民主党の前原氏は小沢一郎氏と会談して挙党体制への支援を要請した。その前に仙谷氏が小沢氏に挙党体制の協力を要請したがこれは逆効果だった。菅首相を焚き付けて反小沢人事を徹底させたのが仙谷氏だから今更小沢氏に擦り寄っても遅い。前原氏は小沢氏とはそれほど考え方に差は無いと言っているが、小沢史観から脱却しなければならないと余分な事を言った。
小沢史観が何を意味するのか曖昧である。史観とは歴史観とか国家観とか人生観とかもっと大きな概念である。小沢史観を政治史観に限定するならなるほど金権主義の田中角栄政治を継承して日本の政治を動かしてきた小沢氏の手法からはそろそろ脱却するべきである。然し小沢氏ほどの人物ならば確固たる歴史観も国家観も人生観も持っているに違いない。それも知らずに余計な事を言うから前原氏は若輩だと批判されるのである。
そもそも観という言葉は大変難しい。適当な英語訳が見つからない。見る事には違いないが単にSEEでもLOOKでもない。OBSERVEやVIEWに近いがそれもぴったり来ない。一番近いのがVISIONだろう。VISIONはVISUALIZEが語幹だから思い描く事である。国家の将来ビジョンが無いとか震災復興のビジョンが無いとか国民は直ぐ政府を批判するが本当にビジョンの意味が分かっているのか疑問である。ビジョンを持つ事は簡単ではない。余程の知識、教養を積んで修行しなければ身につかない。そもそも観とは仏教用語から来た。釈迦が厳しい修行を積んで漸く悟ったのが無常観であり空観である。色即是空や諸行無常を悟るのは観の目である。
宮本武蔵が居候した細川藩主に頼まれて兵法の極意を書き残した「目付けの事」と言う文書が残されている。武蔵は真剣勝負で生涯に一度も負けたことが無い。何度も数人、数十人を相手に戦って負けなかった秘訣は相手に対する目付けだと言う。目付けには見と観があると書いてある。勝負する時は見の目弱く、観の目強くすることだという。観の目は敵が如何様に遠去かろうとも近くに見る目であり。如何様に近づこうとも遠くに見る目だと言う。いわば心眼であり千里眼である。心眼と千里眼を働かせるからこそ後ろから敵が切りつけても見えるのである。
目付けの事は武道のみならず芸術にも当てはまる。昔の絵画は写実主義で自然の通り描くのが上手い画家だった。見の目だけ働かせていた。これではカメラの写真に勝てない。印象派以降は観の目が主流になった。眼に見たまま描くのではなく心に映じる光景を描いた。野獣派や立体派を経てアブラクトやシュールレアリスムが主流になった。ピカソやマチスのデフォルメは彼等の観の目で見た心象風景だから出鱈目ではない。私もシュールには最初抵抗があったが、キリコ、ダリ、シャガール等は段々好きになった。然し自称現代絵画家のアブストラクトやシュールレアリスムは見の目で見ながら勝手にデフォルメして書き殴っているから何の美も感じられない。そんな絵画なら猿でも象でも描ける。先ず観の目を鍛えてからにして貰いたい。
史観とは本来が歴史観の事である。人間の文化、文明を学ぶには歴史に学ぶに尽きる。確固たる歴史観も無く国家のリーダーになるのはお断りである。

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