3月25日、いよいよ最終回だ。今回は些細な理由で最終の一稿前を載せる。
朝日新聞(4)コントよ!
全ての番組はいつか終る。僕には忘れられない終わり方をした番組がふたつある。
ひとつは朝日放送の「夜のAタイム」。番組内の1コーナーで生前葬をやり、それを本当かと思って激怒し抗議してきた視聴者の電話に勝てず、コーナー終了、番組改編。
もうひとつはフジテレビ「ダウンタウンのごっつええ感じ」。メインの松本人志と局側の判断に齟齬を生じ、あっという間の消滅。あの日、いつものように会議だと思って集っていた若い作家達の終了を告げられて呆然としていた表情が忘れられない。僕も大阪から出席。返す言葉も、やけ酒を飲む気力も無く引き返した夜だった。
そして、僕の中ではそれ以来テレビからコントが無くなったと思っている。無論、それ以降も健闘し続ける番組を知っている。が、アレを凌駕できないでいる。テレビからコントを無くしてはいけない。何故なら、
面白い漫才は⇒漫才師を目指す人を生む。
面白いコントは⇒お笑い作家を目指す人を生む。
からだ。実際僕のお笑い作家塾の生徒は全員が「ごっつ」の信奉者だと言って良い。斯く言う僕もクレイジーキャッツのコントで育った。そんな中ただひとり御大志村けんが孤高の戦いを演じている。誰か彼の爪の垢を煎じて飲もうという芸人は現われないのか。因みに僕は日本一コントを書きたい作家だ。
最終回も一切と言っていいぐらい書き直しは無かった。それどころか、最後にHPのことをもう一回載せて欲しいと、現金な要求を聞き入れて頂いた。お陰で、最後の部分は上記の文章のほうが歯切れが良く、絞めが利いている。それに較べ新聞に掲載された文章は平衡を失っている。欲なるは恥。以上が些細な理由だ。
それは受け流して頂いて、先ずは「番組の終り」について。
勿論、僕が経験した「番組の終り」は朝日新聞に書いたふたつだけではない。ただ、放送作家は「終了の判断」には殆ど関れない。その多くはスポンサーと局の編成部局が決める。稀に、番組メインのタレントやプロデューサー(以下P)判断もあるし、更に稀に、突然の不祥事によることもある。前記のふたつはこれだ。
そして、終了が決まると作家にはその事実だけが伝えられる。視聴率が伸び悩んでいる時などは、4月や10月の改編に向けて、番組の会議の時などに、Pが「このままでは終るぞ!」と発破を掛けることがあるが、それ以外は終了の判断者や原因に付いて直接に、ましてや詳細に聞かされる事はない。スタッフの雰囲気や自分の実感で推量するしかない。
その象徴とも言うべきは、「番組の終り」を「他の局で知ること」だ。要するに、他の局の編成部が他の局の編成の動きを察知していて、漏れ聞かされてしまうのだ。しかも、それは風聞だったり、嘘だったりした事がない。そうなったら番組は必ず終る。情けなくて妙な現象だ。
では、そうした体験の中から、既に書いた二番組以外の幾つかの「番組の終り」を、今言ったように僕が感じたか、もしくは知り得た範囲での原因と共に列記してみる。尚、番組名は正式なものよりは通称に近い事をお断りしておく。
★「Rolling Pops」(1980・10月〜1982・3月:KTV)司会は売り出し中のふたり、島田紳助と山下久美子。途中司会がつのだ☆ひろと八嶋○○に交代。若きサザンやクールスも出演した純然たる音楽番組・恐らく、視聴率の低迷と思われるが、結局番組終了の最多原因はこれであろう。残念なだけだ。
★「鶴瓶と花の女子大生」(1981・4月〜1985・9月:KTV)女子大生をスタジオに入れた嚆矢だ。視聴率が原因だろうが、4年間やって、メインの鶴瓶さんが「もういいかな」と思ったのではという気もしている。
★「FRIDAY‘S」(1981・10月〜1982・12月:MBS)司会はマーキー、ヤング向け情報番組。なんせサーファーの為の波の情報があったんだから。お笑い色2%!視聴率低迷でやや急な終了だった。
★「つっぱり大貴族」(1982・9月〜12月:YTV)角座の舞台を使ったコント番組だった。Pはやる気のある人で、タイトル的には当時大人気の「ひょうきん族」を目指したが・・・はっきり言って作家とディレクター(以下D)に力が無く無念の途中敗退!
