4日前、6月18日。衆院本会議で「臓器移植法改正案」が可決された。
同法案は当日参院に送付され、その後は厚生労働委員会(参院)で討議、採決される予定だが、それを経ずに、衆院同様本会議で採決される可能性もある。
本会議で可決されれば無論法案成立だが、否決された場合は両院協議会で結論を求めることになる。しかし、そこでも合意がなされない時は、憲法第59条・衆議院の優越により、再び衆院に回され、3分の2以上の賛成で可決すれば法案成立となる。
実は、考えられる想定はこれに留まらないようで、衆院が参院の採決前に解散した場合は他、いろいろあるようだが、ここは省く。
ともかく、現状は参院の結果待ちである。
しかし、この法案の持つ意味や課題は大きいと言わざるを得ない。なにせ神のみが扱うべき人命を人間が扱えるようにしようという法律だからである。これはこの法案に賛成、反対のどちらの立場からしても同じことが言える。
衆院本会議での採決は国会に提出された順にA、B、C、D案の四案があり、それぞれについて提出順に採決を行う方法で始まったが、最初のA案が投票総数430票の過半数である263票を獲得したためA案の採択が決まった。
では、その四案の要旨を個別に見て行こう。その前に、現行法の概括。
■現行■
○本人の意思表示(文面)と親族の同意がある場合、「脳死を人の死」とし、臓器提供が可能
○15歳以上が臓器提供可能
そして四案。
■A案■主な提案者・中山太郎(自民)
○「脳死を人の死」とする
○本人の意思が不明でも家族が承諾すれば移植可能
○本人が生前に拒否できる
○提供年齢には制限無し
■B案■主な提案者・石井啓一(公明)
○未だ「脳死を人の死」とする国民的コンセンサスは得られていない
○提供可能年齢を12歳に引き上げる
■C案■主な提案者・阿部知子(社民)
○生体移植のルールの法制化
○脳死判定基準の厳格化
■D案■主な提案者・根本匠(自民)
○未だ「脳死を人の死」とする社会的合意は得られていない
○15歳未満は親の承諾があれば臓器提供が可能
以上はかなり概略だが、どうも四案の差異は明確ではない――僕も結構判りにくい点がある――が、ともかく一番慎重かつ現状維持的なのは【C案】である。しかし、いずれも様々な条件を上げながらも日本の「臓器移植」の現状に疑問と不満を持ちつつ、より多くの「臓器提供」が行われる社会になるべきだと言っている。
ここで確認しておくことが、この法案は「臓器を提供する側」のことを決めるもので、「される側」の事ではない。あからさまに言うなら、この法案の成立を願っているのは、日本の現状ではなかなか臓器が提供されない「臓器を貰う側」の人々である。敢えて確認しました。
さて、そんな中で行われた今回の採決であるが、事の複雑さ、厳密さを反映していつも(?)のそれとはやや趣を異にしたようだった。
例えば、共産党は「議論が尽くされておらず、採決は時期尚早」と全員棄権であった。
また、その共産党を除く各党は「死生観にかかわる」ことだとして党議拘束をせず、議員個人の判断に任せての投票で臨んだ。
その為に面白い、稀有な場面が表出した。テレビのニュースでもその映像が流れたが、賛成は「白」の札を、反対は「緑」の札を投票するのだが、各党の幹部内に於いてその色の違いが出たのだ。
▽麻生太郎 (自民) →〔緑〕
▽小泉純一郎(自民) →〔白〕
▽細田博之 (自民) →〔白〕
▽鳩山由紀夫(民主) →〔緑〕
▽菅直人 (民主) →〔白〕
▽小沢一郎 (民主) →〔白〕
▽岡田克也 (民主) →〔白〕
▽太田昭宏 (公明) →〔緑〕
▽北側一雄 (公明) →〔白〕
という具合だ。しかし、自民、公明、民主の三党は総裁・代表が全員〔緑〕の反対票を投じたのに対し、三幹事長が揃って〔白〕の賛成票を投じるという一致を見せ、何やら党としての体裁を整えたのではという疑念を生じるようなことでもあったのは――これもひとつの政治決着なのだろうが、いとおかし。
さて、この問題(法案)への賛成者は、同時に日本の「臓器移植」の現況に不満を抱く人達、もしくはその共鳴者、応援者たちであると言える。つまり、法案は、日本の臓器移植の現状をもっと移植が行える世界に変えたい、変えるべきだという趣旨を持つ。――先に書いた。
それ故に、今回の法案の最大の改革、変更、前進点は「脳死を人の死」とする事である。法案賛成者の今回の最大の望みはそこにある。
課題は、その「脳死」なのである!
