もう半月前になるが、またぞろこの平和な日本で死刑が執行された。
1月29日、木曜日。
●牧野正(58歳)福岡拘置所
●川村幸也(44歳)名古屋拘置所
●佐藤哲也(旧姓・野村、39歳)名古屋拘置所
●西本正二郎(32歳)東京拘置所
この4人だから特に取り上げた訳ではないが、彼らに対する死刑執行命令書にサインをしたのは森英介法務大臣。無論、それは彼の仕事だ。そして、彼だけがそうしたのではない歴代の法務大臣の殆どがその命令書にサインをしている。
だが思う。人間、仕事だからと云って、その役に付いたらすぐさま人を殺す命令を出せるものかと!
人間、そんな臨機応変か!
なんや、君子豹変か!
勿論、4人は犯罪を犯している。だが、それとて21世紀の日本と云う限定付きだ。とは言え、その犯罪に目をつむったままでは片手落ちだ。ちゃんと明らかにしておこう。
◆牧野正◆「北九州母娘殺傷事件」
・被告は1990年3月12日、北九州市門司区の会社員女性(53歳)方に侵入、物色。
・女性の長女(25歳)に見つかり、用意した包丁で刺殺。現金を盗んだ。
・逃げようとした時、帰宅した女性と遭遇、喉を指して2か月の重傷を負わす。
・更に、通り掛かった看護婦見習いの女性(18歳)の後頭部を鉄製バールで殴って怪我を負わせ、バッグ、現金を強奪。
・尚、事件の3時間前、同市内で通行中の女性(57歳)にナタで切りつけ頭蓋骨骨折の重傷を負わせたうえ、現金、バッグを奪ってもいる。
・被告は事件当時、無期懲役仮釈放中であり、ボートレースに凝ってサラ金などに百数十万円の借金があった。
・裁判では弁護人の控訴を本人が取り下げ死刑が確定していた。
◆川村幸也・佐藤哲也◆「ドラム缶女性焼殺事件」
・ふたりは他の4人の被告に指令、共謀、2000年4月4日、約束手形240万円の支払いに応じなかった名古屋市の喫茶店経営者男性(58歳)を襲い2週間のけがを負わす。
・しかし男性が逃げた為、一緒にいた男性の妻(64歳)と妻の妹(59歳)を拉致。現金24,000円を奪う。
・更に、共謀のふたりは妻とその妹をドラム缶に押し込み、ガソリンを掛けて焼死させ、遺体をチェーンソーで切断、山中に放棄した。このふたりは無期懲役が確定している。
・佐藤、川村被告は共に再審請求をしていたが、佐藤は自ら取り下げ、川村は名古屋高裁により棄却されている。
◆西本正二郎◆「長野愛知連続4人強盗殺人事件」
・元土木会社社員だった被告は、2004年1月13日、春日井市内の路上でタクシー運転手(59歳)の首をナイフで切るなどして殺害。売上金18,000円を奪った。
・同年4月26日夜、長野県飯田市の女性(77歳)宅を訪れ、ロープで首を絞め殺害。物品を奪った。
・同8月10日夜、長野県高森町で男性(69歳)宅を訪れ、男性をナイフで刺殺。現金26万円等を奪った。
・同9月7日夜、同高森町のパート女性(74歳)方の玄関で、対応に出た女性を刺殺、財布、現金を奪った。
・その他、2003年9月には以前住んでいた飯田市のアパートの隣室へ忍び込み、現金1,020万円を盗んだりしており、余罪も多い。
・裁判は高裁で本人が控訴を取り下げて、2007年1月、死刑が確定した。
4人とも相当な重罪を犯している。今の日本では死刑と云う選択は余儀ないことなのだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
だが、僕は死刑はこの世に無い方が良いという考えだ。
そして死刑を問う時に、個々の犯罪の内容から問い始めるのは死刑と云う問題への正しいアプローチとは言えないと考えている。
死刑は制度である、つまり、装置である。その是非を問うのに、その装置が判定する素材、或いは生み出す結果は関係ないと言うべきだ。装置そのものの出来を問わねばならない。つまりは日本の裁判制度だ。
その装置の出来を考えた時、視点のひとつに、偏らない、常に平等な出来上がり――裁判で言うなら判決――を要求するというものがあるのは当然の話だ。
制度と云うものはそうでなくてはならない。制度に偏向があってはならない。しかも命が掛かっている。
そしてその装置は日本の至る所に設置されている。名称は地方裁判所であり、高等裁判所であり、最高裁判所である。
そう考えた途端、それぞれの場所で行われている「死刑」かどうかを決めるという働きが、それぞれの場所=裁判官、次第であり、装置次第であることが分かる。つまり、裁判=死刑判定は数か所に分かれ、何人もの人達が判断を下しているという時点で既に平等という観点からは外れていると言える。
現実には、何処の裁判所で、誰に裁かれるか、裁判は先ず運ありきなのだ。
人生に運はつきものだが、裁判も運、死刑も運で済ませられるかだ。
これは、なにも死刑を宣告させられる側=加害者だけの問題ではない。死刑を望む側=被害者遺族にしても、運が悪かった=死刑にならなかった、と云う事態が起きる、起きているということである。
う〜ん、この相克は完全に喜劇だ!
