ほぼ半年を経ての田辺製薬Aである。その@はたくらだ堂の114、5月10日付けだ。
田辺製薬をたくらだ堂に載せたのは、今年の3月。田辺三菱製薬が子会社「バイファ」と共同開発した人血清アルブミン製剤のデータを改竄して薬事法の認可を受けていたという事実が発覚し、それに僕が、勝手に、怒ったからだ!
実は被害者も出ておらず、反響も小さいニュースだったのだが、僕は怒った。
何故か。嘗て、田辺製薬は「スモン」という被害甚大な国内有数の薬害を発生させておきながら、一貫して否認、責任を回避しようと最後まで抵抗した企業であるのだが、その反省もなく、またもや製薬会社としてはありうべき犯罪を犯したからだ。田辺の命よりも金という体質は変わっていなかったのだと、僕の体に怒りが甦ったのだ!
@では「スモン」の発生から現在までを粗略ながら追った。それで制限字数が来て一旦終了。連続して書こうと思ったところに、薬害に関しては欠くべからざる本のあることを知り、それを通販で購入しようとし、数週間後その本は届いたが、その本の就読などから、ついつい今日になったという訳である。些か時間が経ちすぎた嫌いはあるが、怒りを新たに、勝手に、書こうと思う。
但し、相当長いです。
Amazonに注文したその本は以下の2冊。
□構造薬害□
社団法人・農山漁村文化協会発行
(人間選書)181
片平洌彦(かたひらきよひこ)著
250ページ、1950円
□ノーモア薬害□
(株)桐書房発行
著者は上に同じ
332ページ、2800円
これらの本により「スモン」だけではなく「ペニシリンショック」「サリドマイド」「キセナラミン事件」「クロロキン」「筋拘縮症事件」「薬害エイズ」「ソリブジン事件」等々、様々な薬害事件についても勉強できた。
勿論、「スモン」についてもこれまでに僕が調べた以上の事を知り得た。それらを以下に反映させながら、前回との重複を恐れず、そこから「スモン訴訟」の経緯へと出来る範囲で洗い出すことにする。
■ス■モ■ン■
◆1900年、スイスのバーゼル化学工業(後のチバガイギー社)がキノホルムを使用した‘優秀な創傷防腐剤’(外用薬)として販売開始。
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◆1907年、スイスでキノホルムが劇薬に指定される。
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◆1933年、デービッドらがキノホルムはアメーバ赤痢に有効と報告、日本でも腸内防腐・殺菌剤としてアメーバ症、細菌性腸疾患などに用いられ始める。
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◆1935年、アルゼンチンのバロス医師が「キノホルム投与後に重篤な神経障害が生じた」ことを製薬会社(チバ社)に報告。
しかし、チバ社はこの警告を無視。説明書(能書き)への記載をしなかった。
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◆1936年、キノホルムを劇薬に指定(日本)。しかし、三年後、第五改正日本薬局方の一部改正で普通薬に変更される。
↓
◆1939年、日本でチバ社の「ヴィオフォルム」(キノホルムの商品のひとつ)の臨床試験で、投与後に下肢のしびれや歩行障害などの症状が起きたことがカルテに記載されている。(どこのどういう試験なのか不明)
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◆1945年、アメリカ。デービッドの警告によりキノホルムの使用をアメーバ赤痢に制限。
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◆1953年6月30日、日本チバガイギー社は厚生大臣の認可を得てキノホルム剤「エンテロ・ヴィオフォルム」を製造販売。以後、チバ社は「メキサホルム」(1962)、「強力メキサホルムA散」(1963)などを順次、製造販売する。
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◆1956年1月17日、田辺製薬のキノホルム整腸剤「エマホルム」、厚生省により認可。
※その病気は1955(昭和30)年頃から日本各地で多発し、範囲が限定的であったことから当初は感染症と疑われた。他にも風土病説、アレルギー説等が流布した。
◆1958年、第63回近畿精神神経学会において、和歌山大学楠井賢造教授が「多発性神経炎様症状を伴った頑固な出血性下痢の治癒した一例」を報告。これがこの病気の学会報告第一号とされている。
