『ABCお笑い新人グランプリ』。この番組には格別な思いがある。それは、31回を数えるこの賞の第一回に僕のネタで出場してくれたコンビがいたのだ。そのコンビとは「青芝金太・紋太」
しかし、結果は最優秀賞を「前田一球・写楽」が獲り、審査員奨励賞は「海原さおり・しおり」が獲って、金太・紋太は、我がネタは評価に至らなかった。
彼らが何番目のエントリーだったかは忘れたが、今は亡き福島の朝日放送のABCホールの客席、一番左端(舞台に向かって)の通路で心臓を波打たせながら彼らのネタを見、審査結果を聞いたことを思い出す。
ふたりのネタの途中、「田舎へ帰れ!」と紋太が手刀でツッコミ、それを金太が両手で受け、そのまま4〜5秒何も言わないでそのまま静止するという、奇抜なだけであまり意味のないことを、僕らは面白がって取り入れた。しかし、審査委員長の藤本義一氏が一蹴。無論、それだけが落選の原因ではないが、あの面白さが通じなかったことがとても悔しかったことが更なる思い出となっている。
そして、何回目かから、予選の審査員と番組の構成をやらせて貰っている。自分自身の責任と若き芸人さんへの期待が集約した仕事であると思っている次第だ。
その意識を再確認しつつ、「参考に出来るものならしてくれれば良い!」と、第31回の出場10組のネタに我がまま勝手なことを言わせてもらう!
とは言え、1万3千字を超えた!長いです・・・・
先ず、
@■さらば青春の光(森田哲矢・東口宜隆)■松竹芸能
〜コントである。タイトルは「正門」。
〜朝、正門の前で生徒に声を掛けている先生(東口)とそこを通して貰おうとする生徒(森田)の攻防を描く。
〜しかし、そこは「女子高!」なのである。
〜生徒の欲望は強いと見えて、
・「転校生」を偽ったり
・股に自分のイチモツを挟んで女子だと見せようとしたり
・何故かカバンから「ブラジャー」を出したり
・「妹」をダシにしたり
・「思春期なんです」と訴えたり
〜だが、この生徒それでは済んでいない。
・「生徒手帳を出せ」と言われると、「32歳ですぅ」
・「警察へ電話する」と言われると、「警官なんですぅ」
・「すいません」と土下座で謝ると「全校生徒が見ているからやめろ」と諭されるが、「だからやっているんですぅ」と性癖を露わにする始末。
〜しかし、ここから展開が変わる。
・先ず、先生が「入れてやる」その代わり「トイレにカメラ仕掛けて来い」と言いだす。ところが、件の生徒「もう仕掛けてるんですぅ。今から回収行くとこですぅ」
・更にさっきのブラジャーを出して「これを上げるんで(入れて)」と言う生徒に、「オレ女に興味ない。お前のパンツよこせ」と迫る先生。しかし、生徒は「はいてないんですぅ」「そういう趣味ですぅ」と処置がない。
〜最後には、「興奮してきた、股に挟んでへんバージョン見せろ」と強請する先生に、遂に生徒が「変態―っ!」と走り去る。先生それを追って「そっち女子中や。お前俺とええ勝負やな!」とはける。
▼常に個性的な素材(テーマ)で先鋭的なネタをやるコンビであり、このネタもそれに違わない彼ららしいネタだと見た。
▼しかも、ボケが次々と用意され、それがいちいち予測に反していて、笑いを確実に取っていた。
▼そして、司会の藤井隆の第一声、「ええ第31回、凄いネタで幕が開けました。いや、その勇気、素晴らしいですよ!」が全てだと言えるのでは。
▼つまりは、「下ネタ」であり、学校の周りをうろつく危険な人物を登場させたという勇気への一言であろう。僕の「下ネタ」へのこだわりはさておいて、僕も同感、そして喝采である。
▼しかし、それ故に、このネタでこうした賞レースを勝ち抜こうとするなら、最低限、現状=「そうした人物の存在とそれに対抗する学校側の方策」に対する批判、或いは提案などが、漫才的な笑いの様相を得て取り入れられていなければならないだろう。申し訳ないが、今回のネタは現状の追認でしかない。
▼勿論、「追認で悪いか!」という本人たちの思いがあるかもしれないから言うが、だとしたら、それを気にさせない大爆笑が要るぞと言わせて頂こう。
来年、同じ路線で栄光を!
