久しぶりに新しい雑誌を買った。『団塊パンチ』。梅田の紀伊国屋書店で創刊号から4号まで並んでいるのを一挙に購入した。創刊は2006年の4月、それ以降、7月、11月、今年2月という季刊(?)である。4号には「次号は4月17日発売予定」と書いているから5号はもう書店に出ているはずだ。
雑誌に何を求めるかは購入者に依るのだろうが、「時代の見方」と言えるようなものであることは異論が少ないと思う。僕自身の観念はそうであり、何より、雑誌自身が、つまりは編集者が「時代」を捉えようとしているはずだ。
『団塊パンチ』はその名の通り団塊世代向けの雑誌だ。創刊号の帯に曰く「50歳以下の方には意味不明の単語が頻出します。ご注意ください。VAN・ヤング720・ボブディラン・キャロル・MOJOWEST・あしたのジョー・寺山修司・横尾忠則・LSD・平凡パンチ・・・・」
そして編集後記にはそう言い切る事に若干の内部抵抗があることを匂わせつつ、しかし、執筆者と文章は、団塊世代の青春である60年代を振り返り、見直し、考えている。
《1号》特集・未来は後方にあり
《2号》特集・ビートルズは過去にならない
《3号》特集1・1968年に何が起こったか?
特集2・ちあきなおみ伝説
《4号》特集・吉永小百合と浅丘ルリ子※表紙はアグネス・ラム
さて、その中身。僕自身が団塊真っ只中だから買ったが、思い出話に花を咲かせている感が強いことが気になる。雑誌が「時代」を捉えようとするものなら、懐かしさの報告で終っていて良いかだ。
そして、もうひとつ気が付くのは、執筆者が一様に長文好きだということだ。政治と文学に否応無く漬かった世代ならではか。久しぶりに書く場所を与えられて水を得た魚のように書いている。今更にそういう世代なのだなと思う。
で、5号以降は、特集次第だなと今は思っている。
さて、僕の雑誌歴は、定期購読を条件としたうえで、小、中学校時代の月間漫画雑誌を外すと、『話の特集』1972年(昭和47)3月号から始まると認識している。それ以前も何種類かの雑誌を買ったがなかなか「次号も!」とはならなかった。ただ一冊『ピープル』という雑誌が気に入って3号ほど買い続けたが、その矢先、廃刊になってしまった。そして、『話の特集』は1995年の終刊まで購読した。この本で僕は遅ればせながら「冤罪」を知り、それは今の僕の死刑反対に繋がっている。他にも、この雑誌からは多くを得た。面白く、惜しい雑誌だった。今更だが編集長・矢崎泰久氏に感謝だ。
そしてもう一冊、毎号が待ち遠しかったのが『思想の科学』である。1974年8月号から買い始め、1996年の終刊まで買い続けた。読むのに困難で、理解にも困難な雑誌だったが、背伸びをしながら、頑張って読んだ。
その他、僕が定期購読した雑誌といえば、
『新劇』※商業演劇から、前衛、小劇場まで芝居の台本が掲載されるのでそれを目的に購読。廃刊。
『キネマ旬報』※結局、僕は批評者(家)を認めないから止めた。
『ニューミュージック・マガジン』※1973年より購読。僕自身が音楽から離れて・・・断ち切れた。
『放送文化』※NHKが出版。NHK的なので「放送リポート」に乗り換えた。
『ビックリハウス』※時代に応え、時代と共に責任を終えて廃刊。
『落語界』※僕が、落語を面白いと思わなくなって・・・
『ヒント』※発想豊かに頑張っていたが、5号ほどで廃刊。具象的であれ、観念的であれ、やはり紙面では難しかったのか。
『オレンジ通信』※嘗て裏本、ビニ本のことがいっぱいだった時代があった。今やAV雑誌に成り下がって、僕もリタイア。
『Gal‘S Dee』※日本製のレベルの高い巨乳雑誌。惜しまれる廃刊だ!
『BURST』※ドラッグ、刺青、セックス、暴走族、ロック、犯罪、死体、何でもありのアナーキーな雑誌!やっぱり売れなかったんだろうか。21世紀中最大頑張っていたのに・・・廃刊!
『momoco』※趣味ではなく、仕事の為に購入。
『GON』※猥雑で、偏狂で、下世話で、無秩序、面白かったが・・・
『ワトソン』※こういうのは何ていうのだろう。法廷雑誌?法曹雑誌?マニアックだったけど・・・4号ぐらいで廃刊!
『City Press』※老舗風俗雑誌。写真が綺麗。だが、年齢と共に利用度も減って・・・
以上は書いた通り廃刊になったか、僕の興味が薄れて購読を止めたかして、今は読んではいないものだ。
結果、現在僕が定期購読している雑誌は、
@『Number』※創刊号より。但し、サッカーの特集が多いのが不満。
A『創』※1979年8月号より。政治、経済、犯罪、マスメディア、等々幅広くしつこい総合誌。頑張ってる!