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◆1961年、北海道釧路市に集団発生、「釧路奇病」と呼ばれる。その後、山形、米沢、長野県岡谷、徳島などで発生が続く。
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◆1961年、「国民健康保険制度」が確立。多くの国民が治療を受けられるようになると同時に、点数制度による医療保険のもと、医師による点数獲得のための薬の大量、長期投与が蔓延する。それは「キノホルム」の大量摂取を引き起こすことになった。
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◆1961年、アメリカでは「キノホルム」が重度の下痢が続くといった副作用が見られたことからFDA(アメリカ食品医薬品局)が「要指示薬」に指定し、店頭販売が禁止に。
※この影響でアメリカの市場を失ったチバガイギーが日本の子会社=武田薬品に製造と販売の拡充を迫ったと言われている。
◆1964年、東京オリンピックのこの年、その後田辺製薬研究所が建てられる埼玉県戸田町、蕨市付近に集団発生、「戸田奇病」と呼ばれる。更に、福岡県浮羽町、岡山県井原市でも集団発生。
※このように「特定地域で多発」という現象から、この病気は感染症ではないかと考えられ、風評が立ち、学者達も懸命に「ウイルス」を発見しようとした。
※また、報道もそれに倣ったお蔭で、患者・家族に対する世間の偏見が増大した。
◆1964年、厚生省は助成金を出し前川孫三郎京大名誉教授を班長にこの奇病の研究、調査に乗り出すが、収穫少なく1967年に打ち切る。尚、この年の発生患者数は1,452人と初めて大台に乗る。
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◆同年、京都で開かれた「第61回日本内科学会・非特異性脳脊髄炎症シンポジウム」で、椿忠雄東大助教授らによって、前掲「スモン」と命名された。
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◆その直後の1965〜68年にかけて、「スモン」は日本全国で急激に増加。1960年代のスモン患者は厚生省調べで約1万1千人にのぼった。
※因みに、海外のスモン患者は約200名。日本が突出している最大の原因に海外は外用薬が主であった事があげられている。
※そして重篤な症状と原因が不明であることから奇病として恐れられ、患者たちは差別の対象となっていった。
◆1969年4月、厚生省は研究費3500万円を投じて40名からなる「スモン研究班」を組織。同年9月、会長に感染説派の国立予防衛生研究所・ウィルス部長甲野礼作を迎え「スモン調査研究協議会」に改組。
※だが、この事からもわかる通り、厚生省もスモンはウイルスだと考えていた。
◆1969年8月17日、NHK報道特別番組『奇病スモン』放送。出演は斉藤厚生大臣、祖父江逸郎名大教授、スモン患者・志鳥栄八郎(後の東京スモンの会会長)。
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◆1969年10月、京大ウィルス研究所の井上幸重助教授はスモンの新ウィルスを分離、これを前掲スモン調査研究協議会の甲野会長に渡して追試を依頼。
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◆1969年10月21日、岡山大学医学部助教授・島田宜浩らが「スモンはウィルスによる感染症の疑いが強い」と朝日新聞に発表。
※「感染説」が報じられるたびに、患者の自殺が相次いだ。
◆1969年11月、各県のスモン患者の会を全国的に組織するための大会が東京で開かれる。
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◆1969年。この年は患者が最も発生した年で、2,312名。(2,251名とも)
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◆1970年2月6日、京大ウィルス研究所の井上幸重助教授がスモンウィルスを発見、煮沸消毒が有効と、イギリスの臨床雑誌「ランセット」に発表したのを受け、朝日新聞が朝刊一面トップに「スモン病ウィルス感染説強まる」と掲載。
※これにより、それまでも「原因不明の病」として恐れられていたが、「スモン感染説」は医学界の有力な見解とされ、患者たちは隔離を強要され、医者、病院から敬遠され、更に患者の家族までもが学校、親戚、地域社会から排除され、離婚、失職、一家離散、村八分に遭うというような過酷な状況の中、遂には自殺者が続出する事態となった。
