そしてもう一本はドキュメント番組。
NHKハイビジョン・証言記録 兵士たちの戦争『沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場〜山形県・歩兵第32連隊〜』(45分)
沖縄戦に携わった歩兵第32連隊の兵士達の証言集である。その32連隊は第24師団に属しており、その24師団こそは第9師団、第62師団と共に第32軍を形成し沖縄に送り込まれ、そして「全滅」した者達だったのである。
戦争において、戦死が部隊の3割に達すると、その部隊の全員が死ぬか負傷しており、事実上戦闘能力を失い、全滅と判断される。
だから全滅した32軍にも生存者はいた。そして彼らは語った。
(※■印はナレーション(解説)部分で、本篇ではそこに米軍の攻撃の様子や殺され捨てられた島民の姿などが実写で挿入されて、悲惨さを伝えている)
■日本陸軍屈指の精鋭部隊32連隊が沖縄に出征したのは昭和19年7月。米軍は既にサイパン、グアムを陥落。日本の絶対国防圏は破られ戦況は急速に悪化していた。
『15文字以内で遺書を書けと言われ、家を出た時から御国に捧げた命、これで南方(沖縄)へ行って終わりだなと思って「父よ母よ さらば」とだけ書いた』(笹島繁勝伍長)
■32連隊が沖縄南部に到着したのは8月。しかしその時点で既に武器も弾薬も逼迫していた。
『模擬戦車。戦車の形を土で作って、松の木を砲身にして、そこにアメリカの無駄な弾を落とさせようという、今考えると子供じみたことだけど、あの時は真剣』(比嘉恒吉歩兵)
■昭和20年3月23日、米軍54万が沖縄中部に上陸開始。鉄の雨と言われた地形が変わるほどの艦砲射撃が32連隊を襲った。
『弾の直撃で中身(内臓)が全部飛び出して、上を見たら木の枝に肉がぶら下がっている。人間の肉が』(川畑勝歩兵)
■逃げ場と武器を失った兵士たちに決死の戦法が命じられた。兵士自身が爆雷を持って突撃する「斬り込み攻撃」。謂わば陸の特攻隊だ。
『6キロぐらいある箱爆雷を持って戦車の前に行くんだよ。(爆発して)全身が無くなるよ、けど、チェーン(キャタピラ)が切れて戦車が止まるでしょ、そこを歩兵部隊が攻撃するんだよ』(照屋清次歩兵)
『隊長が命令を出す時もグデングデンになって言うんだ。(酔わないと)命令出せない。死ねっていうんだから。そして武器の無い者が先に行かされた』(浜本俊則歩兵)
■笹島繁勝さんは同じ中隊の90人がいつどのように死んでいったのかを書き記している。
『負傷した兵隊も自分で動けなくなったら、(手留弾で)バーンて自決。その時はね「天皇陛下万歳」だの「お母さん」だのは一つも聞かなかった。皆が、我々に援軍しないで「大本営何やってる。東条英機何やってる」「畜生、悔しい」ばっかり』
■「沖縄戦」の位置づけとは。沖縄戦の2カ月前に作られた『帝国陸海軍作戦計画大綱』(大本営)に寄れば「作戦ノ目的ハ〜帝国本土ヲ確保スルニ在リ〜敵ノ出血、消耗ヲ図レ」とあり、本土決戦の前に少しでも敵を消耗させる事を目的としていたのである。
■開戦1か月半、10万の日本軍は半分以上の6万4千を失っていた。アメリカ軍は沖縄本島の中部から北部を完全に制圧。5月下旬には首里の日本軍司令部に迫っていた。そして司令部周辺の洞窟内の野戦病院は多くの傷病兵で溢れていた。そんな彼らに参謀長から「各々、日本軍人として恥ずかしくないよう善処せよ」という指示が出されていたという。
『動けない患者がいっぱいいて、部隊にも帰られないから、注射で殺されると言うこともあったんだな』(土屋清太曹長)
『(兵隊は)注射器抜くか抜かないうちに静かになっちゃう。で、5分後に見回りに行くと冷たくなってる』(浜本俊則歩兵)
■5月22日、司令官牛島満中将は戦闘の継続を決定。敵を消耗させよという大本営の方針に従ったこの決定は更なる悲劇の幕開けとなった。そして日本軍は島南部喜屋武半島を目指した。南部への道は既に避難する住民で溢れ、そこにアメリカ軍の砲爆撃が容赦なく繰り返された。
