【2位】上沼恵美子
いまさら説明の必要のない、主婦層に絶大な人気を誇る、大阪を代表するおばちゃん的毒舌タレント、もとい、毒舌おばちゃんタレント、もとい、毒舌おばちゃんである。大阪で、いや日本で、この分野(?)で他の追随を圧倒的に許さない。
1955年4月13日、兵庫県三原郡南淡町(淡路島)の生まれ。1971年、彼女の中学卒業を待ち兼ねるように3歳上の姉と共に上阪し海原お浜・小浜に弟子入り、ケーエープロ所属となり、海原千里(本人)・万里を名乗る。
それより既に、ラジオ、テレビの素人コンクールで活躍、注目されていたとはいえ、翌72年暮れ、その年創設された読売テレビ主催の上方お笑い大賞の中で新人賞にあたる銀賞を受賞。明けて3月、若手が競う第3回NHK上方漫才において優秀敢闘賞を、優秀話術賞、はな寛太・いま寛大、優秀努力賞、横山たかし・ひろしという先輩芸人に伍して獲得。その実力をあっという間に世間に知らしめたのであった。
可愛い姉妹コンビへの期待は、俄然世間にマスコミにいやが上にも広がった。
そして、その期待に違わず彼女たちは健闘し、進歩して行った。ただ、その時代、僕はまだ岐阜在住の大学生であったので、彼女らの活躍を直接眼前にしたわけではない。岐阜地方にも流れる演芸番組で何度かその姿を見た程度に終わる。
無論、この時期、彼女らはデビューの勢いそのままに順調であったのだが、マスメディア=テレビでの露出はその人気からすれば少なかったと思われる。
最大の原因は所属プロダクションの規模である。今でも、吉本興業は日本の最大芸能プロダクションであるが、吉本が東京へ進出していないその頃は、今にも増して、関西では吉本は強かったのである。吉本永遠の大黒柱、仁鶴、三枝、やすし・きよしが猛威を奮っていた時代。対抗勢力はといえばその10年前には関西限定とはいえお笑い帝国を作っていた松竹芸能ただひとつ。しかし、その松竹ももはや昔日の面影は消えようとしていたのである。
要するに、吉本か、ギリギリ松竹でない限りある特定のものを除いてお笑い番組には出られなかったのだ。その特定というのがいわゆるネタ番組で、彼女たちはその限られた場所で最大活躍していたのだ。
その彼女たちの奮闘ぶりは、ここ10年以上に渡って毎年作られる読売テレビの「思い出の漫才コンビベストテン」で必ずその上位に選ばれており、短く編集はされているものの、その片鱗を知ることができる。そして昨今の何でもDVD化流行りに乗って「お笑いネットワーク発・漫才の殿堂」シリーズに収められいつでも見られるものに商品化されている。
因みに「お笑ネットワーク」とは前出読売テレビで昭和38年から何と30年間も続いた漫才番組で、DVDの同シリーズは他に(ダイマル・ラケット)(いとし・こいし)(やすし・きよし)(Wヤング)(阪神・巨人)(紳助・竜介)(ザ・ぼんち)(B&B)(スペシャル・人生幸朗・生恵幸子、カウス・ボタン、のりお・よしお・・・)といったラインナップである。そして彼女たちのそれは他の漫才コンビのものより売れ行き好調だということである。
さて、その千里・万里の漫才。笑いを作り出すのは勿論、ボケである妹の千里。その喋りは今より早い!しかも、声が高くキレが良い!これぞマシンガントーク!しかも、可愛い。こんな小娘の何処にこんな力が!だが、呆れる間もなく笑わせられる!自分ばかりを褒めまくり、姉をけなす。その切り替えが、また絶妙なのだ。
