つい先日まで「世界陸上」をやっていた。織田裕二に文句はないが、ああした国際スポーツ大会に密かに願う事がある。
それは「拒否」だ。今更の願いだが、「国旗」の、或は「国歌」の拒否だ。だが全参加国の全選手にと願うのではない。その意志のある人はいないのだろうか、という事である。
だが、そういうことは実は既にあった。覚えている人もいるだろう、1968年のメキシコオリンピック。陸上男子200mで金と銅に輝いたふたりの黒人選手が星条旗が掲揚され国家が流れるている間、表彰台の上で黒い手袋をしたその拳を高く突き上げていたのだ。それは黒人差別を訴える示威行為だった。ふたりの名はトミー・スミスとジョン・カルロス。
しかし、彼らはその事で即日アメリカオリンピック委員会から選手団からの除名と永久追放の処分を受ける。だが、彼らの行動に続く者たちがいた。男子400m走で金銀銅を独占した3人の選手が黒いベレー帽で腕をかざし、男子走り幅跳びの金メダリストボブ・ビーモンが黒いソックスを履き、同じく男子走り幅跳びのラルフ・ボストンが素足となって表彰台に上がった。いずれも黒=ブラックパワーを誇示した行動である。無論、全員アメリカ人である。
結局ふたりはその後長きに渡り迫害を受ける。「拒否する」ことは安易には出来ないのだ。信念に裏打ちされた行動以外には成立しない大変なことなのだ。しかし長き苦境を越え、トミー・スミスは現在サクラメント大学の教授となり教鞭を取っているといい、ジョン・カルロスはパームスプリングスで陸上競技のコーチをしているという。良かった。
トミーとジョンの背景と意思と行動とは別に、どの国であろうと勝利した選手が母国の旗に敬意を表したように、その旗と歌の下に鞠窮如としていることに僕は違和感を持つ。選手自身にそれは無いのか。昨日までの苦闘はこの為だったのかと些かの疑問も湧かないのだろうかと余計な臆測をしてしまう。結局あの光景はイタダケナイ。
つまり選手は国の為にと思って戦うのだろうかという疑念だ。ゼロではないにせよ、それはどのくらいの比重なのか。彼らは自分を磨くことの為に戦うのだと思う。俄然自分との戦いであり、自分の為の戦いだ。そして、勝利し表彰台に上がった時、最後のいいとこで何故国旗と国家がしゃしゃり出来るのだ。あのふたつがしゃしゃり出てきて碌な事になった試しがない。
僕は、「日の丸」と「君が代」を拒否する日本選手を見たいと思っている。
更に、贅沢を言えば、勝利者で無い段階でそれらを拒否して欲しいものもある。ボクシングだ。あれは何故あんなに国を背負うのだろう。亀田三兄弟・・・やってくれないか。
そしてもうひとつ、モンゴル力士に千秋楽の君が代を。朝青龍は・・・とても無理か。いや、日本人力士でも構わないのだが。僕は一度本場所の千秋楽に行って君が代を拒否して起立しないでおこうと思っているが・・・このところ相撲、面白くないし・・・
しかし、スミスとジョンのように「栄誉を拒否した」人々は他にもいる。
先ず、ジョージ・C・スコットとマーロン・ブランドのふたりがあのアカデミー賞を拒否している。
そして、ノーベル賞を拒否したのが、哲学者ジャン・ポール・サルトル。
我がビートルズのジョンも、ナイジェリア・ビアフラ紛争に介入し、ベトナム戦争を推し進めるアメリカを支持する母国イギリスのあり方に抗議しMBE勲章(大英帝国勲章)を拒否しエリザベス女王に送り返している。
でも、少ないことは否めない。やはり「拒否」は大変なのだ。
そして日本にも「意志の人」はいる。
話題の大きさで言えば、1994年、作家・大江健三郎が文化勲章を拒否し、翌年には、女優・杉村春子が同じく文化勲章を拒否している。
また、今や大リーガーとなったイチローが2001年と2004年の2回に渡って国民栄誉賞を「まだ若いから」「モチベーションが下がるから」と拒否した事は以前この欄に書いた。
そして、あの郷ひろみが「歌に順位をつける」事を拒否して、当時の人気番組「ザ・ベストテン」の出演を辞退している。
更に、水俣の作家・石牟礼道子が大宅壮一ノンフィクション賞設立の1970年、「苦海浄土」への同賞授与を拒否している。
だが、やはり少ない。
今回特筆したいのは陶工・河井寛次郎だ。
河井寛次郎は1890年島根県生まれ、松江中学から、東京高等工業学校(現東京工業大学)の窯業科へ入学。以来陶芸の道を只管。1921年、31歳の時に李朝の名も無い陶工の自由で簡素な作品に「自分の作品は衣装であり、化粧であり、中身の体はどうしたのか、心掛けはどうしたのか」と一時、制作を中断する。しかし、柳宗悦らとの交流を経て、無名職人による日用の美を求め「民芸運動」に関わり、やがて、釉薬の研究、美しい発色の創作を重ねながら、日用の器から簡素であるが奔放な造形の創造へと探進し、思索の結果ある時期からは作品に銘を入れる事さえ止めるようにもなる。その高い見識と深い情熱に溢れた76年の生涯、彼の創作意欲は一度足りとも枯れる事はなかった。