B『上方芸能』※嘗て僕も編集部員だった。相当マイナーです。
C『放送レポート』※1981年より。放送に携わる者なら、例えスタイリストであろうと一読をお薦めする。
D『BACHELOR』※外国版と提携した巨乳雑誌!お好みに任せます。
E『ダ・カーポ』※創刊より。仕事に役に立ててます。
F『マンスリーよしもと』※創刊より。仕事に役に立ってます。
の7種類。これに『団塊パンチ』が加わるかは未然形だ。
勿論、定期だけが雑誌ではなく特集やテーマに惹かれて不定期に買う雑誌も多い。廃刊も含めて、
『世界』『現代の眼』『夜想』『文芸春秋』『言語生活』『新評』『現代思想』『TOO NEGATIVE』『現代のエスプリ』『伝統と現代』『落語』『危ない1号』『広告批評』etc
といった顔ぶれだ。
活字離れなどと言われだして何年になるだろうか。恐らくはその流れにブレーキは掛かっていまい。雑誌の苦闘時代は続いているはず。廃刊を終焉とせず、次なるものを目指して、我と日本(だけのということではなく)のために日本語の雑誌の不屈の健闘を祈る。
さて、かくして35年程になろうとする我が雑誌歴だが、その中で一番感銘を受けた文章を、是非ここで紹介したい。
それは『思想の科学』1970年3月号の中にある。前述したように僕の同雑誌の定期購読は1974・8月スタートなのでこれはそれ以前の号だ。定価は180円だが、裏表紙に鉛筆書きで250円とある。どの店かは忘れたが古本屋で買ったということだ。
その号の特集テーマは「裁判の思想」。ざっと目次から内容を拾うと、
[大逆事件の場合]〜橋川文三
[金嬉老裁判の争点]〜廣田尚久
[裁判の顔、人間の顔]〜もののべ・ながおき
[マリワナ裁判を支配した神話]〜加藤衛
[レッド・パージとは]〜久米茂
などとなっている。
僕が凝目した文章は、特集の巻頭を飾っている[裁判の思想・序]〜角南俊輔の冒頭に出てくる。文章自体は引用で、シベリヤ抑留体験を持つ詩人・石原吉郎の『三つのあとがき』からと断ってある。
その一文!
「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」
これだ!
『三つのあとがき』によれば、この言葉を言ったのは石原の友人である。残念ながらその友人の名前は判らないが、では、この言葉をその友人はどんな時に言ったかである。それこそが重要であり、それだから僕は衝撃と感銘を受けたのだ。
『三つのあとがき』にそれは書いてある。
「これは、私(石原)の友人が強制収容所で取調べを受けたさいの、取調官に対する彼の最後の発言である」
僕はこれほど、物事を穿った言葉を聞いたことが無い。これほど客観性に支えられた言葉を耳にした覚えが無い。しかも皮肉などではない。ただ、その人の人間観察の精緻がそこに至らせたのだ。
その状況把握の完璧さ。そして、強制収容所の取調べと言う過酷さの中であるのに確実に事実を伝えている、その冷静さ。
だが、ことはそれだけに終っていない。僕は、或は我々は、この言葉からその部屋で対立する人間を確実に如実に想像することができる。取り調べる人間が取り調べられる人間にいったい何をしたかを、僕達個々の思想と想像力の及ぶ限りに、有効で強烈で、然るに反発と抗議をもって思い描かせてくれるのだ。
そしてこの言葉によって、ひたすら苛烈で過酷なだけの取調べも、僕の中では一転喜劇と化す。
それは、文章のままにふた通りある。
「もしあなたが人間なら、私は人間ではない」
〜取り調べているあなたが人間だというなら、人間は人間に決して出来ないことがあるはずだから、現に人間が人間に出来ないことを人間のあなたにされている私は人間ではあり得ない〜
「もし私が人間なら、あなたは人間ではない」
〜取り調べられている私が人間だとしたら、人間は人間に決して出来ないことがあるはずだから、現に人間が人間に出来ないことを人間の私にしているあなたは人間ではあり得ない〜
そして、喜劇として、或はコントとして面白いのはどっち?
だがその前に、決めておかねばならないことがある。それは人間でない方を何にするかだ。
けもの?魚?虫?それとも、自転車?椅子?・・・水?いっそ、無機物?いや、概念はどうだ。
全ての答えは、いつか舞台で僕が出します。
※この稿を書き始めた昨日3日、横山ノック師が亡くなられた。10年以上前に何度か番組に出て頂いたり、ニュース寄席という気鋭なイベントでご一緒させて頂いたりしたが、既に雲の上の人で、何ら言葉を交わすという事など叶わぬ方だった。しかし、中学校時代に見た漫画トリオは強烈で、解散そして参院選出馬というニュースは信じられないだけだった。誰もが言う天性の明るさの威力を僕も何度か目の当りにしたが、ここへ来て失意の中の退場をこころから悼むばかりである。

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