A■ガスマスクガール(畠山達也・山元康輔)■吉本CA
〜「こわして遊ぼう」という子供テレビ番組が設定のコント。
〜司会進行役の「元気いっぱいハナマル印のお兄さん」を畠山。番組の二つのキャラクター「ねずみのチュー太」と「こまった時のアシスタント・フクロウ君」をテーブルの影から両手で山元がギニョールする。
〜番組のコンセプトは「一生懸命作った色んなものを壊して行こう!」=「自分の中で肥大化していく破壊願望を早く満たしたいッチュー!」である。
〜ということで自分たちで作ったものを素手で、或いは体で暴力的に壊していく!
・段ボールの消防車!
・発泡スチロールと目がペットボトルのふたのロボット!
・ファンからの3人の似顔絵!
〜因みに、フクロウ君は似顔絵の時に登場。フクロウは鳥にあらず、コンビニの白いポリ袋。それにマジックで目と口を描いただけの雑なキャラで、彼だけが大阪弁。
〜そして、何かを壊すたびにお兄さんは「ハッピー!」と叫ぶ。続いて、
・紙コップと段ボールのロケット!
〜これがドドドドッと出発すると、それにつられて操っていた(山元)が姿を現す。これが薄汚い。
〜続いて「高価なモノを壊そうね!」「モノは高ければ高いほど壮快感が得られるんだよ」とお兄さんが出してきたのが時計。しかし「それわし(山元)のやがな!」。無理やりハンマーを持たされる(山元)だが、結局は時計は破壊できない。
〜最後は、「♪壊して 遊ぼう 壊して遊ぼう〜」とふたりでテーマ曲を歌いながら、床に石油を撒き、タバコの火をつけるという態で終わる。
▼「自分の中で肥大化する破壊願望」は審査員にも衝撃を与えていたが、理屈が不徹底な気がした。折角自分が作ったモノを壊すという行為には直接に現代に通じるテーマ性があるのだからそこに(何故壊すのか)(何故破壊願望を持つのか)などについて何らかの言葉が欲しい。そう、考えた時、人間の行為は、或いは歴史は必ずそうなのだ。その代表が勿論、戦争であり、その暗闇が死刑なのだ。
▼そんな大仰な意見はさておき、細かなダメ出し!
――2匹のキャラクター活きているか?あれなら山元自身がキャラになった方が、舞台を更に大きく使えるという点でも良かったのでは?
――「消防車」「ロボット」「ロケット」う〜ん。何かもっとそんなもの壊すかというモノが欲しかった。それが「時計」なのかもしれないが、それはすかしのようなもので、頂けない。
――キャラクターを操っていた山元の現れ方に一考欲しかった。彼が体を出さなければならない必然性ということだ。もし、ロケットを高く飛ばす為に体を表さなければならなかったというなら、彼は黒子の格好であるべきだ。それが素の服で出るならやはり必然性が要る。ネタが緩いと言われても仕方がない。
▼「時計」のくだりは最早番組を逸脱、もしくは無視して行われていて、この番組をどう理解すればいいのか戸惑う。単にふたりの乗りというなら、それが分かるように表現すべきだ。
▼最後は番組のセットをも壊して終わるということなのだろうが、実際は石油は撒けないし、火も着けられないのだから、迫力不足。納得しているのはふたりだけで、他の終わり方を模索すべきでした。
▼かなりきつい意見になりましたが、「破壊願望」は彼ららしくて期待したのだが、もっと繊細に、そして大胆に!
