気になっていることがある。
●先ずは、たくらだ堂の180に書いた、『福島原発暴発阻止行動プロジェクト』。主導者の山田恭暉さんらのその後のニュースが入ってこない。果たして、彼らは現場に迎え入れられたのだろうか?そして、思った通りの働きが出来ているのだろうか?
先月の初旬、細野内閣特命大臣が山田さん達の受け入れを表明したのだが、その後、順調に行っているのだろうか?
『良い国のニュース』はあれ以来見ていないが、後追い取材とかやったのだろうか。
●そして、保証期間もまだまだな内に壊れたシャープのブルーレイデッキ。
それを直しに来てくれたシャープエンジニアリング(株)の田中基幹氏。質問状はどうなったのか?あれ以来、彼らからは全く連絡がない。僕からは一度電話をしたが、彼は出なかった。これはどうも、逃げたな。シャープ、アウトォ。
●そして、イチロー。今年はどうも200本安打は無理なような・・・・・・今日8月11日現在、115試合で129安打。後50試合ほどで71本打たなければならない!だが、この嬉しくない予測をイチローなら覆してくれると、心の隅では思っているのだが!
――閑話休題――
ところで、石井光太という作家がいる。僕より年下ではあるが、僕なんぞよりはよっぽど骨のある仕事をしておられるので、「おられる」。
タイトルに惹かれて、彼の本を読んだ。
『飢餓浄土』 (河出書房新社)
その本の奥付にはこうある。
石井光太(いしい・こうた)
ノンフィクション作家。
1977年、東京都生まれ。日本大学芸術学部卒業。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに執筆。そのほか、TVドキュメンタリー、絵本や漫画の原作、写真発表なども手がけている。著書に、『物乞う仏陀』(文春文庫)、『神の捨てた裸体』(新潮文庫)、『絶対貧困』(光文社)、『日本人だけが知らない、日本人のうわさ』(光文社新書)、『レンタルチャイルド』(新潮社)、『地を這う祈り』(徳間書店)、『感染宣告』(講談社)などがある。
尚、『飢餓浄土』は2011年3月20日、初版印刷、発行である。
タイトルに惹かれてというのは、あの石牟礼道子『苦海浄土』を連想したからだ。だが、苦しむ者への目線ということからすれば、僕の連想は病むない必然で、彼自身も石牟礼のその本を、またそのタイトルを意識していたかもしれない。
にしてもだ、『飢餓浄土』は「浄土」が付くからではなく、僕には遠く、尊い本だ。
その中身。
作者は若いころより地球を巡っている。『飢餓浄土』では、
○フィリピン(ミンダナオ島)
○インドネシア
○ミャンマー連邦
○ケニア(ナイロビ)
○アフガニスタン
○ネパール
○タイ
○インド
○ベトナム(ホーチミン市)
○ラオス人民民主共和国
○タンザニア連合共和国
○ヨルダン
○コンゴ民主共和国
○ルワンダ共和国
○スリランカ
といった具合だ。
そして、彼の視線は飢餓という穢土浄土に向けられる。
では、その目次だ。
■第一章■残留日本兵の亡霊
・敗残兵の森
・幽霊船
・死ぬことのない兵士たち
・神隠し
■第二章■性臭が放つ幻
・せんずり幻想
・ボルネオ島の嬰児
・あさき夢みし
・胎児の寺
■第三章■棄てられし者の嘆き
・奇形児の谷
・横恋慕
・魔女の里
・けがれ
・物乞い万華鏡
■第四章■戦地にたちこめる空言
・戦場のお守り
・餌
・歌う魚
(あとがき)
では、この中から一話だけ紹介することにしよう。あまり多くを紹介して、例え1冊でも、売れるはずの本が売れなくなっては申し訳ない。折角の本だ、是非売れて欲しい。
ということで、選んだのは『ボルネオ島の嬰児』
※嬰児とは、生まれたばかりの乳飲み子のこと。
ボルネオ島のコタキナバルという町に十日ほど滞在していた時のこと。
その島の売春婦には人種別の格付けがあって、最も格が上なのが中国人売春婦で、彼女たちは高級クラブで働き、地元の豊かな華僑などの相手をする。その次が、地元のマレー人や若いフィリッピン人で、マッサージ店やカラオケ店で働いている。最下層は路上で立ちんぼをしている女性で、年を取って店で働けなくなった女性か、オカマが主だという。
ある晩、私が常宿にしているホテルの正面の路上に、二人の中国系売春婦が立っていた。ひとりが五十歳ぐらい、もうひとりが二十歳ぐらい。その取り合わせも不可解だったが、若い方のお腹が膨らんでいることも気になった。私は知り合いのインドネシア人売春婦に聞いた。
「彼女たちは何処のグループにも属してない。いつも二人で街角に立っている。二人は親子って噂よ。ホテルでは母と娘が一緒に相手をするんだって。あの二人は頭のネジが吹っ飛んでいるだけよ。親子で売春だなんてまともじゃないわ」