★「突然ガバチョ!」(1982・10月〜1985・9月:MBS)大阪ローカルで全国に知れ渡った番組だった。メインは笑福亭鶴瓶。僕は主に「笑瓶ショータイム」を担当、やり甲斐十分の番組だった。視聴率が悪くなる前に潔く止めたような・・・その裏にはまたしても鶴瓶さんの思惑が・・・違うか。
★「夜はクネクネ」(1983・1月〜1986・12月:MBS)この番組からカメラを担いで街へ出て行く番組が雨後の筍のように現われた。メインはぷいぷい角さんとあのねのね原田伸郎と横にトミーズ雅。思い出の多い番組で、数字も好調。僕としてはなぜ終るのか全く理解も納得も出来なかった。視聴率ではないはず。
★「ナイトinナイト」(1986・5月〜1997・9月:ABC)これが「夜のAタイム」の後番組だ。八方さんの楽屋ニュースが目玉企画だった。ただこの番組はこの後も続いた。ここまで11年続いていた番組だったが、Pが換わって僕(だけではない)が途中降板させられた。何故かは聞かされていない。初めての経験でアンビリーバボーな悔しさだった。
★「板東英二のビデオ自慢」(1986・11月〜1987・3月:ABC)月〜金、お昼の30分番組。全国の素人さんが撮った面白ビデオを紹介する番組だったが、ビデオカメラの普及がまだまだなど時期尚早で視聴率が伸びず終了。
★「4時ですよ〜だ!」(1987・4月〜1989・9月:MBS)月〜金、午後4時から1時間、ご存知ダウンタウンが大阪で頭角を現し、その存在を知らしめた番組だ。これの終了と共にふたりは東京へ本拠地を移す。言わば、ダウンタウンを売るという指名を果たして堂々の幕だ。スタッフも万感の思いで最終回を迎えた。こんな終焉に遭遇出来たことは作家冥利に尽きる幸運だった。
★「テレビ広辞苑」(1988・4月〜1989・3月:YTV)大阪では稀少で意図的なスタジオコント番組。この後、「現代用語の基礎体力」「ムイミダス」「未確認飛行ぶっとい」(〜1992・3月)とシリーズ的に続いたが、芸人を起用せず槍魔栗三助(現・生瀬勝久)、古田新太、羽野晶紀、升毅、上海太郎、みやなおこ、立原啓介といった新劇人(?)を迎えて大阪のテレビ界に一石を投じた。ただ、僕は何故か2本目の「現代用語の基礎体力」で、またしても途中降板。最後の会議終了後、意地で「頑張って下さい」と言い残して会議室を出たことを覚えている。しかし、次の「ムイミダス」でまた声が掛かり、嬉しくてそれまで以上に精力的にコントを書いた僕だった。番組としては、始まった時から期間を定めて作っていた番組で、約束どおり終ったという感じだった。だが、ひょっとして役者達が次々に東京へ行ったという事情が少し手伝っていたかもしれない。
★「正解るんです」(1991・4月〜1993・3月:CBC)名古屋のローカル番組だ。タイトルは当時大流行の漫画「伝染るんです」から、こちらはクイズが絡んでいたのでこうした。やりすぎコージーの今田・東野がメイン。カメラと一緒にふたりが東海地区を歩き回った。評判も好調な中、名古屋吉本が次の若手を育てるべく、今田・東野をそのままに内容を一新、新番組「血が騒ぐ」となり、僕も継続。が、更に次の番組なって、僕自身が若手の作家に交代させられた。時の流れだ・・・クソッ!