中でも彼女の力と魅力を見せつけるネタは「ヤングヒットパレード!」という番組名コールから始まる1本だ。司会を姉・万里がやる歌番組ネタだ。次々登場する歌手を彼女流アレンジで妹・千里がやる。アグネス・チャン、山口百恵、欧陽菲菲・・・。その登場と退場の身のこなしは軽快で、業とらしいが上手い。一番受けるのは欧陽菲菲。誇張した発声と歌い方と激しい動きはまさに漫画版オーヤンフィーフィーだ。
だが、秀逸なのは山口百恵、当時の彼女の最大のヒット曲『ひと夏の経験』(1974)を歌う。面白さはその冒頭に集約されている。勿論アカペラ、伴奏は無い。
「♪あぁなたにぃ〜 女の子ぉのぉいちばん〜 大切なぁ〜」
背中を少し丸め、マイクに顔を近づけてそこまで歌い、一瞬の半呼吸を置き、
「♪カボチャあげるわぁ〜」
とやられる!客に予測という笑いの準備をさせ、その答えが出てしまわないうちの攻撃!彼女の思うつぼの大爆笑。その絶妙で、完璧な間。恐らく、彼女は何回かに数回、自ら鳥肌を立てているのではあるまいか。
勿論、「カボチャ」という逆に企みのない、いっそベタとさえ言えるモノ(言葉)の選択も客の意表を衝いているわけである。
そして75年、作詞・山上路夫、作曲・猪俣公章に恵まれ、『大阪ラプソディ』をヒットさせる。
千里万里の前途には洋々たる視界が開かれていた。ふたりの今後の活躍と成長はマスコミばかりでなく、お笑いファンにとっても注目せざるを得ない一大関心事となっていたのである。
ところが、そのさ中の77年、突如海原千里結婚!コンビ解散・・・海原千里は漫才師を降りてしまった。
「変節」=僕が勝手にがっかりしたベストテンだと断っておいた。その2位である。僕は相当がっかりしている。そして、今からは相当勝手である。書かれる側からすれば迷惑な話でしかないかもしれない。だが、余りに残念だから書く。
彼女の結婚。そこには普通に出会いと愛があったのであろう。22歳の女性が恋に燃え、愛に悩み、そして出した結論が結婚、そして漫才を辞める。
だが僕は思う、それは違う。それでは約束が違うと。あれほど期待させ、その気にさせておいて、「やっぱりやめます」は芸人、芸能人、役者、其の他、ファンあっての商売の在り方としては身勝手だと、ならばとこちらの勝手も許して貰えるなら、無責任だと。
2001年、参院選に民主党の比例代表制で出馬、見事当選したものの、半年後、「民主党は民主的でなかった」と突如議員を辞めた大橋巨泉より、僕はびっくりがっかりだ。
芸能人の芸能活動以外の所謂私生活がどこまでその人のものか、ここまでと境界線を入れることは無理でもあり、無意味でもあるが、人気商売というなら人気が大きい人ほどそれは制限されて仕方がない面があると考える。増してや、本人が某有名演歌歌手が言ったように「お客様は神様です」と思い、ファンあっての私ですと思っていたなら尚更だ。
さらに僕は、実力を見せつけた人、期待を抱かせた人には応分の‘社会的責任’が生じるとさえ思う立場だ。
‘社会的責任’ならば、それは果たさねばならない。個人的事情を優先して己が職場を疎かにすることは契約違反であり、可能な限りと百歩譲って、回避すべきことであると思うのだ。
つまり、人気と実力を見せつけ、期待を抱かせたまま、彼女は漫才界から消えた。がっかりどころではない!何をしてくれんねん!我々との約束は!僕のこの気持は!漫才界はどうなる!・・・残念無念、痛恨悔恨、未練鱈々、勿体無慚!
