僕は死刑に反対の人間だ。
だから、死刑に関する本は結構読んでいるし、浅薄な知識ながらも死刑をテーマとした芝居を、一再ならず書いたこともある。しかも、あろうことか作、演出、主演というのもあった。
死刑について書かれた本はやはり多様で、著者ということからみれば弁護士、加害者、加害者遺族、刑務所関係者。無論、新聞記者や作家といった自ずとそこに材もしくは題を求める職業の人々も名を連ねる。中身からみれば、事件を客観的に追ったもの。加害者の生い立ちや性格に事件の原因を探ろうとしたもの。冤罪として事件の真相に迫り、訴えようとしたもの。死刑囚と家族、弁護士との往復書簡を主体に構成されたもの。或は死刑囚の手記まで同様に多種である。
そんな中、1997年に起きた神戸の小学生殺人事件を経た時期から被害者側の意見や主張を主題にした本が増えてきました。これには、それまで全くといっていいほど蚊帳の外に置かれていた被害者遺族の人々が、同じ悲しみ、苦しみ、そして悩みを吐き出し、引き受けあいながら、何とか、少しでも事件の真実に迫りたい=何故肉親が殺されなければならなかったのか知りたい、という遺族の最大の欲求の実現の為に連帯、連繋し、更に法曹関係者の賛同協力を得て、裁判所を動かし、裁判制度に変更を迫り、一歩ずつ立場と環境の好転を勝ち取っていったという事実があります。
因みに、その神戸の事件とは世に言う「酒鬼薔薇聖斗」の事件のことです。
そして、今、僕が読んでいるのが『殺された側の論理』(講談社 1600円)著者は藤井誠二、1965年生まれ、ノンフィクションライター。
この本には大きく5つの事件が出てくる。どれも人が殺されており、どれもが犯罪被害者遺族の苦悩と困難を如実に伝えている。中から1つを抜粋する。
第一章「愛する妻と娘の仇は自分がとる」である。
この事件は光市母子殺害事件ともいわれるもので、1999年4月14日に起きた。文中、被害者の夫であり父である本村洋氏が語る。
「〜加害少年は同じ社宅に住む少年で、仕事を無断欠勤して強姦相手を物色していました。少年は水質検査を装い、社宅を廻る中、私の妻が標的となりました。少年は我が家に上がりこみ、抵抗する妻に馬乗りになり、両手の親指に全体重をかけ、妻の喉仏を押し潰し絞め殺し、その後、妻を死姦しました。
少年が妻を殺害陵辱している間、11ヶ月の娘はその傍で泣きじゃくっていたそうです。少年は欲求を満たした後、犯行がばれてはと、用意していた紐で娘を絞め殺したのです〜」
山口地検は死刑を求刑、だが、一審(山口地裁)、二審(広島高裁)とも、犯行時少年が少年法51条1項の規定により死刑とならない18歳を過ぎて間もない時期にあるとして無期懲役を選択、だが、最高裁が二審判決を差し戻し現在に至っている。
そして、更にこの本は係争中の少年と遺族の有り様を伝える。
本村さんは、その後、「全国犯罪被害者の会」を設立、犯罪被害者等基本法の成立を勝ち取り、現在は更なる犯罪被害者の権利確立の為に執筆、講演活動をしている。
本村さんは言う。
「誰だって生きるチャンスがある者を死刑にするということに迷いはあります。ですがあくまでも法治国家である日本の最高刑は死刑であり、被害者遺族としてそれを求めるのは当たり前の感情です」
またある日、日弁連主催の公聴会に招かれて、
「命を絶たれた天国の妻と娘の苦しみや憎しみが和らげられるならば話は別ですが、遺族である私が手厚い支援を受けることで、その見返りに加害者の刑罰を緩和する、死刑制度を廃止するなどという主張であれば私は初めからこの議論には参加できません」
「今現在、死刑制度が存在する以上、死刑廃止をするのであれば、死刑を存置するメリット、停止した時のデメリットを明確にする必要があります」
「『人が人を裁く権利を有するのか』などという、哲学的な思考は私は持ち合わせていないのですが、『人が人を裁かなければ、誰が人を裁くのか』と私は問いたい」
「死刑になりたくなければ、人を殺さなければよいだけの事です。これ以上でも、これ以下でもない。このルールを守れず、人の命を粗末にする人間はルールに従ってもらうだけのことです」
「誰もが死刑を必要としない社会を望んでいると思います。私もそうです。犯罪で悲しむ人を一人でも減らしたい〜死刑を廃止するのではなく、死刑制度を必要としない社会を目指し、防犯活動に傾注していくべきだと私は考えています」
※以上、本村さんの言葉は全て上掲の本より
本村さんの言葉はこれだけではないが、事件の当事者としての自己否定と自己肯定の揺れを感じさせ、その上で思いを正確に伝えようとする懸命さが伝わってくる。
だが、だが、だが、死刑に反対の僕は言う。「本村さんは死刑ありき過ぎだ」と。
傲慢不遜は判っている。家族を殺された人に向かって、母でさえ寿命で逝き、その他は何の異変も無くのうのうと家族が生き続けている僕が言えることかと言われても仕方がない発言だと判っているが、言うのだ。無論、この題材を選んだ時からそのつもりなのだから。
さて、本村さんだ。言い方を変えれば本村さんは「死刑にすがり過ぎ」である。だが、それも仕方がないことは判る。犯人が生きていることが耐えられない。被害者遺族の中にはこの地球上で今、犯人と同じ空気を吸っていると思うだけで気が狂いそうになると言う人もいる。だから、犯人に死を!と思い、その唯一の方法が死刑。残された道は死刑。頼れるのは死刑しかないのだから、犯人を死刑に!それは判る。が、その裏には「法治国家である日本の最高刑は死刑なんだから」という思いと事実がある。逆に言えば、それでしかない。そこだ、そこを疑う必要があるのでは。「最高刑が死刑」で良いか?