★「ダウンタウンの・・・!?」(1992・4月〜1993・9月:ABC)既に東京に行っていたダウンタウンの元に東野幸治、今田耕司、木村祐一、板尾創路、蔵野孝洋といったメンバーが集められ、ゲーム、クイズ、大喜利、コント、歌、ダンス、と何でも有りの上に、エロ、グロ、ナンセンス、ヴァイオレンス、シュール・・・と、これまた何でもやれた(大袈裟?)番組だった。それだけではなく、かなり作家主導の番組で、会議も本番も喜び勇んで臨んだ数少ない番組だ。だが、視聴率はいささか振るわず、数字が取れるやしきたかじんの番組に交代を余儀なくされた。一方、この番組の終了と共に「ダウンタウンDX」が始まった事を記しておく。
★「明石家多国籍軍」(1994・4月〜1994・9月:TBS)勿論、明石家さんまがメイン。この番組の終了は複雑だ。実はこの秋からさんまさんとビートたけしさんの番組が他局で決まっていて、どうやらさんまさんは行きががり上そちらを取る事(この辺の裏事情が微妙なのだ)になったのだが、なんとその直前、たけしさんがあのバイク事故を起こしふたりの番組は消滅。ならば多国籍軍復活かと思ったのだが、予定は変更されることなくこちらの番組も消滅。人気も数字も悪くなかったのにぃ!放送作家では動かせない力が働いていたのだ。
★「すんげえベスト10!」(1995・1月〜1997・9月:ABC)千原兄弟を中心に吉本の若手が総出で切磋琢磨したお笑いランキング番組だ。某70%国営放送の「お笑いオンエアバトル」はこれを真似たと言われても仕方が無いが、断然こっちが面白い!更に、この番組で自力をつけた芸人も多いと自負する。一応の使命を果たし、次の「PUSH」に移行した。
★「大阪一番星」(1997・10月〜1998・9月:ABC)今田・東野コンビで、出だし好調。大阪近辺の変な人や物や場所を紹介する番組だったが、あっという間にネタ切れで沈没。結構吹っ切れた終りだった。
★「暴ロンブー」(1998・4月〜1999・9月:MBS)既に結構全国区だったロンドンブーツとの初仕事だ。若者の声に応えてロンブーのふたりが感性で試行錯誤を断行する番組で、留守番メッセージで声を集める方法がユニークだった。しかし、吉本の上層部の儲かるロンブーに大阪ローカル番組をさせてる場合か!の一声で番組打ち切り!本人達が終了を本気で惜しんでくれたのが幸いだった。
★「わらいのじかん」(1999・10月〜2000・9月:テレ朝)松本人志がひとりで出た、他のレギュラーとかは勿論いたが、要するに浜ちゃんとではない番組。いろいろ進取で気鋭な試みをやったが、畢竟松本人志の感性は夜の7時には通用せず、低空飛行のまま雲散霧消。僕の不甲斐なさも感じたが、その前にテレ朝編成の作戦ミスといわれても仕方がない終わり方だった。
★「マジッすか!」(2001・4月〜2003・3月:MBS)出演者とスタッフ合わせて総勢100人!2年間に面白VTRを1000本近く作った番組だった。だが、結局は視聴率競争に勝てず、終了。そして現在、この番組に出ていた若手の何組もが全国ネットで見られるようになっている・・・でもそれは、彼らの頑張りか。
★「ケンコバ大王」(2002・10月〜2003・3月:TVO)「この番組はケンドーコバヤシが23回の放送で合わせて100%の視聴率を取ろうとする番組である」を目的に「ケンドーコバヤシなら何をやっても許されるのか!」というノリで突っ走った30分番組。数字的には目的に遠く及ばなかったが、「ケンコバなら」というノリは全う出来た番組だった。勿論、2クール、23回でちゃんと終了。小気味良かった。
※今回も2回になりました。↓(25)へ

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