そして、ここだ。河井は陶芸家と呼ばれる事を嫌い、文化勲章、人間国宝、芸術院会員とあらゆる栄誉と権威を拒否し、一陶工として生き抜いた人なのである。
今回、「拒否」というキーワードで結構調べたが日本に彼ほど崇高なる実践者はいない。河井寛次郎は魂の拒否者である。
彼の作品と世界は、京都にある河井寛次郎記念館に行けば出会える。
さて、こうした「栄誉の拒否」の一方で、拒否には「不都合の拒否」という一面もある。
そして、こちらも大変だ。いや、いっそ「栄誉の拒否」より大変だ。先ず、カッコ良くない。例えば、「兵役拒否」「就労拒否」「登校拒否」「手術拒否」「押捺拒否」「性生活拒否」・・・どれも相当頑張らなくてはならない。大変だ。絶対大変だ。
先ずは大抵が少数派で始めなければならない。多数に向かって刃向かう事となるのだ。およそパワーが要る仕事だ。それは近しい人やお世話になった人に迷惑を掛けることにもなる。自分勝手だとののしられ、そんな人じゃなかったのにと言われ、下手をすれば裏切り者のそしりを免れない。最後には結構理解者だと思っていた人から「やめたほうがいいよ」などと説得されたりもしてしまう。挙句にその思いや、希望が通れば良いが・・・石もて職場や住んでいた町を追われるような結末にならないとも限らない。
恐らく僕に「栄誉を拒否」する機会は訪れないだろうが、「不都合の拒否」は意識と意欲、時には必要に迫られて、或は義理と人情で決断決行する時が来るかもしれない。
実は、僕にはこれは絶対拒否するというものがある。なんなら実際にその情況になって拒否する機会にめぐり合いたいとさえ思っている。
それは「兵役拒否」。「徴兵拒否」である。勿論、現実には僕はもう57歳で、きっといつかはまたそうなるのだが、今後如何に早い時期に日本が戦争をしようとも徴兵される年齢ではないのだ・・・いや待てよ、この少子化時代、若年層は少なく、ましてや根性も体力も乏しい若者が多い事を考えると、開戦間も無く二十代、三十代の壮丁は瞬く間にその数を減らし、嘗てそうだったように、その分徴兵年齢は引き上げられ、冗談でもなく意外と57歳でも兵隊検査に招集されるかもしれない。そして、結構筋トレとかやってる僕は見事甲種合格になるのだった・・・・
だが、僕はそれを拒否する。最初の段階の兵隊検査から拒否する。いや、それでは面白くない。兵隊検査は受けて、甲種合格を勝ち取ってから拒否するのだ。そのほうが拒否し甲斐があるというものだ。
そうした時、僕の周りではどんなことが起こるのであろうか。
招集令状の受け取りを拒否した途端に逮捕されるのだろうか。いや、昭和のあの頃よりは日本も民主的なはずだから、先ず誰かが説得に来るのかも。家族か。いや僕は一人暮らしだし、田舎は岐阜だけど、本籍は大阪だから親族に口説かれるような事は無いと思われる。ではその代わり誰が来るのだろう。大家さん。いや、顔も知らないのだから効果が無いし、向こうもそこまでの責任はないだろう。と言うか、大家さんは「そんな非国民は出て行ってくれ」と言うかもしれない。かといって町内長さんとか、区長さんとかも全く交流ないし。役人か、都島区役所の住民課の誰か。そういや第二次大戦などでは、軍の徴兵作業の末端はその時局に合わせて作られた役場の徴兵係だったはずだ。
無論、それでも拒否は続ける。そうするとそれは放送作家と言う仕事にも影響するだろう。時局柄お笑い番組は無くなり、毎日、戦争のニュースが扱われる中、兵役拒否者の僕には誰も仕事与えてくれないかもしれない。経済的に大変だが、僕は屈しない。
そうこうする内、恋人(因みに僕はバツイチ独身なのです)から言われたりして。
「また親に怒られたわ。お前の彼は何だって。お願い私の為に戦争行ってよ。ちょっとで良いから。大丈夫、年だしすぐ戻って来れるって。戦争に行くことは私を守る事なのよ。何でいやなの。信じられない」
でも、僕は拒否する。
「もし僕が戦争に行ったら、そう言って彼を戦場へ送った人を殺す事になる。そして、君はそう言われて国を出て来た兵士に殺されることになるのだ」からと。
※「2007夏テレビ」は終ってませんから・・・

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