しかし、これで終わらない、影響が出た。問題が別の形で起きたのだ。
海原千里から上沼恵美子となった彼女は望むように、あるべくように、幸せな家庭作りに勤しみ、それは漫才でも優等生、主婦でも優等生であったということか、問題ゼロなどという家庭は存在しないし、彼女の結婚生活もその例外ではなかったはずだが、傍目には特に大きな障害や蹉跌は無く、子供にも恵まれ、大いに順調に人々が羨む家庭をこしらえていった。
そして、1年後、それは元々そういう話であったのか、或いは大きな引きや、熱い頼みがあったのか、彼女は芸能界に復帰した。
それから今日まで、以前にも増して力を発揮する彼女・上沼恵美子であった。ラジオ、テレビ、CMにコンサート、講演。司会、パネラー、歌、料理、ボケ、つっこみ・・・どれも上沼恵美子ならではのしゃべくりで大人気、好成績だ。冠番組もヒット、本も出版、そんな中、遂に1994,5年とNHK紅白歌合戦の紅組司会者を勤めるまでになる。好感度ランクも常に上位、そして2003年、関西長者番付けの1位に輝いたのである。順風満帆、万万才の今日である。
それはそれで良い、彼女はそれで良い。力があったのだし、必ずや努力もしたことだろう。
出現した問題は、それが、その生き方が女芸人の在り方だと思い、且つ羨み、人はそれを勘違いと言うが、それを目指す女芸人、女性タレントが現れたことだ。哀しきエピゴーネンの誕生だ。
この際、力の有る無いは放っておく。無論、上沼恵美子程の力を持った人がそうそういるわけもないのだが、首尾不首尾は置いておいて、「子供のある、温かい家庭とそれなりのタレント業」を目指す者が出てきたのだ。
大阪には‘不幸な女芸人の伝統’がある。この場合の‘不幸’は男女関係と限定しても良い。
その第一人者とはやはり「ミヤコ蝶々」だ。
1920年、実は東京の生まれ。両親の離婚に伴い幼くして神戸へ、7歳の時より、父が興した芝居一座での娘座長を皮切りに、彼女の60年に及ぶ芸人人生は始まる。その絵に描いたような努力と忍耐の歴史は他の情報源に譲るが、‘不幸な女芸人’の最たる由縁は二度の結婚と離婚にまつわる悲喜交々であろう。特に、二度目の夫でもあり漫才の相方でもあり、永遠の友人でもある南都雄二との愛憎だ。
〜最初の夫は、私がその人の妻から奪ったもの、そしてその因果応報か、二度目の夫は、私が他の女に奪われることになる。そして、夫婦ではなくなったことを隠しながら夫婦として続けた人気長寿番組、その番組こそ皮肉にも「夫婦善哉」(1955〜1975)なんです〜
彼女が、その妻から夫を奪う場面、また彼女が夫を奪われる場面、その刻一刻とその後の人間ミヤコ蝶々の相克・・・ミヤコ蝶々著『女ひとり』(鶴書房)をお読みください。
しかし、彼女はその全てから立ち上がる。無論、その深奥までは分からぬが。その彼女を支えたものは、逆に言うなら彼女が支えとして使ったもの、見つけたものは「芝居」だった。謂わば、彼女は原点に戻ったのだ。そして彼女は「漫才芝居」といわれることを拒否しようと作、演出、主演を担いその鍛錬向上に励むのだが、やがては「堂々と漫才芝居をやろう」という地点へ行き着く。その尋常でない苦闘はここに書き尽くせるものでもないし、僕なんぞが書くことのできるものでもない。ただ、圧倒され納得させられるばかりなのだ。
僕は毀誉褒貶には煩い。殊に国家、行政の信託は忌避的だ。だが、ミヤコ蝶々は受ける。昭和39年、大阪府民劇場賞、婦人公論・最高殊勲夫人、京都市民映画助演女優賞。昭和41年、大阪日々文化碑賞。昭和45年、大阪芸術省。昭和46年、日本放送批評家賞。昭和59年、紫綬褒章。平成5年、勲四等宝冠章。のうのうと貰うのではない。彼女は言う、「私は賞を貰うようなどえらいことをした覚えはない。嘘や嘘や・・・」と泣きながら貰うのである。
そして、2000年10月12日、80歳の天命を全う、蝶々さんは逝ってしまった。
さて、‘伝統’と言うからには一人では済まされない。もうおひとり、それは唄子・啓助の京唄子である、が、またしても次回。

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