私は二人の様子を見ていた。娘のお腹はやはり突き出ていた。妊娠五、六ヶ月だろうか。娘はたまにおかしな挙動をする。食べている麺を握りつぶしたり、夜空を見上げてニタニタしたり。知的障害があるのかも。だが、母親はそんな娘を無視して食事をしている。
私は二人に声をかけた。名前を尋ねると、二度目に、
「私は荏莉(ネンリ)、この子は詩詩(スス)」
更に、
「お金を払うので話を聞かせてくれないか」
というと、二人が泊まっている宿に連れて行かれた。
部屋はコンクリートの床にセミダブルのベッドが置いてあるだけだ。一泊三百円。シーツや枕カバーはしみだらけで茶色く変色し、食べかけのカップ麺や変色したパパイヤが腐ったような臭いを発している。
母親が結わえていた髪をほどいた。豆電球の下、白髪が反射し、目もとには無数の皺があった。
「一回につき二十リンギ(約五百三十円)を貰ってるわ。外の宿だと客はさらにお金を払わなければならない。この部屋なら宿代も含めて二十リンギで収まる。インドネシアの小娘を買うより絶対に得よ」
五十代の女性と妊娠した女性が客を取るには、価格で勝負をするしかないのだろう。だが、生活していくには、最低でも一日に二人の客を相手にしなければならない。
「ところで、あんた、うちの娘はどう?」
母親が突然提案してきた。
「詩詩ちゃんは、妊娠しているんですよね」
私が聞くと、
「誰の子かは知らないわ。生まれたら施設に預ければいいのよ。そんなことより娘を抱くの抱かないの?一度してみて気に入ったら、結婚してくれてもいいわ」
私は溜息をついた。詩詩の口からは食べたはずの麺が出ていた。
翌日から、私は二人が暮らす安宿へ話をしに行くようになった。そんなある日、その宿の主人が話しかけて来た。
「随分、あの女たちがお気に入りのようだな」
私は苦笑し、話を聞きに来ているだけだと答えた。
「なんだ、俺はてっきりオカマ好きの日本人だと思っていたよ」
「オカマ?」
「おまえまだあのふたりを抱いていないみたいだな。あの詩詩ってこ子はオカマだよ。脱がしてみろよ、チンポがあるから」。
ふたりは六、七年前からこの町にいるそうだ。最初の頃、詩詩はもっと男の子らしい格好をしていたが、次第に女装するようになり、今は完全に女になりきっているという。
「詩詩は生まれつき頭が悪い。今じゃ、奴らとやりに来る客は変態野郎ばかりだ。頭のおかしな男には中年女性とオカマのコンビがたまらないんだろう。あれは病気だよ。妊娠なんてデタラメだよ。詩詩がオカマだって知らない奴はいない」
一ヵ月半後、フィリピンの取材を終えて再びコキナバルに戻った。母娘の宿に行くと、
「お客さんが来ている最中なの。終わるまで外で待ってて」
一時間後、私は久々にあの部屋に入った。
ベッドの上に、詩詩が真っ赤なブラウスを着て座っていた。驚いたことに、その腕には幼い子供が抱かれていた。一歳になるかどうかといった大きさだった。
詩詩の子供だとしたら、前にあった時、詩詩はせいぜい妊娠五、六ヶ月だった。わずか一ヶ月半の間に子供が生まれるはずがない。そして赤子の年齢。仮に詩詩が産んだとしても、たった一ヶ月半でこんなに大きくなるわけがない。
「日本とマレーシアとでは育ち方が違うわ。この赤ちゃんは生まれ立てよ」
母親は顔を真っ赤にして怒った。私はどうしても納得がいかなかった。
「すみません、詩詩さんの体を見せて貰ってもいいですか。本当に産んだのか知りたいのです」
「ふざけないで!あんた、そんなことをするなら、ちゃんと責任を取ってくれるの?詩詩と結婚して、孫を育ててくれるの?からかっているなら出て行ってよ。あんたみたいな奴に馬鹿にされたくない!」
声に驚いたのか、赤子が大声で泣きはじめた。詩詩はなだめようとするが、赤子の声はますます大きくなっていく。詩詩は突然赤子をベッドの上におろして、耳を塞ぎ、奇声を上げた。鼓膜が破れるような悲鳴だった。他の客が物音を聞き付けてやって来た。
「もう帰って。あなたが来ると、むちゃくちゃになるわ。さっさと帰って」
私は強引に部屋から押し出された。
宿を出て、夜道を歩いていると、宿の主人が話しかけて来た。私は詩詩の事を尋ねた。
「母親は詩詩が産んだ赤ちゃんだと言ってました。あの子は何者なんでしょうか?」
「まさか、あいつは男だぜ。どうせ誰かから赤ん坊を預かっているんだろう。そうでなきゃ、乞食の子を拾って来たかだ。お腹がぺしゃんこにになったのは、病気が治ったからに違いない」
「いいか、ああいう連中にはかかわっちゃいけねえんだよ。何か変なことがあっても放っておけ。町の人はみんなそうしているし、俺だってそうしなきゃならない。首をつ込んでもろくなことはない」