死刑判決の全てが裁判長ひとりに帰結するものではないが、全国に何百人といる裁判長が同量の、或いは同質の正義と断罪を行使できるはずはない。それは裁判長個々人内においても生じる事態である。一人の裁判長が生涯に請け負う裁判の全ての判定基準がずっと同じと云う事はあり得ない。
裁判の限界、裁判長の限界、畢竟、死刑の限界がそこにある。
しかし、複数の人々がある集団として平和に暮らしていこうとする以上――例えばそれは国家とかだが、ルールは要る。裁判は死刑だけを決めているわけでもない、みんなの夢と希望と生活の為に、人に迷惑を掛けた人には、その人自身の反省と今後同じことを起こす人が少しでも減るように、罰を与えた方がいい。それは僕も賛成する。だから、百歩譲って裁判は要る。
だが、裁判長に限界がある限り、人命を奪うということには恐れをなさなければならないと僕は思う。
「お前は死んでも良い人間だ」と人が人に言う事は謹まれなければならない。
それはきっと人間の能力を超えた暴挙でしかない。人間に「死んでもいい人間」と「死ななくてもよい人間」を判断する能力は絶対に無い。
増してや、音楽でいうところの絶対音感のような、何があっても狂わない絶対判定は存在しないのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、こうした事を現実の「死刑」の実務に照らし合わせてみた時、更に疑問は大きくなる!
【死刑執行手続き】・・・大まかに
〜日本の死刑執行は法務大臣の命令によらなければならない(刑事訴訟法)。そして執行は、死刑判決確定後6か月以内に行われなければならない〜という今や形骸化した大前提の下
▼死刑が確定すると、公判記録が該当検察庁に送られる。
↓
▼書類を受理した検察庁の検事長(高等検察庁)、または検事正(地方検察庁)はその死刑囚に関する上申書を作成し法務大臣(実際には法務省)に提出する。
↓
▼それを受けて法務省刑事局は検察庁から裁判記録を取り寄せる。
↓
▼その記録を刑事局総務課が点検。資料が全部揃っているか、落丁が無いかを調べる。
↓
▼更に、刑事局付きの検事が、「刑の執行を停止する事由」「再審の事由」「非常上告の事由」「恩赦相当の事由の有無」などを審査する。
↓
▼その結果、それらの事由が無いと検事が確認すると、死刑執行起案書の作成に移る。
↓
▼作成された起案書は、先ず刑事局内で、
担当検事⇒参事官⇒総務課長⇒刑事局長の順で決裁される。
↓
▼次いで、刑事局から矯正局に回されて、
参事官⇒保安課長⇒総務課長⇒矯正局長の順で決裁される。
↓
▼更に矯正局から保護局に回されて、
参事官⇒恩赦課長⇒総務課長⇒保護局長の順で決裁される。
ふうっ!(汗)
↓
▼この起案書が再び刑事局に戻り、刑事局長が矯正局、保護局の決裁を確認し、起案書を「死刑執行命令書」と改名して法務大臣官房に送る!
↓
▼大臣官房でもまだ続く、
秘書課付き検事⇒秘書課長⇒官房長⇒法務事務次官の順で決裁される。
↓
▼そしていよいよ法務大臣がサインをする!