僕は思っている。「死刑は人間の能力を超えた判断」だと。
人間が人間に向かって「お前は死ぬべき人間だ」と断ずる能力を人間は持っていない。何があっても人が人に「お前は死んでもいい人間だ」と言う資格は無い。出来ても、或はやってもいいのはギリギリその前までだ。法律用語で言うなら「無期懲役」。但し、日本のこれは決して字面通りの無期ではないので、僕も終身刑を提案する派なのだが。
だから僕には「死刑」を断ずる光景は喜劇に見える。元々その力の無い者たちが集って、喧喧囂囂、議論の挙句、「死刑!」と結論するのだ。力が無いのだから、当然出した答えは間違っている。しかし、彼らはそれに気がついていない。あろうことか、一件落着などと言って祝杯をあげるザマだ。コントだ。
例えば、絵のことが全くわからない人々が、ゴッホ、セザンヌ、ダリ、レンブラント、モネ、ロートレック、東山魁夷・・・数多の絵を前に、やはり喧喧囂囂、論議の末に、一番の絵を決めた。「やっぱりこれだね」「お疲れさん」「じゃ、帰りに一杯」。彼らが帰った後、選ばれた一枚は上下が逆に置いてあったとさ・・・みたいな。
死刑を決めている風景はそれと同じだ。コントだ。
その死刑に全てを託しているかに見える本村さんは、僕には悲しい。穿った言い方をするなら、それがあるから私は少しは報われているのだと本村さんが言ったとしても、それは死刑を存置させている日本が本村さんに強いている姿だ。
勿論、事件自体が悲しいことは、殺された奥さんと子供にとって、どうしようもない悲劇であることは自明だ。
しかし、それを判っているからか、本村さんは最初からこう言っている。判決直後だ、本村さんは言い放った。
「少年という理由で死刑にできないのなら、今すぐ社会に犯人を戻して欲しい。自分の手で殺します」
実は僕はそういうコントを書いたことがある。
〜被害者遺族の前に犯人が連れ出され、手に刀を渡され、「自分の手で犯人を殺したい」と言いましたよねと言われ、殺していいと言われる。しかし、それを仕掛けた男はその事件の担当裁判長であった!〜
ここには、不遜ながら、お笑い作家としての策が講じられていて、前述、「何があっても人が人にお前は死んでもいい人間だと言う資格はない」のだから、それを言うなら、裁判官、お前がやれ!自分で決めたことを、それも「人を殺す」などということを、他の者(刑務官)にやらすな!という見方である。
ま、当日の出来と受けは問わないで頂きたいのだが、ともかく、遺族の気が済むならもうそれしかないと、思わないではないが、本当に、それで気が済むだろうか、と、僕は、本村さんとは全く立場が違うから、肉親を殺されていないから、安全なところからではあるが、せめて想像力を最大にしてそう思うのだ。
だが、そんな僕の想像や策などを超えて現実は悲しく、ひどい。それは加害少年の行動だ。去年6月に行われた最高裁の口頭弁論直前、7年間何の音沙汰も無かった少年が本村さん宛てに「謝罪の手紙」を書いたのだ。それは最高裁に弁護人から提出されたりはしているが、本村さんは一切開封していない。
そして、驚くべきは少年が一審の無期懲役判決後に書いた知人への手紙だ。
【知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、ジャンキーは精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君】
【犬がある日かわいい犬と出会った。・・・・そのままやっちゃった・・・・これは罪でしょうか】
【5年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。キタナイ外へ出る時は完全究極体で出たい。じゃないと2度目のぎせい者が出るかも】
この少年をどうしたら良いのか。その答えは?その方法は?一番考えられなければならないのは、本村さんの心情か、少年の将来か。答えを誰かが出さねばならない。
だが、もう一度言う、死刑と言う選択は人間がやってはならない。悲劇の最後を愚にも付かない喜劇で終らせることは更なる冒涜だ。
来月5月24日、差し戻し審の第一回公判が広島高裁で開かれる。
※今回の文章は危うい。この事件を一面的にしか捉えていない。それは重々承知だ。「冤罪」「抑止力」「絞首という方法」そして、ここにも出てきた「未成年」「被害者遺族」と‘死刑’が含む問題は多い。それらに充分に触れることなく僕の考えを伝えたくて書いた。更なる勉強を自らに課すのみだ。

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