※更に「ウィルス説」により、1970年まではキノホルムによって生じた「スモン」の腹部症状の消毒・殺菌といった治療の為に更にキノホルムを投与するという行為がなされ、多数の重症患を作り出すことになった。
◆1970年2月16日、前出、甲野会長は「井上ウィルスから多量のマイコプラズマを検出」と発表。しかし、井上助教授はマイコプラズマは細胞培養中に混入したものと主張、ふたりの研究者の間に亀裂が入る。
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◆1970年5月、三楽病院(都内?)でスモン患者の導尿カテーテルの管が緑色に染まっているのを看護婦(当時)が発見。連絡を受けた井形昭弘助手がその分析を東大薬学部の田村善蔵教授に以来。
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◆田村教授は患者の尿の緑色物質がキノホルムと鉄の錯化化合物(三価鉄キレート化合物)であることを証明。同年6月のスモン調査研究協議会で「この薬品と病気の関係を調べる必要がある」と報告。
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◆それを受けて、新潟大学医学部・椿忠雄教授が疫学調査を実施。1970年8月7日付け朝日新聞に「スモン病の悪化に整腸薬が一役。日本薬局方整腸薬キノホルムの使用量とスモン発症率との間に明らかな相関関係がある」と発表した。所謂、「スモン=キノホルム説」である。
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◆1970年9月3日の日本ウィルス学会で前出、井上助教授は自説を発表、10月の医化学シンポジウムで東大・井形助手と論争となる。翌年、井上助教授は「井上ウィルス」説を取り消す。
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◆1970年9月8日、厚生省は疑惑段階ながら、嘗ての「サリドマイド禍」の経験からキノホルムの使用と、186種類のキノホルム製剤の販売停止の措置を取った。これにより「スモン患者」の発生が激減する。
尚この時点で97社172品目のキノホルム剤が販売されていた。
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◆1970年10月、「スモン調査研究協議会」は患者のキノホルム服用状況を調査、890例中84.7%の人が6カ月以内に服用ありと判明。
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◆1971年、スモン調査研究協議会に30名からなる「キノホルム部会」が発足。
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◆1971年5月、「全国スモンの会」の2名がキノホルム剤を製造販売した被告製薬三社(日本チバガイギー社、武田薬品、田辺製薬)とそれを許可・認証した国に対し損害賠償を求め東京地裁に提訴。ここに「スモン訴訟」が始まる。
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◆1972年1月1日の時点で、「スモン訴訟」は全国32の地裁、7の高裁で係争中。提訴患者数6,267名(原告数7,297名)で、我が国の裁判史上、最大の薬害訴訟となった。
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◆1972年3月13日、スモン調査研究協議会は「スモンと診断された患者の大多数はキノホルム剤の服用によって神経障害をおこしたものと判断される」と総括。この後、議会は名称を「厚生省特定疾患スモン調査研究班」と変更。
しかし、この間、被告製薬三社は研究議会の「総括」を否定し、被告の国と共にキノホルムとスモンの因果関係及びその法的責任を認めない立場を取り続けた。
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◆1973年、京都府の地評がスモン裁判の支援を決議。
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◆1975年、山形県でスモン患者を支援する県民会議が結成される。