(※但し、事務次官の決裁は法務省の最終決定であり、次官が決裁したものに大臣がサインをしないという事は殆ど無いそうである。うん?法務大臣ってナニ?)
↓
▼法務大臣が決裁した「命令書」は該当検察庁に送られ、「死刑執行指揮書」が作られる。
↓
▼同時に、拘置所に死刑囚に関する書類が届けられ、執行の準備に入る。
↓
▼執行当日、検事が「執行指揮書」を持って拘置所に赴き、死刑囚に対し拘置所長がその「指揮書」を読み上げ、刑が執行される!
尚、刑の執行は大臣決裁から5日以内に行わなければならない。
長っ!多っ!面倒くさっ!
ともかく、法務大臣のゴーサインまで少なくとも20人の人間のチェック機能が働く。つまり、死刑でいいかどうか判断するのである。そして日本の裁判史上、なかんずく死刑史上、殆どの場合、「死刑OK」の裁断が続き、厳かに死の儀式が執り行われてきたのである。
僕は思う。その中の誰か、誰かひとりでいいから、「NO」と、「おかしい」と、「間違っている」と言わないのかと。
理由は幾らでもあろう。
〜制度への不信
〜人間への信頼
〜己の宗教心に照らし合わせて
〜己の過去の咎(とが)に思いめぐらせて
〜己が家の因果応報を思って
〜自己の死生観故に
〜世紀末思想から
〜昨日の占いにより
〜母の遺言に従って
〜報道ステーションを見て
〜ペットの死に遭遇して
〜太陽がまぶしかったから
〜時計を見ていて
〜魔がさして
〜自瀆行為の挙句
〜退屈凌ぎで
〜その場しのぎに
〜自分を変えたくて
〜目立ちたくて
〜死に土産に
ま、キリがない・・・
しかし、その20人を超える人達が、上記の如き観点の何ひとつをも想起しないまま、粛々とハンコを押すのだろうか。
人の壁の厚さよ!
その黙々たる光景は、果たして喜劇なのか、悲劇なのか、それともホラーなのだろうか。
無論、そこまでに先ずは裁判がある。その段階で何千、何百と云うチェックとその都度の裁断を通り抜けての死刑確定なのだが。
・・・余談だが、そう考えた時、やがて実施される裁判員制度。「この人は死んでもいい」と云う判断をしなければならないのだが、あなたは大丈夫か!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そんな頃、それは丁度、その書類群が矯正局から保護局に回った頃であろうか、僕は死刑について書かれたある本を読んでいた。
『愛と痛み――死刑を巡って――』辺見庸(毎日新聞社)
本を、つまり読書を、僕は何かを得ようとして試みる。
だが、それを叶えられることは余程無い。僕の読書力や感性の壁もあろうが、本は意外と恋に似ていて、好きになろうとして挑んでも中々そうはいかない。意図的な恋は成立しにくいのだ。
その都度、きっとこういうことが書いてあるだろうと勇んでも読むが、その答えが明確に示されている事も余程無い。恋も、きっとこんな女性だろうと近寄っても、案に相違することが殆どなのと軌を一にする。何てね。
で、『愛と痛み』は辺見と僕の精神性の高みの違いだろう、頑張って三度ほど読んで、何とか互いの交錯点を見つけた。いや、僕が勝手に感じただけなのだが。
⇒27ページ
――日常はすべて愛と痛みにかかわります。日常は痛みをサンドイッチのように挟みもっている。(中略)「世界が滅ぶ日に健康サプリメントを飲み、レンタルDVD を返しに行き、予定通り絞首刑を行うような、狂(たぶ)れた実直と想像の完璧な排除のうえになりたつ」のが日常です。
阪神大震災が起きたあの日、レンタルビデオの返却日だからといって瓦礫のなかをビデオ店へあるいていったひとがいたそうです。その話を聞いた私は歪曲された現実の姿をみたような奇妙な感覚に浸りました。日常の連続性とはなんと強靭なものか――
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
このビデオ男のシーンは最早オートマチック工場のコントであるが、それは正しくあからさまに、瞬く間に、「死刑執行起案書」を点検、決裁する間違いなく高学歴の人々の姿と精神のネガである!