その「脳死」がまた難解なのだ!
●日本の脳死 ●
日本の脳死とは全脳死(大脳,小脳,脳幹を含む全脳髄の不可逆的な機能停止)の立場をとり,これはいわゆる「植物状態」(遷延性意識障害)と明確に区別される必要がある。
後者は大脳は機能廃絶していても,脳幹部は健常であり昏睡状態であっても栄養さえ補給すれば生きながらえる状態であり,脳死者が2〜3日で50%,一週間で70〜80%が心停止に至るのと対照的である。
脳死とは「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止する」(臓器の移植に関する法律第6条第2項 1997年7月16日法律第104号)ことを指すが,これを法的に「死亡」とするためには「移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる」(同第6条)ことが前提でかつ,脳死による死亡判定は「移植術に使用されるために提供する意思を書面により表出している場合で」「判定に従う意思を書面により表出している場合で」「家族が当該判定を拒まないときまたは家族がないときに限り」(同第6条)行うことができる。
※「脳死と臓器移植」駒村和雄より
お気付きか!ここで重要な事は、「脳死」と言う判定基準は「臓器移植」の為のものだということである!
判り易く言うなら、「脳死」状態の人に「臓器移植」=「臓器提供」という予定が無い以上、その「脳死」状態は、単に「心臓死」に至る直前のある状態に過ぎない、ということだ。つまり、「臓器提供」の予定がない限り「脳死」であるかどうか判定もされないし、関係なく死を迎えるだけなのだ。
そして、今回「脳死」が国会でまで取り沙汰されるようになった事情はこういうことである。
■日本はこれまで「心臓死」=心臓の停止を「人間の死」として来たが、科学の発達に伴い「脳死」なる状態が発見、生成された。それは上記のような身体状況であり、実は「脳死」もやがては、それも比較的短時間の内に「死」に至ることは確認されている――稀に一年、二年と生きている例もある。
■そして、「脳死」は人間の全細胞が死ぬ(機能停止する)のではなく、まだ生き続けている器官がある状態なのである。しかもその生体もやがては必ず死ぬ。そんな時、これまた科学の進歩により、その「脳死」の人間の体のまだ生きている臓器を他の人間に移植できる技術が鍛錬、育成されて、遂に移植可能な水準に達して来たのである。これを待ち望んでいたのは、先ずは、移植すれば助かる患者であり、その家族である。更に、功名を欲する医者であったかもしれぬ。
■しかし、日本人の死生観はなかなか「脳死」を受け入れてはくれない。そうこうするうち、海外ではその状況が打破されて、「脳死」を「人の死」と認め、移植手術が続々と行われるようになった。
■そこで日本の多くの患者、その家族が海外での移植を求めて渡航するという状態が、この日本ではずーっと続いている。今も。
■だが彼らの状況は安易なモノではない。逼迫する経済、切迫する時間、稀少過ぎるチャンス、海を渡ることもできず、指をくわえて我が子の死を見送る家族が後を絶たない事態である。
■無論、それに泣いているばかりでなく、この十数年の間、家族は世間に、識者に、そして政治に働きかけ続けた。一方、運動はその輪を広げ、理解者を増やし、政治家は勉強をし、遂に1997年の「臓器の移植に関する法律」を成立させ、以来12年、今回「脳死を人の死とする」という更なる革新を織り込んだ「A案」を提出、可決するに至ったのである。
家族は言う、「臓器移植しか方法が無いんです。臓器移植すればこの子は助かるんです」と。
しかしだ、脳死状態のまま、手足を動かす事もなく、表情を変えることも無く、また、言葉を発することもないまま、2年近くをその我が子と暮らし、だが髪が伸び、歯が生え、体も大きくなっていくその子を見守っている母が言う。「この子は生きています。この子の心臓を他の人にやるなんて出来ません」と。
僕は、今回の一連を振り返りながら、最大課題は「臓器移植」であると思った。これをどう考えるか。それが人間に問われているのだと思った。「脳死」はその途上に出てきた、一便宜、逆に一誘惑でしかないのでは!