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◆1975年3月21日、スモン研究班は全国のスモン患者数を11、007名と発表。
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◆1976年1月、日本薬局方よりキノホルムが削除される。
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◆1976年4月、田辺製薬労組は幹部二人を「キノホルム説」を否定するための調査に海外へ派遣。
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◆1976年5月、田辺製薬の社員約120人が、キノホルムを服用しても問題がないことを証明しようと、厚生省にキノホルムの使用を願い出るが、却下される。
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◆1976年6月、東京地裁に於いて被告製薬三社が和解によって訴訟を終了させたいと申し出る。しかし、「社会的責任を負担し、適正な補償をする」という申し出は原告らには受け入れられなかった。
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◆1976年6月、薬害救済基金法大綱が決まる。
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◆1976年9月、東京地裁は審理が熟したとして「和解」を勧告する。
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◆1977年8月19日、金沢地裁に田辺製薬側証人として井上研究室の西部陽子助手が出廷、スモンウイルス説を主張。
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◆1977年10月、東京地裁で原告と国・製薬三社の間で可部恒雄裁判長による和解案(可部和解案)が提示され、一部締結される。
世に言う「可部和解案」である。その内容は、
▼患者を症状に応じて軽症、中症、重症の三段階に分け、それに応じた基準金額を定め、(因みに重症で2500万円)、更に年齢や家族内の位置などで加算額を計算、それを国と製薬会社が支払う。
▼恒久対策として製薬会社が「超々重症者」に月額10万円、「超重症者」に6万円(いずれも物価スライド制)の介護費用を支払う。
※しかし、和解では国と製薬会社の責任が明確にならず、内容も不十分と多くの原告が判決を求めて、再び裁判闘争の席に座った。
※そして、田辺製薬一社が謝罪を要求されたことでこの案を拒否。弁護士を更迭し、更に「井上ウィルス」説を主張、その後可部裁判長らの忌避を申し立てるなどした。
◆1978年3月1日、金沢地方裁判所で「スモン訴訟」初の判決。その要旨はキノホルムとスモンの因果関係を認め、被告製薬三社に最高の学問的水準による医薬品安全性確保義務があるとして不法行為責任を認め、被告の国に対しても医薬品の安全性、有効性の審査義務があるとして国家賠償法上の責任を認める原告勝訴の判決であった。
しかし、補償金額は前年の西部陽子助手の証言の影響を受けて東京地裁の和解額の7割であった。
↓
◆1978年3月22日、日本ウィルス学会は「井上ウィルス」は広く学者間で容認された事実とは言えないという見解を発表した。
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◆1978年7月、国労(国鉄労働組合)、第40回定期全国大会で「被害者の早期救済と薬害根絶めざす本裁判を重視し、本件裁判闘争を支援する」と言う決議を採択。
↓
◆1978年8月、自治労(全日本自治団体労働組合)は第24回定期大会で、「薬害根絶・スモン訴訟闘争支援」決議を採択。そのなかで、
@控訴取り下げを国・製薬三社に要求
A国・自治体当局に薬害根絶に向けての行政指導・対策の強化を要求
Bウィルス説を唱え率先して控訴した田辺製薬の製品を自治体病院などで取り扱わないよう自治体当局に申し入れる
の三点をあげた。
※その他、全国各地の労働組合が続々とスモン訴訟闘争支援を打ち出した。(総評、広島県労組、京都地評、北海道地評、東京地評、静岡地評、山形県評、合化労連)
※しかし、田辺製薬労組はキノホルム説に疑問を呈し、「難病で苦しんでおられる人々に、とりあえず社会的救済がなされ、同時に真因の究明が――なされるべきであろうと思います」と表明した。
◆1978年8月3日、東京地裁にて判決。
その要旨。
▲キノホルムがスモンの唯一の病因である。