B■プリマ旦那(野村尚平・河野良祐)■吉本CA
〜漫才である。「普段バイトをしているぼくら」「バイト先に友達が来た時の対応って難しい」とミニコントへ。
〜そこからは、(バイトをやっている野村のところへ河野がひょっこり現れる)3連続である。
@コンビニ
Aダイコクドラッグ
B葬式
〜コンビニもだが、特にダイコクドラッグの売り声はいかにも、つまり上手いので会場も爆笑である。
〜そして、その慣れた手つき、動き、声なのに、河野が「ここでバイトやってるん?」と聞くと、必ず「いや」と平然と野村が応えるやりとりに3度とも大きな笑いが起こっていた。
〜3つめだが、予選も含め、これまで僕が見たのは「山あいの工事現場」だったものが今回「葬式」に代わり、更に、その葬式が「亡くなった人を野村が抱きかかえ、その故人の耳元に向かって参列者が声を掛ける」という、シュールなモノであった。
〜そして最後、「バイトをしてる奴をやってくれ」と言う河野に「それはできない。そもそも僕、バイトの経験無いんです」に「んな、アホな!」
▼軽妙で、上手な漫才である。そこに文句は無い。
▼「葬式」も「工事現場」よりは圧倒的に好きだ。只、運びが急過ぎる気がする。無論、考えた結果だろうが、「工事現場」のほうが1本のネタとしての完成度は高く、その分評価も高かったかもしれない。
▼でなければ、「葬式」のひとつ前から、やや匂わせる必要があるのでは。僕なら、「ダイコクドラッグ」を頭に持って来て、2番目に「先生」とか「刑事」とか、そんなバイトある?というのを挟んで、あの「葬式」に行くが、どうだろうか。いや、ちょっと違うか。2番目はやはりバイトの範囲である必要があるか。「調理人」とか「美容師」とかか。
▼そしてオチだ。「バイトの経験が無い」は弱い。というか、「ま、これで終われるか」というような感じがして残念だ。最後まで手を抜かないことが肝要!
C■銀シャリ(鰻和弘・橋本直)■吉本CA
〜このところ安定した定形ネタとなりつつある、いや、なったと言ってよいパターンのひとつの「犬のおまわりさん」。因みに漫才。
〜童謡「犬のおまわりさん」を姪っ子に歌ってあげたけど馬鹿にされたという鰻の訴えを聞いて、橋本がどこがどうか聞いてやるからここで歌え、とネタに入って行く。
〜鰻のボケはイキナリ相当なレベルで発進する。
「♪迷子の迷子の〜」で始まる歌を「♪オ、マイゴッド、マイゴッド!」とやる!なかなかのもんだ。それに対する橋本のツッコミ。「そんな悲しみに暮れて入れへんやろ。ドナドナ以来の衝撃や!」。長いツッコミだが笑いは取る。更に橋本は続ける。「何で、オーマイゴッドて英語で始まってるの。そうなって来ると犬のおまわりさん、アメリカンポリスになってくるから、最終的にワンワンやなくて、バウワウ吠えだすわ!」と、までやる。客は圧倒され、笑うしかない。
〜以下、敢えて特徴的な橋本のツッコミだけを拾う。
「そら当事者的にはそうよ、迷子になってる奴は、オーマイゴッド、オーマイゴッド思ってると思うけど、それ気持ち、出過ぎ、出過ぎ!」
「そら迷子になる。やっぱ親の目が行き届かんからな子沢山。子供ちゅうのは迷子になるぐらい腕白なのが調度いい。調度いいやあらへんがな!(珍しい橋本の乗りツッコミです)」
「どこで迷子になってんねん、それ。博多のお家までは突き止めたの?だぎゃあってことは、名古屋で轢(?、やや聞き辛し)かれてるで!」
「そうなってくると迷子ちゃう、家出とみなします。本人の意思です。捜査打ち切りますよ」
「稚内の若林やん。情報提供いかついな。ゴール近いぞ!」
「子だくさんの話のもうええわ。何で名古屋ばかりで生むの。嫁の実家なの。もしか、いい産婦人科があるとか、名古屋の方に!」
「子だくさんの話、興味無いから。子猫ちゃん。クライング・キャッツですよ!」
「ま、えらい短時間で色々事件起きたな。これ」
「蓄膿のポテンシャルなんか、痴漢の興奮が冷めやらぬのか、何なんそれ!」
〜最後は「こんだけ歌詞間違ってるから馬鹿にされんねん」と言う橋本に再び鰻が「♪オマイゴッド、オマイゴッド」と謝って終了。