だが時が経ち、更に科学、医学が‘正当な’進歩をつづけていく中では、「脳死」が圧倒的、現実的に「人の死」とされ、更に進んだ技術と共に「臓器移植」は普通の治療になるのかもしれないとは思う。
しかし!!!!
それは、「人の死」を「心臓死」より手前に持ってくるということである。人命を救える可能性を狭めて、より人命を救わないという方向である。それは間違ってはいないのだろうか?
で、やはり僕は思う。
人生は一回がいい。もしくは、一回でいい、と。
そこにこそドラマが生まれ、文学が生まれ、芸術が生まれ、哲学が生まれ、宗教が生まれ・・・・・事件も、犯罪も、戦争も、愛も、家族も、世界も、地球も意味を持つのではないかと!
ははは、だいぶ大ごとになりましたが、本当にそう思うのです。
もう少し悪意と戯れ事を以っていうなら、「一回きり」というルールの中で遊ぶのが人生のやり方なのではないでしょうか。
もうお分かりでしょうが「臓器移植」という方法はそれを否定する、僕にすれば邪道です。「臓器移植」は人生と言うゲームを面白くなくする反則です。しかも、他人の命と引き換えに終わる筈のゲームをもう一回続けようと云う傲慢の極みです。
諦めよう!そうじゃないとキリがない。
もう始まっているが、東南アジアやアフリカや南米の、所謂南北問題のしわ寄せを蒙っている貧しい地域の子供達が既に餌食になっている。
アメリカへ渡って移植された心臓は南米の子供のものである可能性は否定できない。
無論、そこに働くのは資本の論理だ。金持ちの東洋人が貧乏人の南米人の心臓を買う。
このままいけば――脳が、肺が、胃が、腸が、足が、手が、目が、耳が、爪が、眉が、鼻くそが具合が悪いの。だったら、ちょっと東南アジアかそこらにお出かけ、ささっとツアーでお買い物。またまた元気になりました――
そして、別の方法も模索は始まっている。クローンだ。自分のクローンだ。いざという時の為に、今からもう一人の自分を造っておく。
だが、不安は限りない――「右腕、2回やったらどうしよう!」 じゃもう一体造っておくか。それで万全、満足か?「うわ、チンポ元気無くなった。これは若いに限る。よし5年に一回取り換える計算で、10本キープしておこう!だって、僕、金持ちだし!」――
やっぱり、キリが無い!
勿論、今回の成果は業突く張りの金持ちや、エロ爺いの欲望の結果ではない。親の愛であり、家族の愛である。
だが、この情況が普通になって行くと、「我が子の為に臓器移植を望まない親は子供を愛してない」ことになる!まるで結婚したら子供を産むのが当然のように言う世間がまたまた似たような妖怪を生む!妖怪‘ぞうきもらい’!いや、正しくは‘ぞうきもらえ’だ。
最早、魑魅魍魎、怨流蛮流、処々怪暴、業鬼乱跋、不知人外、である!
僕は恐くて面白いが・・・・・
きっと、これは人間の枠を超えた無理無謀である。無理はいけません。
巣林一枝
最後に言います。
「しかも、その子はそれを望んでないかもしれない!」
ま、子供のいない僕が言うことですからお腹立ちは底知れず、猛反発は必至、2チャンネル大盛況でしょうが、しかし、子供のいる親の愛が必ずしも正しいとは言えず、もし正しいとしても子どもがいるという自らの枠内だけでしかないことは分かっていて頂きたい・・・・と。
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いやあ、「田辺製薬」も大変だが、この問題も難しい。当たり前か・・・
事は生き方であり、死生観であり、人生観である。本を読み、インターネットで調べれば調べるほど、その先があり、際限がない。
しかし、暴挙を顧みず、今言いたい事を書き連ねました。
そして、「田辺製薬」。こちらは「脳死」以上に関連事実が膨大で、大変!
「薬害」「企業」「政府」「法律」「人命」・・・・・ま、人命の関わらない問題はあり得ないでしょうが。
でも、少しづつ書いてます。
そして、そして、そして、「コント衛門」は数日後第一回の稽古です!不安と期待と興奮と勃起!
嗚呼、夏が始まる!しかし、2009、サザンはいない!

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