▲昭和31年1月当時、キノホルム剤の神経障害は予見可能であり、製薬会社にはその回避義務違反があった。
▲昭和43年11月1日当時、厚生大臣にはキノホルム剤の規制権限の不行使の違法、及び過失があった。
更に、製薬会社と国の責任に厳しく言及している。
↓
◆1978年11月14日、福岡地裁にて判決。同上。
↓
◆1978年11月、合化労連が田辺製薬に対し、薬の製造に関しては許認可権を持つ国にこそ重大な責任があるとしながらも、田辺製薬のみが和解に応じず、他の救済対策を出していることは、裁判の速やかな進行と早期救済を願う者にとっては遺憾に堪えないという要請書を提出した。
↓
◆1978年11月21日、合化労連・太田薫委員長が田辺製薬労組を訪ね、「田辺は和解の席に着くべきだ」と挨拶。
↓
◆1978年12月1日、田辺製薬が厚生大臣に「政府の方針に同調する」と伝え、「田辺、和解へ」と新聞が報道。
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◆1979年1月、広島県労働組合会議がスモン訴訟支援を全国の労働組合に要請。
↓
◆翌1979年にも全国の地裁で原告勝訴の判決が続いた。
2月22日=広島地裁
5月10日=札幌地裁
7月 2日=京都地裁
7月19日=静岡地裁
7月31日=大阪地裁
8月21日=前橋地裁
※しかし、国と製薬三社は前掲「総括」にあくまでも同意できないとし、これら判決に対し控訴した。
◆1979年3月、全国各地に存在するスモン患者の組織を統一「スモン全国実行委員会準備会」が組織される。
↓
◆1979年4月、「スモン被害者の恒久救済と薬害根絶をめざす全国実行委員会」(スモン全国実行委員)が結成され、
@田辺製薬にキノホルム説を認めさせ、和解の席に着くことを認めさせる
A政府提案の薬事二法(医薬品副作用被害救済基金法案、薬事法の一部を改正する法律案)の成立。
等を採択した。
↓
◆1979年5月〜10月にかけて、スモン全国実行委員会が第1次から第10次に及ぶ「スモン全面解決要求行動」を全国的に展開。
↓
◆1979年5月16日、田辺製薬、可部和解の三条件を全面的に認め、437人の和解に調印。
↓
◆1979年6月5日、前掲「薬事二法」が衆議院で修正可決。
↓
◆1979年9月7日、「薬事二法」が成立。
↓
◆1979年9月15日、厚生省・製薬三社とスモン被害者の会などとの「確認書」と「確認事項」が調印。以後この「確認書」に沿って和解交渉、調印がなされていく。
※しかし、「確認書」にみると、その前文には、
「スモンの会全国連絡協議会及びこれに加入する各地のスモンの会並びに各地スモン弁護団と厚生大臣、日本チバガイギー株式会社、武田薬品工業株式会社とは、スモン訴訟の解決にあたり、訴訟が係属する裁判所ごとに、次の条項による和解により訴訟を終わらせる基本方針について合意したことを相互に確認する。
田辺製薬株式会社は、国の指示により、右に同調する」
とあり、田辺製薬一社のみが、自主的判断によって和解の道を選んだのではなく、納得はしていないが国に言われてそうするといった態度であることが判る。
その意志と態度は確認書全編を貫き、田辺は和解=救済に100%納得している訳ではないことを明示している。
※また田辺製薬労働組合は調印後も「〜これによって我が社は真のスモン患者の救済を一段と進めることになったが、今後ともスモンの原因とその発生のメカニズムの科学的究明に努力し続ける考えだ」と、飽くまでキノホルム説が正しいとは思っていないことを表明するという執拗で頑迷な態度であった。
◆1979年10月1日、「医薬品副作用被害救済基金法」(通称・薬害被害法)公布。
その第1条、(目的)には、
「医薬品副作用被害救済基金法は、医薬品の副作用による疾病、廃疾又は死亡に関して、医療費、障害年金、遺族年金等の給付を行うこと等により、医薬品の副作用による健康被害の迅速な救済を図ることを目的とする」とある。
※田辺製薬はこの法律の成立を待っていたといわれる。この法律による国の被害者救済を待っていたというのである。言わば、責任の、もっと言うなら国によるお金の肩代わりである。無論、全額ではないが。為に、この法律はその後「被害者救済よりも企業救済」と指摘された。
◆1979年10月、東京地裁で初の和解=可部和解が行われた。
↓
◆1980年2月から翌年にかけて、「スモンの会全国連絡協議会」は投薬証明の無い患者の早期救済等を求めて抗議行動を開始。
↓
◆1980年6月、東京地裁、投薬証明の無い患者に対し製薬三社が和解金を負担すべきと勧告。札幌高裁でも同様の勧告が出される。しかし製薬三社はこれを無視。
↓