主人は立ち去った。私の頭は混乱したままだった。詩詩は本当に男性なのだろうか。
もし詩詩の膨らんだお腹が病気だったとしたら、誰が病院へ連れて行き、誰が治療代を支払ったのだろう。もし赤ん坊が捨て子だとしたら、誰が引き取って育てるべきなのだろうか。
町の人々は自分がそれをできないことを知っている。だからこそ、放っておいて考えるのをやめているのではないだろうか。
ふりかえると、月が明るく安宿を照らしていた。私は戻るべきか否か悩んだ。だが、私は明後日の朝にはこの町を去ってクアラルンプールに向かう人間である。詩詩のもとに帰り、すべてを明らかにしてどうなるというのか。アスファルトの上に立ったまま考えたが、結局私は安宿に引き返す勇気がわかぬまま、その場を後にした。
−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−
――「遠い」「尊い」と書いたのは、現実の何を身をもって確かめることもなく、頭に浮かんだよしなし事や、本でかじった一端から、何の遠慮や恥じらいも無く、頭の中だけで机上の「笑い」を作っている僕にとって、正に事実は小説より奇なりの現場、現地、実際地へ入り込み、必死の収穫を貪る男は異質で異業の人だからだ――
さて、乱暴に言ってしまえば、彼が訪れたその国の、特に彼が好んで行くような場所、この言い方が悪ければ、彼が何かを求めて行く場所は――『飢餓浄土』を読む範囲でも――殆どが衛生状態が悪く、生活レベルは低く、教育は行き届いておらず、食べ物は十分でなく、住んでいるところも劣悪で貧弱である。
だが、そこにも家族の愛情があり、男女の情愛があり、人間の性欲がある。
そして、それら全てを絡め取るように、土地毎の習慣、習俗、掟があり、その中で、人々は身分を弁え、内に沸き起こる望みや怒りを抑えながら生きている。
失踪も、不倫も、仲違いも、泥棒も、もっと、遅刻や忘れ物さえ、人間以外の何かに操られてそうなった、だから、それは人間のせいではないのだと了解して、自分の気持ちも、他人との関係も上手くやっている。問い詰めて、死んだ子が生きかえるでなし、逃げた恋人が戻って来るでなし、失くした金が出て来るでなし、そのことの理由が判るでなし。そうやって責めないで、攻めないで生きる。誰が悪くて、誰がいいのか。誰が得をして、誰が損をしたのか。原因も結果も確かめはしない。そうやって生きて行く。生きて行くしかない。
家の一歩外は、村の少し先は、幻想の闇の中だ。どんなモノが棲んでいるかわからにないが、何が棲んでいてもおかしくない。猟奇と言えば言い過ぎだろうか。だが、あるがままは流石につらい。だから都合のいいものを生み出して、それに罪をなすりつけ、変わるはずのない明日ではあるが、せめて今夜の安眠に入る。
そんな暮らしがある事を知った時、今の日本人なら、必然的に東日本大震災の被災者の現状と比較することになる。
しかし、どちらが悲惨?不幸か?不便か?より人災か?希望があるか?笑えるか?泣けるか?アホか?
試しに、一方の言い方で、もう一方に言ってやる。
「石井光太が訪れた土地へ行って、科学を駆使して全部を解き明かして、その因果関係を白日のもとに晒し、説明してやる。彼らの反応は予測できるか」
「東北の彼の地へ行って、あんな、元々手に負えない原子力発電所とかいうものを作って良いと言ったんだろう。だったら、仕方ないんじゃない?と言ってやる。人々はどんな顔をするのか。東京電力は?」
この本の面白さは、大いに石井光太にある。
石井光太の優しさや素直さ、それは僕にはともすると彼の神経の脆弱さを伺わせる。彼は、通訳やコーディネーターがいる場合もあるが、全く知らぬ土地で、ドンドンと知らぬ人に話しかける。大胆に見えるその裏に、僕はまるでアスペルガーのような距離感の下手さを感じる。時には、相手が傷つくことを予測しないで、自分の欲望に任せて動く。その危うさを、いや、僕などは苛立たしささえ感じながら読むのである。
その行動力も、興味の的も、神経の細さも全く違う彼に、僕は知らぬ間に何かを委託して、そして、彼の欲望の中に取り込まれていく。
実は、彼の著作を買ったのはこれが二冊目。一冊目は二年前の『物乞う仏陀』。だが、これは全く読んでない。今、是非これを読もうと思っている。
そして、もう一冊。『苦海浄土〜わが水俣病〜』。昭和44年1月初版発行で、僕はその第15版(昭和52年8月)を買っている。これは買って直ぐに読んだ記憶があるのだが、これを今、もう一回読もうと思っている。そして、34年ぶりに石牟礼道子の「浄土」を確かめたい。
余命なし つわものどもが 慰霊祭
吐牛

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