▼このシリーズ、最初は「アルファベット」(のはず)。そして「干支をドレミの歌で」。次いで、今回の「犬のおまわりさん」と連続して、しかもその都度面白くなっている彼らのお得意バージョンである。
▼鰻のボケは結構業とらしいのだが、それを気にさせないのは何と言っても橋本のボキャブラリーたっぷりのツッコミであろう。
▼更に、その鰻のボケも、彼のボケキャラが強まるに従って業とらしさが目立たなくなって来ているのだ。ノッテいると言えばノッテいる。練習の賜物と言えばそれでしかないのだろう。
▼次が楽しみだが、このシリーズで何処までいけるのか。問題は彼らがこれで何処まで行こうと、行けると思っているかだ。
D■コマンダンテ(安田邦裕・石井輝明)■吉本CA
〜登場して直ぐ安田が言う「ロン毛とメガネのコンビです」。石井がツッコム「僕がいませんね」。
〜飄々というか、所在無げな漫才だ。無論、それが個性。
〜しかし、操るネタは無限だ。今回はやがて訪れる宇宙旅行から、「火星って何処にあるの?」という安田の疑問に端を発し小宇宙たる舞台袖から大宇宙へと収縮拡散を繰り返す。
〜演出としては安田の「それって何処?」という質問にその位置関係を示すべく石井がその都度舞台上を右往左往する。
〜その安田の質問は、「火星」→「ライオン」→「サバンナ」→「奈良の大仏」→「木星」→「舞台袖」→「心臓」→「コンビニ」を行きつ戻りつしながら、時には舞台上から消えさせてまでして石井を走らせる。智の効いた漫才とも言える。
▼が、問題無しとしない。無論、それは彼らの風貌や体質や話術ではない。ネタの作りだ。
▼安田はいろんなものが何処にあるか、その位置関係が気になってしょうがない男なのだが、その時、「舞台袖」や「心臓」のように、相方の石井がふと出したモノに「それ何処にあるの?」と疑問を差し挟むのは良く出来ていると思わされるのだが、「ライオン」や「奈良の大仏」は安田自身が言い出したことで、それを「何処にあるの?」と石井に聞くのは取って付けた感じで、上手く出来ているとは思えない。ひとこと、業とらしいのだ。
▼それなら、飽くまでも安田が自らいろんなモノを思い起こし、その位置を子供のように、或いは大阪のおかんのように、或いは学者のように知りたくて石井を走らせ続けるか、或いは石井がうっかり口走ったことの上げ足を取って、走らざるをえない状況に陥れるか、徹底させた方がネタのレベルが上がると思う。それはつまり、客の感心を呼び、やっている側の満足度も上がると言うモノなのだが・・・・・
▼次のネタは何の何処にこだわりを求めるのか、期待したい
E■ソーセージ(山名文和・秋山賢太・藤本聖)■吉本CA
〜トリオ、そしてコントである。タイトル「父の背中」。
〜父を秋山。その子供の兄が山名、妹が藤本、という布陣だ。
〜冒頭、兄と妹が子供らしく尻取りをやっている。「リンゴ―ゴリラ―ラッパ―パンツ」。
〜妹が「ツ」で詰まっていると現れたお父さんが「積み木」を提案するが、それは前に出たらしく、ここは「ツクシ」で凌ぐ。
〜兄が「シ」の番だ。「ジ」でも良いだろうと言って「人身売買」。だがそれも前に出たのだ。父親が反応する。兄は「シカ」を繋ぐ。
〜妹が「カ」の番だ。「株主総会」「解散総選挙」「介護問題」「家宅捜索」「駆け落ち」「家庭裁判所」、と立て続けに言うが、全て「言った」と兄に一蹴される。俄然、父親の顔が変わる。実に子供らしくない。
〜「もう無いよ!お父さん、他に‘か’って何かある?」「カニ?」「あ、それまだだ」。
〜遊びと内容の異和感に父が言う、「尻取り、やめようか。もっと子供らしい遊びがあるだろう」と。
〜で、始まるのが「オママゴト」。無論、父の予測を裏切って、或いは観客の期待にこたえて全く子供らしくないママゴトが始まる。
(しがないサラリーマン夫婦のそれでもふたりにはひとかけらの愛は残されているらしい帰宅後の1コマ)
〜その子供らしからぬリアルさに「ハイ、そこまでぇ!」。耐えられなくなって父親が止める!「他にないのか!」「じゃあ、うきうきダンス!」「それいいな、それ父さんに見せてくれないか!」。しかしそれも父親の期待に沿うものではなかった。