◆1980年11月、製薬三社が厚生大臣に「投薬証明の無い患者についても賠償金を負担する」と回答。しかし、その後、投薬証明の無い原告に関しては司法的根拠のない和解だから賠償金を減額する。さらに弁護団に対し、提訴患者数を6、500人で打ち切るよう要求。その為、1981年に入っても、投薬証明の無い患者への賠償金支払いは進展せず。
↓
◆1981年6月、「スモン薬害被害者訪中団」(総数34名、内被害者12名)が中国へ行き針治療などを受ける。(2回目は同年11月)
↓
◆1981年7月23日、東京日比谷公会堂で「一人の切捨ても許さない、七・二三スモン全国総決起集会」開催。
↓
◆1982年1月時点で、5,249名(提訴患者の84%)の患者と和解が成立。和解金総額1,195億円。
↓
◆1982年3月11日、東京九段会館で「一人の切捨ても許さない・スモン年度内全面解決を迫る三・一一大集会」開催。
↓
◆1982年7月17日現在、全国の提訴済み原告患者数は6,333人。内和解済み患者5,563人。未和解患者約800人。この時までに、国と製薬三社が支払った賠償金は1250億円を超えている。
↓
◆1982年、チバガイギー社がキノホルムの「今後3〜5年後」の販売中止を決める。但し、既に出回っている製剤の回収はしなかった。
↓
◆1983年6月、スモン闘争の記念碑とも言うべき「スモン公害センター」が東京新宿に設立される。
↓
◆1983年6月末現在、
原告患者数 6、402人
スモン鑑定済み数 6、111人(全原告の95%)
和解による解決数 5、968人(同93%)
↓
◆1991年10月1日現在、患者数は疑いを含め11、127人。裁判で補償を受けた人、6,470人、和解総額1,430億円。(厚生省研究班調べ)
《11、127人の内訳》
男性 3、673人
女性 7,434人
都道府県別に見ると、患者数は元々人口の多い東京(900人以上)、大阪(1200人以上)など大都市に多い。発生率は徳島、岡山など西日本に多い。
↓
◆2004年、スモン患者の医療費は「10分の10国が負担する」こととなる。
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◆2007年度の全国検診では、スモン患者の64%が白内障、46%が高血圧、脊椎疾患38%、四肢関節疾患34%、抑うつ等精神徴候53%。
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◆2008年の調査報告。スモン患者数は全国で約3000名。平均年齢は75.7歳、スモン検診受診者の98.6%が何らかの合併症を有していることが判明。
田辺は逃げた。出来るだけ逃げようとした。嘘を作り上げ、人を恃み、策を弄して、可能な限り加害者であることを認めようとしなかった。その悪行は上に書いた以上に頻繁である。学者を使い執拗にウィルス説を強弁、徒に、意図的に裁判を長引かせ、その時間分患者を苦しめた。そして、賠償金の支払いにも抵抗を続けた。武田薬品と日本チバガイギー社が早々とキノホルム説を受け入れ、和解の席に着いたのに田辺ひとりがいつまでも見苦しい態度を見せ続けた。
そこに、薬を作っているという理念は忘れ去られている。人々の幸福と健康と未来に寄与しようという製薬会社田辺の願いを自らの手で黒く塗りつぶして狂った。
何故か。そのひとつに明瞭に会社の規模という現実がある。
日本チバガイギーは年間売上12億ドル(1978年)という世界第三位の多国籍企業であり、武田薬品は日本一の売り上げを誇る製薬会社。それに比べ田辺は売り上げは業界五位だが、借入金が522億円で他の大手製薬会社に比して格段に多く、経営状態は安定を欠き、余裕が無い。言われるままに賠償金を払っていては会社は潰れる。
しかし、そのことで自社の薬で被害者を出したという事実から免れられるものではない。製薬会社として安全な薬を提供することは義務であり、義務である以上それが果たせなかった時の責任は追及されるべきで、その責務は確実に、そして出来るなら早く、良心的に実行されるべきであることは論を待たない。
それは田辺自身が「社会との共存が企業存続の前提であることを忘れません」と言っていることと符合する。
だが、田辺はその前提を忘れ、社会と共存するどころかひとり孤立の道を走った。
しかし、最後には田辺製薬も和解の席に着いた。
起業の理念に立ち返ったのか、抵抗の万策尽きてのことかは判らぬが、企業としての責任を全うする道を選んだ。
そのことで「スモン訴訟」は終わったが、「スモン」は2009年の今も決して終わっていないのである。それは正しく、そして強く言われなければならない!