⇒79ページ
――被害者への配慮と死刑囚への愛をひとつの次元でかたるのは誤りだと私は考えます。私がいいつのっているのは、被害者と対置しての死刑囚のことではない。自力で歩くこともできない七五歳の病人を、何の感情を揺らすこともなく無機質に殺す死刑。この国家による殺人について私たちはもっと考えなくてはならない――
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
ここは、前掲、僕の「死刑は装置」の部分に相当近い。不孫を承知で言わせて頂くなら、僕と辺見庸は同じことを言ってる。勿論違いは敢然としてある。辺見はやはり「愛と痛み」からの言説であり、僕は「怒りと笑い」への弄言であることだ。
⇒48ページ
――私は殺されるのを見て泣いたことがあります。今でもよく覚えています。彼らは、よくにおった。生きものは殺される前にはよくにおうものだ。たくさんの汗をかくからです。(中略)その眼の色がふかいのです。私は泣きました。涙が止まらなかった。全員をあたたかい部屋へ連れて帰りたかった。彼らは犬です。
――不思議なのです。私はなぜ犬だと泣けるのか。(中略)あの場にも憎悪や悪意や情欲や殺意はありませんでした。あるのは有価物か廃棄物か、有用か無用かの分類だけ。(中略)それにしても私はなぜ犬だと泣けるのか。なぜ人間だと泣けないのか。
これは「都合のよい愛」なのではないだろうか。都合のいいことには泣き、負いきれないことには涙も流さずにむしろ目を背けていく。それが私たちの日常なのです――
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
辺見はこの本の半分以上で「日常は諧調」だと言う。
【諧調】(かいちょう)@やわらぎととのう。調和してやわらぐこと。Aよくととのった音楽の調べ。
その諧調を日常とするのが「世間」だと言う。その世間は、人が殺されるのを見ても泣かないことを諧調とし、犬が殺されるのを見て泣くのを諧調とするものだと言う。
そして、その「世間」が死刑を存続させていると言う。
「都合のよい愛」が死刑を支えているのだ。
対抗する僕は、では「都合のよい笑い」を提起しよう。
「都合のよい笑い」。それは、殺される犬を見て泣いていれば誰にも何も言われないように、誰からも文句の出ない笑いだ。
それは日本中に蔓延している。テレビを見れば一目瞭然!――僕は今回もまた、完全に放送作家という僕自身の足元をさらっている――そして厚顔無恥、もしくは無知な「都合のよい笑い」は世間を支え、遂には傲岸不遜に死刑を支える。
しかし、この本の中で僕が最も衝撃だったのは!
⇒54ページ!
――もともとこの国の日常には「私」が希薄で「私」のない空気ばかりが蔓延しています。(中略)理由の無い諧調が日常を形づくっている。虫唾(むしず)が走るような言葉を最近知りました。「空気が読めない人」。全体的なムードを敏感に察知できない人をこの言葉で揶揄(やゆ)するらしい。身を凍らせる言葉ではないでしょうか――
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
「KY」のことだ!僕はこの言葉が嫌いだった。だが、その意味合いは辺見が内容に視点を得たのとは違い、僕のはその使用に拘った、全くとぼけたものだった。
限定度の問題である。
「KY」とは「空気を読めない人」であると、最早共通認識の如く使うその傲慢さ。
「KY」は何も「空気を読めない人」と限った訳ではない。「昨日の約束」でも「刑事の嫁」でも「桂米団治」でも「金玉四っつ」でも、いっそ「空気を読める人」でもいい。
それをしたり顔で「お前のことやで」と使う若者!その仲間意識のその裏にべったりある排除観。そこに嫌悪を感じたのである。
辺見は更にそこを「主体的な意思で構築したのではない、なんとなく自然に醸成されたファシズムの諧調」と言い切る。
そう言い切る辺見は、きっと「KY」にさえも死刑への「愛と痛み」を感じているのだろう。僕はまだまだ。
故に、せめて、
「死刑を支えない乱調な日常を!」
と叫ぼう。
しかし、今も次の執行に向かって法務省では書類の点検が、残業を挺して行われている。
中には一年中、いや生涯をその点検、決裁に費やす人がいるのではないか!
THE TENKEN MANだ!
それは、君のおとうさんかも、おじさんかも、隣のおにいさんかも、いや、友達のおかあさんかもしれない!

5