〜そこで兄妹が最後に出してきたのが「くだものの歌」。だが兄は「幼稚っぽくっていや」らしい。しぶしぶやり始める兄妹。
〜ここで父親が「お父さんの前に来て聞かせなさい」と舞台中央で客席に背中を向けてふたりの歌を聞こうとする。ふたりはその父に向い合って立つ。つまり、兄妹は客席に正対する。
〜そして「それいけフルーツ」というしゃがれた猥雑な歌が聞えて来る。
♪幾つもの夜 いちご
重ね合ったね ぶどう
罪と知って バナナ
後の祭りさ パイナポゥ パイナポゥ
パイナポゥ パイナポゥ
その繰り返しの中、父が叫ぶ!「育て方間違った!」
▼台本上の運びにほぼ文句や不満は無い。それ故に演出がもっとあるべきでもったいない気がする。もっと遊べば、やってる方ももっと乗れるのにという不足感だ。で、以下は彼らの心算を知らないままの勝手な案である。
@オープニング、椅子が3つ出ている。上手の2つに兄妹が座り尻取りをやっているところに父親が下手から新聞を手に出てきて一番下手の椅子に座るが、それだけだ。一呼吸開けて出て来たことに意味が無い。しかも気になるのは新聞だ。手に持って出て来るのだが、それが演出ではなく都合優先が見え見え。出来るなら、父親側には椅子とテーブルがあるべきだろう。その方が、子供たちの遊ぶ姿を見ている父親としての演技に選択肢が増えるはず。
A父親はもっと動いていいのではないか。子どもたちが子供らしくない、危ない遊びをやっているのにそのリアクションが小さい。勿論、いきなり椅子から落ちたり、転げたりしては過度だが。一発目に新聞を落とすぐらい分かり易い反応を見せてもいいのではないか。どうも、父親が大人しい。子供たちの異様さを表すのは父親がどのくらい衝撃を受けるかだ。父親はもっと驚ろくべきだ。もし、普通の家庭で子供たちがあんな遊びをやったとしたら、普通の父親でももっと反応するだろう。こっちはコントなんだから。
B「ママゴト」が始まる。だが、父親は相変わらず新聞の方に興味があるようでじっと見ようとはしない。尻取りはたまたま子どもたちがやっていたのだから、何となく聞こえてくるというスタンスで良いが、ママゴトは「もっと他に子供らしい遊び」をと父親自身が要求しているのだから、もっと積極的にみる演技でいいはずだ。その方が予測を裏切られた時の反応がやり易く、笑いも大きくなる。
C続きだが、僕なら、そのママゴトの間、父親にイライラしながら子どもたちの周りを回って貰い、ここぞというタイミングで「ハイ、そこまで!」と突っ込ませる。子どもたちの遊びが過激になって行くのに、父親はずっと椅子に、しかも新聞を手にしたまま座っている。もっと、客に(ほ〜ら、今に父親が突っ込むぞ)と分かり易く伝えた方が勝ちだ。
Dそして、「それいけフルーツ」。兄の山名が父親の顔を睨むほどに見ながら歌うのに対し、妹の藤本はそうはしない。そこは演出なのか?ではふたりが違う意味は?きっと、ふたりとも山名のしてるように、父親を凝視しながら歌うぐらいが面白いはずだが。
Eそしてまたまた父だ。その歌を聞きながら秋山はどんな演技をしているかは背中を見せているので分からないが、ここはこのコントで最も笑いが取れる、取らなくてはならないところだ。分かり易く言えば、その予想に反して全く子供らしくない歌を聞かされる破目になった父親の形相は段々と変わって行くはず。その煩悶と苦悶は体にも表れ、肩を震わせ、手や足は怒りと悔恨で痙攣さえ起きそうになり、遂には、耐えられず椅子から崩れ落ちるか、または憤激して立ち上がって叫ぶ!「育て方を間違えた!」と。タイトルが「父の背中」でもあるから最後は父親が客席に背を向けたのであろうが、大きな失敗ではないだろうか。ここに出すの不遜だが、あの藤山寛美大先生なら、ここを逃す筈は無い。顔と体で観客を満足させるに違いない。それ以上の計算はあったのだろうか。
▼無論、そうした演出が‘ソーセージ’に合うかどうかは別だが、彼らの演技力と想像力が十分ならば、僕などが上に書いたことぐらいは疾うにやっているはずだと思う。と、上からな要求を出さして頂いて次を待とう!
