判り、ハッブルによって宇宙は今猶膨張している事が判った。そのアインシュタインも「神はサイコロを振らない」と言ってハイゼンベルグの不確定性原理やボーアの量子力学を否定した。相対論と量子論なくして現代物理学は成り立たない。詰まりアインシュタインでさえ正しいとは限らないのである。今の宇宙物理学の第一人者ホーキングは全てを吸い込んで閉じ込めるブラックホールの存在を予言したが、更に全てを放出するホワイトホールの存在をも予言し、両者はワームホールで繋がっていると新説を出した。時間には実時間の他に虚時間があるとも言った。虚時間とは虚数で表現される時間である。虚数は二乗してマイナスになる数であり常識上は有り得ない。宇宙には我々の知る宇宙の他にも平行宇宙があるという。詰まりあの世の事である。人間原理主義を唱える学者は現在の宇宙は人間の意志が作り出したものだと言う。こうなると最早科学ではなく宗教である。科学も陰陽や有無の二元論から逃れられなくなったと言う事である。量子力学と老荘思想には共通点が多いと言う物理学者も居る。最早自然科学と人文科学の境目が無くなった。
私のブログは時々脱線する。政治や経済、社会の下らないニュースに対して書くに及ばずと思うことがある。もう直ぐ72歳で老い先短いから常に死ぬ為の準備を怠らないと心に決めている。今日のような難解なテーマに取り組むのは自分に言い聞かせる為である。読者にはご迷惑だと思うが老人に免じてお許し頂きたい。

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