『兵隊の死んだのはそうも思わないんだけど、たまたま女の人が、ここ(腹)からスポンと切れて、私が松葉杖で歩いてる(道路の)こっちに胴、こっちに足があって、子供をおぶってるの。それを見た時ははぁーと思ったね』(同上)
『何十名、何百名と人間が死んだ匂いを嗅いでごらんよ、ここ(鼻)に腐った肉がくっ付いてるんじゃないかと思った』(川畑勝歩兵)
『兵隊さん助けてくれ、連れてってくれと言われたけど、部隊で動いているから列から外れて助ける訳にはいかない。関わってたら戦闘出来ない』(大場惣次郎曹長)
■32連隊は喜屋武半島のガマと呼ばれる自然の洞窟を最後の陣地とした。一方、住民達もその洞窟に避難してきた。だが兵士達は住民と同じ洞窟に入らないように指導されていた。しかし混乱の中、軍と住民が同じ壕に入ることは避けられる事ではなかった。そんな時、住民は入口付近に集められた。
『島民を我々も利用していた訳。島民を入口に置いておくと、アメリカ兵が来ても島民だと何もしていかない。島民を盾にしたっていうか』(浜本俊則歩兵)
■6月中旬、アメリカ軍の掃討作戦は激しさを増した。壕に爆弾を投げいれ、火炎放射を浴びせた。
『恐ろしいよ。大きい砲身からいっぱい火が出る。缶なんか溶けて跡形も無くなる。火に近ければ焼き殺されるんだ』(比嘉政雄歩兵)
『まだまだ沖縄の壕の中には死骸があると思う』(笹島繁勝伍長)
■追い詰められた壕の中で軍と住民の間には様々な軋轢が起きた。
『地方人(島民)も兵隊と一緒にいれば大丈夫だと一緒に逃げて来た。住民も気が立っていて、「兵隊さんは住民を守らず、どこを守っているんだ」と言われた。けど連隊が任務を果たすには仕方が無かった。今こうして生きて、思いだすと申し訳ないと思う』(大場惣次郎曹長)
■補給も無く、底を衝く弾薬や食糧。32連隊の兵士は洞窟の中で極限状態に陥った。
『壕に爆雷を投げられて何十人か死んで、その死体を積んだ。積み上げらないものはその上に毛布掛けて、その上を歩いたんだ。人の上をね』(前田宇太郎衛生兵)
『玄米が三俵あって、その上に兵隊が死んで白骨になって、下まで(死体の)脂が落ちてる。その玄米を食べたらドブの臭いと死体の匂い。分るんだけど何とも思わない。その時の俺の体重30キロそこそこ。骨と皮』(笹島繁勝・伍長)
■6月23日、アメリカ軍は喜屋武半島を制圧。沖縄全土がアメリカ軍の手に落ちた。マブイの司令部で牛島司令官と幹部が自決。沖縄守備軍の組織は完全に崩壊。そんな32連隊に最後の命令が届く。「最後ノ一兵ニ至ル迄敵ニ出血ヲ強要スベシ」
■そんな中、32連隊にある噂が広まった。(8月になれば援軍が沖縄に上陸して来る)。しかし根拠の無い噂によって32連隊は更なる犠牲者を出すことになった。
『動けるものは皆壕から出て行った。次の朝12〜3名が帰って来た。何処まで行ったと聞くと、一晩で1キロほどしか行ってない。30何人出て行って半数は発見されて撃たれて、亡くなってる』(浜本俊則・歩兵)
『そのうち神風が吹くと思った。必ず本州から応援部隊が来ると思った』(前田宇太郎・衛生兵)
■しかし敗戦。8月下旬、32連隊の壕にも日本の敗戦が伝えられた。だが将兵全てが武装解除に応じたのは2週間余り後の9月3日だった。32連隊の総員3千のうち生き残った者は一割に満たなかった。
■再び、冒頭の山形霞城公園。史碑を訪れる大場惣次郎・元曹長。そこに最後のナレーションが。
「〜本土防衛の名の下に5カ月に渡って続けられた持久戦〜夥しい数の命が奪われたことにどんな意味があったのか。悲劇の戦場から生還した元32連隊の兵士達は問い続けています」
そして、兵士達の証言。
『結局こういうことになれば兵隊であれ、男であれ、女であれ、子供であれ判別無い。本当に無意味な、残念な戦であったと思う』(大場惣次郎)
『戦争のこと本当のこと言えないよ。本当のこと言うとね、よるも眠れないさ』(照屋清次)
■兵士達ひとりひとりの赤茶けた写真・・・その上に再びタイトル。
音楽は葬送のようだ。
スタッフロールが流れる。
語り 柴田徹
ディレクター 佐藤匠
制作統括 木内康司
制作・著作 NHK山形