F■和牛(水田信二・川西賢志郎)■吉本CA
〜昔話『鶴の恩返し』。「いい話なのでここでやってみよう」と漫才だ。
〜水田が鶴を、川西がお爺さんを演るが、直ぐ交代する。
〜そこからは、水田が、
・鶴が恩返しにくることを分かっていたり、
・お爺さんの食事の方が鶴のそれより良かったり、
・「手羽先が器用なんだねえ」と鶴ありきの発言をしたり、
・好奇心に負けて覗くかもしれないから縄で縛ってくれと言ったり、
・直ぐ好奇心に負けて覗いたり、
・鶴が織った織物に織り方が甘いと文句を言ったり、
・金になるからもっと刺繍とか入れてくれと要求したり、
・極めつけは、金が要るのは、婆さんが死んでから10年、死体を生き返らせようと頑張ってきたが資金が底をついたからだったり、
・しかも、婆さんの死体は水槽に水漬け状態
というボケのストーリーが終始する。
▼しかし、畢竟、オリジナル在りきだ。だったら、何故『鶴の恩返し』なのかを冒頭で明らかにして欲しい。「いい話だからやってみよう」ではモノを作る者として無責任で、不甲斐ない。いい加減だ。
▼そのいい加減さは見事に露呈していて、鶴の鳴き声が「キィキィ」だったり、鶴の織ったモノを「機(はた)」だと言ったりする明らかな間違いを犯している。「機」は織物を作る機械の事で布や反物などではない。下手をすると「機」が漢字でそう書くことさえ知らないのではと疑心暗鬼にさえなる。
▼彼らは、今回これをやることにして、幾らかは『鶴の恩返し』を勉強したのだろうか。程度や量はさておいても何らかの探求なしにこれを扱ったとしたら、原作を、同時に笑いをも舐めてると言うことになる。
▼さて、では勉強だ。『鶴の恩返し』は、助けられた鶴がその恩を返すためにやってくるという昔話で、「おじいさんとおばあさんの娘になる」という話から、「青年の嫁になる」「青年の嫁になり、子どもを授かる」といった話まで様々ある。新潟や山形などの北国が発祥と考えられているが、全国に似たような話が点在しているようだ。
▼『鶴の恩返し』は一般に「何か良いことをすると別の良いことが自分にかえってくる」という子供向けの教訓話であるが、一歩深く、動物を助ける優しさを持ちながらもたった1つの約束(決してのぞいてはいけない)さえ守れない愚かさを合わせ持った人間の、弱く複雑な心理を表してもいる。
▼ところで、『鶴の恩返し』と言えば、木下順二(1914〜2006)の『夕鶴』。これは1949年、木下が東北地方に伝わる民話『鶴女房』に題材を得て、女優・山本安英(1906〜1993)の為に書きおろした戯曲である。初演は昭和24年10月27日。場所は奈良県天理市の「天理教講堂」。当時は物資が不足していた時代で、人々の心は物欲にとらわれてすさびきっていた。まるで人の心を洗うために作られたような「夕鶴」は、その初演で観客に人間性の回復を訴えた。戦後の荒廃期から全国各地の人々の心を洗い続けてきた主人公つうを演じ、木下の、同時に山本の代表作となった。
▼『夕鶴』より、
与ひょう:「あのなあ、今度はなあ、前の、二枚分も三枚分もの金で・・・」
つ う:「(叫ぶ)わからない。あんたの言うことがなんにもわからない。さっきの人たちとおんなじだわ。口の動くのが見えるだけ。声が聞えるだけ。だけど何を言ってるんだか、ああ、あんたが、とうとうあんたがあのひとたちのことばを、あたしにわからない世界のことばを話しだした・・・」
▼「何の報いも望まない」で助けてくれた与ひょうに、愛すらも感じて恩返しにやってきたつう。しかし、村人の欲が与ひょうを変える。物欲に目覚めた与ひょうの言葉は、物欲に拘泥した村人の使う言葉と同じ色と響を身につけて、つうの耳には通じない。その時、与ひょうは無垢なままにつうの世界に住んでいた人ではなくなってしまった。
▼その上で、さて、「お婆さんの死体」をどうすべきか!はたまた、「お婆さんの死体」なのか!
G■カバと爆ノ介(幸内淳・川畑勝徳)■吉本CA
〜改めて紹介しておこう。カバこと川畑勝徳は173cm・130kg。爆ノ介こと幸内淳は181cm・73kg。芸名通りの体躯、そして容貌だ。
〜中身は楽屋での、余り笑いを取れない先輩芸人と後輩もコント。核は先輩が思わず漏らした一言!タイトルは「お兄さん、もう一回言って下さい」
〜舞台を降りて来た先輩が反省する。
「今日もスベッタなぁ。へこむわぁ。芸人辞めて焼き鳥屋やろ。やっぱ焼肉屋にしよ。どうしよかな迷うなぁ」
〜そして後輩と絡みつつ、
「(舞台は)受けたなあ。芸人が一回や二回スベッタぐらいでへこむな。この道一本や思て貫かんかい。今から言う事一回しか言わんからよう聞いとけ。ダウンタウン超えたろや」、とまで言ってしまう。
〜後輩は、先輩の最後の言いも言ったりという言葉「ダウンタウン超えたろや」をもう一度言わせたくて色々と画策するのだが、実はこの楽屋のやり取りがいつの間にかYouTubeに配信されていて、後輩の機械(DVDデッキ?)操作ひとつで、先輩は後輩の思うままにカッコ悪いことを言わせられ続けることになってしまうのだ。
〜最後はYouTubeへのカキコミで終わる。「舞台終わった後の芸人さんてこん感じなんですね」「もう観たくない」!