そして、それを見事に証明してしまったのが今回の事件である。田辺は自ら内に残る、いや、消えることのない企業倫理=経済主義としての「スモン」を再び露呈してしまったのである。
貧すれば鈍す。それは人間だけではない、企業もその不治の病を体の底に持っているのである。だから貧すればそれは出てくる。
いかなる犯罪も万人の願いをよそに無くならないように、薬害も決してなくならない。手を変え、品を変え、顔を変えてまた現れる。それは人間が健康を希い、病気と怪我の治癒を欲し、医療を必要とする以上、「スモン」や「サリドマイド」や「HIV」などの大規模な薬害にはいたらずとも、そこに経済が入るならば、必ずや起こりうる災禍なのである。
それは決して田辺に限らない。
さて、その田辺製薬は現在田辺三菱製薬となっている。その創立の歴史を振り返ってみる。
「田辺三菱製薬」は2007年、「田辺製薬」と「三菱ウェルファーマ―」が合併して発足。
「田辺製薬」こそはこの歴史の発端であり、興業の祖である。一方の「三菱ウェルファーマ―」は2001年、「ウェルファイド」と「三菱東京製薬」が合併してできたものである。
その内、「三菱東京製薬」は1999年、「三菱化学」と1901年創業の「田辺元三郎商店」が「東京田辺製薬」に改名後合併して出来たもので、「ウェルファイド」は2000年、吉富製薬が社名変更したものである。
その「吉富製薬」1940年に創業、1998年に「ミドリ十字」と合併している。
ところで、3月のデータ改竄事件は旧ミドリ十字出身の人物が関与しているのだが、ここで僕が指摘したいのはその「ミドリ十字」である!
実はもう1万字を超えた。
簡略に書く。
「ミドリ十字」は、1950年に設立された「民間血液銀行日本ブラッドバンク」が1964年に商号を変更したものである。
その創設には関東軍防疫給水部731部隊で初代部隊長であった石井四郎(陸軍軍医中将)の右腕であった内藤良一(1906〜1982)が大きく関与している。
御存じであろう、731部隊とは、日中戦争(1937年〜)から太平洋戦争(1941年〜)にかけて、中国で生物兵器、化学兵器の研究の為に信じがたい人体実験を中国人で実行し悪魔の部隊と呼ばれた部隊で、部隊長の名を取って石井部隊とも呼ばれる狂気の軍隊である!
※石井四郎、或いは731部隊に言及することはこの稿を更に長尺にすることになる。大変すぎるので今回は諦める。
その内藤が、石井式濾水器(石井四郎が発明した細菌濾過器)を製作している日本特殊工業社長・宮本光一と元731部隊の班長で右翼系政界誌を発行している二木秀夫の依頼と協力の元、厚生省、日本赤十字、GHQに働きかけて作ったのが「日本ブラッドバンク」である。
時まさに朝鮮戦争の真っ最中。負傷兵の為の大量の血液が商品となり、会社は成長する。しかし、この時の人工血漿装置が非加熱使用であったため後の肝炎や薬害エイズの発端となるという事実がこの時既に胚胎していたのである。
そして「ミドリ十字」に改名。だが、
1967年、臨床試験の際、多数の陸上自衛隊員に急性食中毒を起こさせる。
人工血液製剤の承認を求める為に厚生省に提出するデータを改竄。
その調査の過程で女性患者に未承認の人工血液を投与する人体実験を敢行。
と、次々と問題を起こし悪魔の731部隊の影は払拭されていない。
更に、内藤の死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵が社長に就任するなど厚生省からの天下りが引きも切らず、金の亡者のような役人が跳梁跋扈する会社となっていくのである。
田辺の歴史を振り返って僕が言いたかったことは、2007年10月から新しい歴史を歩み始めた田辺三菱製薬だが、その体内には「ミドリ十字」の血が、つまりは「731部隊」の血が奔流しているということだ。
その流れはどうやったら止まるのか。止めようとする者はいるのか。そしてその流れは枯らすことができるのか。誰が、いつ、どうやって!
僕たちは、それを願うしかないのだろうか。
カミュは言う。
「絶望に慣れることは、絶望そのものより更に悪い」と。

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