※以上は番組の全貌ではありません。またしても字数の都合で止む無くカットした部分があります。
お笑い番組の難しさは、(笑いどころ)が皆違う事だ。作る者、見る者、そして出る者。それぞれ何が面白いかが違う。それなのにより多くの人を笑わそうとする。相当に難しい。そんな中でより高い=面白いお笑いを作ろうとするなら、敢えて傲慢でなくてはならないと、僕は考える。
そしてドキュメンタリーの難しさ。
それは傲慢さだ。大抵のドキュメンタリーは伝えたい事が最初から存在する。寧ろそれ故にドキュメンタリーを作るのだ。つまり(答え在りき)で作ることになる。結果、その方向に合致しない意見や事実はカットされ都合の良い部分だけが集められる。下手をすると折角見えそうになった新事実にも蓋をしてしまう。ドキュメンタリーは事実に謙虚でなくてはならない。傲慢は命取りだ。
その上で、このドキュメンタリーだが・・・難しいのだろう。証言者自身が言っているように、「戦争のことを語るのは」。そして「戦争のことを語って貰うのは」。しかしそれは想定内のはず。
その時、この番組はどうやって撮ったのだろうと思う。
先ず「沖縄戦」に焦点を絞る。次に「沖縄戦」の事を語ってくれる人を全国に募集した。それとも、全国のNHK支局に命令一下、そうした人を探した。いや、恐らくは32連隊が沖縄戦に従軍したことを先ず調べ、そこから生存者に連絡、了承を貰い、取材に及んだのであろう。それが一番現実的だ。
問題はその後、語り難い「戦争を語って貰う」為にどうしたかだ。あの番組を見る限りそこが甚だ疑問だ。
証言をしてくれた元兵士は10人。上げ足を取るのでは決してない。その人達がずっと同じ服なのだ。つまり、全員一回、もしくは一日の取材で終わっている。戦争体験を聞いたというのにだ。その背景も変わらない。同じ椅子、同じ部屋、同じ角度。
勿論、カメラの前で証言をされた勇気には敬意を表する。
だが取材する側は(戦争)を(戦争体験)をどう捉えていたのだろう。一回こっきりの取材で全部語り得ると、語ってくれると思ったのだろうか。日を変える、場所を変える、時には、食事を、お酒を、家族とと、様々に設定を変えながら、もっと話をと思わなかったのだろうか。
一度喋って「もうこれ以上は」と言った人でも、翌日、「もう一回お願いしたい」と言えば、また違う話をしてくれたのでは・・・番組にそういう痕跡は見えない。
挙句、彼らはアメリカ軍の爆撃で島民が犠牲になった事は喋ったが、「日本軍が島民に何をしたか」は語っていない。
それは元兵士達のせいではない。聞き出せなかった側の責任だ。
只、証言した兵士達自身が直接に島民に犠牲を強いたと言う事ではない。彼らも兵士だったのだ、10人の内のひとりでも、聞くか、見るかして、何かを知っているはずだと言う事だ。無論、それも確定的ではないが。
無論、そこまで喋ったが後で「あそこはやはり放送しないで欲しい」と言う事があったかもしれない。だったら、そこは顔を出さないようにしてでも、そのお願いの顛末さえも撮る意欲が必要なのではないのか。
それすらドキュメントの常套法なのだが・・・
結局「沖縄戦」の証言集としては浅いと言わざるを得ない。
とは言え、映画『沖縄決戦』は淡々と見た僕だったが、ドキュメンタリー『沖縄戦』は溜息と渋面を禁じえなかった。そこは証言の持つ力と言うべきだろう。
だが過剰も無く、波乱も無いドキュメンタリーの教則本のようでしかなかった。
教科書のような『沖縄決戦』。教則本のような『沖縄戦』。学ぶものは、残念ながら少なかったと言うしかない。
そして現在、あの戦争を経験した、とりわけ兵士達がどんどん死んでいっている!
だが、きっと彼らは喋りたいと思っている。あの事をこのままあの世へ持って行く事に疑問を感じて、誰もがそう思っている。あの悲惨、あの非業、あの無意味、あの喜劇を伝えなくてはと!
時間と金があるNHKだが、時間は無いぞ。頑張れNHK!頑張れドキュメンタリー!

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