▼設定やその上での遊びなど、結構「へえ」と思わせられた個性ある、意図的なコントなのだが、このコントの狙い=意図は何なんだろう?
○「ダウンタウン超えたろや」と寒いことを言う先輩芸人の悲しさ、乃至は面白さ!
○もしも楽屋にカメラがあったら!
○映像なんて操作(編集)ひとつでどうにでも出来る!
当たらずとも遠からず。この中にあるとしても、或いはこれ以外だとしても、いずれひとつではないだろう。
▼そして、不明な点がないのではない。
(この映像は誰が撮ったのか?)
(後輩は自分の思うツボのように先輩に何度もその言葉を言わせているが、誰に向けての行為なのか?)
(最後のカキコミの意義は?そして有効か?)
▼結局、「狙い=意図は何だろう」と「不明な点」は重複している。つまり意図は何?と言う問いの答えが、このコントに歴然としていないのだ。
▼但し、そこを明確にすることは下手をするとこのコントを面白くなくする可能性もある。今の不明瞭なままの方が意味ありげでいいのかもしれない。勿論、明確にして、更にこれを超えられるなら、その探求を阻止するものではない。
▼最後に注文をひとつ。ラストのカキコミだが、その前のYouTubeで「ありがとうございました」と言ってしまうものだから、客も、そして司会の藤井君までも終わったと思ってコメントを挟んでしまった。暗転し、時間も空くので誰しもが「終わった」とそう思ってしまったのだ。僕などは「カキコミ」要るか?とさえ思うのだが、あれが必要だというなら演出、やり方に一考を。
H■モンスターエンジン(西森洋一・大林健二)■吉本CA
〜漫才。大林のフリから始まる。
「僕、今、芸人という仕事をやってますけど、本当はするはずじゃなかった。中学校の時、短距離むちゃくちゃ速くて、もう少し練習したらオリンピックも出れるんちゃうかいうとこまで行った。夢を断念したんです」
それを受けて西森が言う。
「断念したんやったら、今日はオリンピック100mの決勝に出て、金メダル取るとこやったらええやんか」
と、大林が選手に、西森が実況アナになってレース開始である。
〜当然、西森の実況がボケとなる。解説が下手だったり、細かすぎたり、余計だったりするのだ。
・スタート前の大林に「この表情、走る気満々です!」
・スターティングブロックの事を「鉄の斜めの金具に足を乗せ・・・」
・着いた手の格好を指して「昔チョキをしております」
・スターターを「白スラックスに赤ジャケットの老人がピストルのオモチャのようなものを・・・」
・「横並びの他の外国人と大林は友達ではございません」
・そしてスタート!「皆さんご安心ください。あのピストルはオモチャです!」
・「やりました大林、金メダルです。日本の観衆のもとへ先程よりも少し速いスピードで・・・」
〜続いて、強引に西森が「槍投げを見ましょう」と勝手に場面転換をする。選手は大林3兄弟の3男ゆずるだ。
〜ここでも、西森の下手で余分で、主観的な解説が付く。
〜最後は、「皆さんお気付きでしょうか、これは僕が相方に言わされているだけです!」「もうええわ!」
▼スポーツ実況も彼らに掛かるとこうなってしまうという、まさにモンスターエンジンならではの、更に言うなら西森ならではのネタである。
▼厳密に見てみると、実は凄い大きなボケと言う訳でもない。西森の表情とあの声に西森自身が面白いと思っているそのノリが出て、それが100%とは言わなくても、80%以上、観客に伝わっているのだろう。
言うなら、売れている者の勝ちという現象だ。それこそは審査員が言うように「安心して見ていられる」ということに繋がる。「売れた者の勝ち」=芸能界の一面とも言えるが、そこまでにしたのは誰あろう、彼ら自身なのだ。
▼だが、そうであるからこそ、僕は不満を持つ。今回僕が一番面白かったのは、槍投げの槍が地面に刺さった時、西森が叫んだ「刺さりました!グサッと芝生に刺さりました!芝生も生きているのにぃ!」であった。
これは細かいとか、余分とか、下手とか言う実況ではなく、実況アナが出来るだけ少なくしなければならない主観だ。だからこそ、それを叫ぶ事が面白いのだから、僕は、西森ならではの主観の叫びをもっと聞きたかった。
大林の「実は短距離が得意」に情けを感じて金メダルのシーンを再現させてあげた西森だったが、結局はそれをエサに、自分のやりたいこと=主観だらけの実況をやっただけだった、というほうが全体の色も出て、モンスター色、というか西森色満開で、笑いももっと大きくなるだろうにと思うのだ。
▼結局は実力を示して、決勝へ進んだが、さらなるモンスターワールドを期待する。
I■ウーマンラッシュアワー(村本大輔・中川パラダイス)■吉本CA
〜このところ彼らの売りでもあり、得意ともする、(困っている中川とそれを助けに出て来るヒーロー村本)という設定のネタだ。今回は「バイトリーダー」。
〜勿論、今回も村本の縦板に水長台詞が炸裂する!
