ある人(=女性、アナキスト)との話の中で出てきた‘辺見庸’を、今読んでいる。僕より5つ上、91年に『自動起床装置』で芥川賞を取っている人だ。但し、僕が読んでいるのは小説ではない、『いまここに在ることの恥』という、病から辛うじて立ち上がった辺見がこの1年、色んな形で発表してきた‘思い(この言い方をご本人は容認しないかも)を集めた本だ。
その女性との話の数日後、東京の書店で目の前に現われたその本を縁かななどと思って購入した。因みに、これまで、彼の作品は一切読んだことが無い。
『いまここに在ること・・・』は、この地球、世界、アジア、日本に、過去から未来に渉って、在ると見える恥、感じる恥、演じられる恥、その全てに目を見張れと言っている・・・と思う。ま、僕の読解力の吟味はさておき、僕が瞠目した言葉がある。
「診る先生」・・・・?
これではない。「みるせんせい」と打って変換したらこう出た。ま、より頻度の高い、それでいて成句となると、2進法のパソコンはアホやから、「はい出ました」とこんなん出しよる。そうではない、正しくは、「見る専制」だ。
辺見は書く『病院で私は、世のなかから「形骸」と見なされてしまう人びとをたくさん見ました。〜非常に深い眼の色をしています。微妙な表情をします。形骸に見えて、形骸では断じてありえないわけです。私たちは彼らを見る。ときに、盗み見る。見るという専制を行使する。〈見る専制者〉は、彼らをもっぱら〈見られる被専制者〉であると錯覚する。しかし、かれらは、ただ押し黙って〈見る専制者〉の餌食になっているわけではない。彼らもまた、内側からじっと視ている。〜その「形骸」といわれる者の実存こそが、いま表現されなければならないなにかではないか。〜』
「見る専制」は衝撃的な言葉だった。「見る」の後に「専制」を付ける感性。「専制」を限定するに「見る」をもってする視線。先ずはその新鮮さと、柔らかさに驚いた。お笑い作家の資質さえ僕より在ると見た。そして、何より、世界中に「見る専制」が在り、僕自身が「見る専制」をしていることを気付かされた。
僕たちはモノを見る。コトを見る。観る、診る、看る、視る、相る、省る、督る、監る、閲る、瞰る、題る・・・。そして、見たと思い、それらを全部信じる。在るがままだと思ってしまう。自分の目を疑わない・・・専制を行う。
そうであってはいけないと辺見は言う。見えているものを疑う。見えているものに納得しない。見えていることが全てではない。全部見た、ちゃんと見た、よく見たと言うな。更に、向こうもこっちを見てるのだ、と辺見は言う。
そして彼の「見る専制」を我が職業のテレビ(マスメディア)に敷衍、もしくは引き込むと、テレビは、まさに「見る専制」を行使していることを知る。ニュースも、ドキュメントも、ドラマも、お笑いさえも、それが全てのわけが無い。容疑者の事情、被害者の事実、司会者の日常、役者の夕べ、芸人のセックス・・・見えていないものがワンサカとある。その視点無くしてテレビ(情報)作りは在り得ないとうことだ。
ただし、これが辺見の言っていることと合致するかは、再び僕の読解力の問題としていただこう。
ところで、「見る専制」は即お笑いだ。だって、モノが見えてない話なんだから。主人公が、恋人が、消えた父が、屈強な武士が、実は全く違ったと言う話は何処にでも転がっている。これを最大活用した芸人(役者)は僕は藤山寛美ではないかと、今思ったが、これは余談。
そして、お笑い作家の僕は更に発想を逞しくする。「見る専制」があるなら、「言う専制」「聞く専制」はどうだろうと?不遜なお笑い考察を試みる。
「言う専制」=これはさらに専制だ。伝えるのみだからだ。決定や、意思や事実、そうした強意な確定ばかりではないが、「言う」はこちら側からの働き掛けだけで、相手を受け容れようとするところがない。極めて専制的だ。しかも「言う」は「見る」に較べると冷静さを欠く場合がある。思慮の足りない言葉が馬脚を表す。更なる専制だ。かくして、物言えば唇寒し・・・先人はそのことに気付いていたようである。
次に「聞く専制」=「言う」がそうであるなら、「聞く」ばかりのこちらはその対辺にあるというべきだ。専制度は低い。‘言うことを聞く奴’は既に被専制者だ。
こうしておいて、僕のお笑い探知機は更にこうした専制を行えない人びとに向かう。つまり「見えない者」「言えない者」「聞けない者」だ。眼が、口が、耳が不自由な人びとである。そうであるから、彼らははなっから「専制者」からは遠いところにいるはずだ。だが、僕のお笑いは彼らを少しでも「専制者」にしようとする。3人の中で一番の専制者は誰なのか?だが、この問題の答えはた易い。答えは「聞けない者」だ。何故なら彼は見るだけ見て、後は言い放つのみだからだ。その上、聞く耳を持たない。「見えない者」は言い放てるが、適確さを欠く。「言えない者」は見ることは出来て、言い分は判っても、伝えることができないままだ。
よって、専制の強さは6者をこう並べる。
聞けない者>見えない者>言えない者>言う者>見る者>聞く者
無論、現実には機能的に純粋な6者が存在するわけではないので、この不等式は錯綜し、面白くなる。
我がコントはここから始まる。先ずはコントに相応しい資質の3人を選ぶ。「聞けない者」「見えない者」「言えない者」が登場。だがこの3人だけでは、物語が展開しそうにない。起承転結を作り出すことが困難だ。何故かと言えば3人ともボケだからだ。3人に働きかけて物語を動かす、何か他の誘因がいる。もうひとり登場させればいいのだ。さあ、それだ・・・誰だ?
神か、愚にもつかない健常者か、それともヘレンケラーの如きか・・・違う。僕は、更なるボケとしてマスメディアを登場させる。
2006・11・17(金)57歳と4日

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