「この俺が夜中に虎視眈々と企んでいる事、それは世界征服でもなく、大統領暗殺でもない。それはバイト仲間を集めてのボーリング大会!バイトリーダーの夢広がり虎彦です。オープニングスタッフ唯一の生き残りです!」
「俺はバイトという世界で生きている。この世界で偉い奴は金持ってる奴でもなく、喧嘩が強い奴でもない。土日、祝日入れる奴!バイトリーダーの夢広がり虎彦です。社員にタメ口使います!」
「俺と言う名のメニューを開いて愛をいっぱい注文して下さい!バイトリーダーの夢広がり虎彦です。バイトで面接任されてます!」
「法律よりシフト守れ!バイトリーダーの夢広がり虎彦です。フロムAのことを聖書と呼んでいます!」
「俺の心の中の呼び出しベルを押したのはお前かい。でも、殺人よりも、放火よりも、強盗よりも、最もやってはいけない事、それは交通費をもらいながら自転車で通う事!バイトリーダーの夢広がり虎彦です。今欲しいモノは愛する彼女と、雇用保険です!」
しかし、パンチパーマと刺青の客には勝てなくて、敢え無く終わる。
▼相変わらずの意図的で、意識的な台詞だ。特に今回は「バイト」と言う設定だっただけに、‘現代と地続きの台詞’が多く、それが共感とともに大受けだった。
▼‘地続き’とは、卑近に言えば‘あるある’だが、現在を描いている=繋がっているというほどの意だ。荒唐無稽や、ウソ話ではないのだ。そして彼らの場合は上に抜粋したものからも判る通り、それがアイロニー=皮肉に満ちている。それを主張などと言うのはお世辞にもならないが、一つの視点はあると見た。僕にとっては好ましく、感心すべきことなのである。
▼冒頭にも書いたが、このところの彼らはこれが専らである。面白いから文句は無いが、さて、この路線はいつまで有効であろうか。ここであの‘笑い飯’と比べるなら、彼らは時に応じて「民俗博物館」、そして「鳥人」と、もう無いのではという懸念をモノともせず、驚くべきパワーを持ったネタを作り得た貴重なコンビである。対するウーマン・・・・果たして?
只、二組の違いは把握しておかねばならない。笑い飯は漫才の構造自体を作り出したのであり、ウーマンは一設定に過ぎない。敢えて言うが笑い飯の仕事の方が大きい。
だから、実は今の路線での次のヒット作は笑い飯より作り易いはずだ――と言っても至難の技なのだが。僭越ながら、その為に動員されるべき要因は、先ずは村本の客観性。そして、今の役割では済まされない可能性を持つ中川を如何に起用するかのふたつだ。
▼しかし、更に僭越を越して言わせてもらうが、それでは所詮は同じ設定の中でしかない。だから、叶うなら、彼らには別の構造を持つ漫才を創出して欲しいと、大きな期待を預けてしまうことになるのだ!
と、1回戦の全ネタを見て来ました。
結果は、ご存知のように、
■銀シャリ
■ソーセージ
■モンスターエンジン
の3組が決勝進出。オメデトウ!(と言っても、もう次の結果も出ています)
決勝は次に回して、一先ずは「第31回ABCお笑い新人グランプリ」でした!
2010年1月25日朝です。

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