既に100日の猶予は過ぎた。そして現体制・民主党は自らの覚悟の無さに悪戦苦闘、いや、泥戦濘闘を強いられている。事態は残念ながら自業自得の極みだ。
それにしても正体がばれるのが早過ぎるではないか、民主党!
国民の信頼も期待も今や三分の一に激減!
「あなたにそんなこと言われたくない」と押し戻していたのも昔日の幻影だ。
いや、政治家という本質は自民党も、民主党も、或いは共産党も変わらないということか。
で、政治家の本質とは・・・・・?
だが、僕も新政権に全幅の信頼と多大な期待を寄せていたわけではない。元々、長期一党独裁よりは短期交代でも二党共立のほうが、権力が生む、或いはそれが生まれながらに持つ悪習や陋習が根付く性癖が随分抑えられるだろうという推測と期待から、この際は是非民主党に頑張って頂ければと、去年の夏、関心注目し、清からぬ一票を投じたのであった。
その悪弊のひとつが、僕が嫌悪し、唾棄すべしと考える‘天下り’である。その完全消滅はならなくても、今回、相当の、いや、それなりか?ともかくはメスが入れられたことは明らかで、民主党せめてもの成果であると、僕もせめて好意的にみる事態なのである。
ところで、その「天下り」に関して、ササイなこと、そして、僕だけかもしれないことだが・・・・
去年のその選挙の頃、その悪習に関して、民主党の主張を捉え、マスコミの多くが「天下り廃止」と言っていた。
僕はその時点で、その姿勢、目線が実は気になっていたのだ。
「廃止」=やめて行わなくすること(岩波・国語辞典)なのだが、「廃止」にはどうも、ルールや制度として定着していたことをやめるというイメージがある。だから、「天下り」に廃止を使うということは、「天下り」は制度として認められていたこととして民主党は考え、扱っているということになる。おかしい!
「天下り」は制度ではない、自民党長期独裁政権が生みだした、保身と増長の産物であり、傲慢下品な業病に過ぎない。それが蔓延し慢性化し悪習となったのだ。勿論、悪臭も芬々だ。
だから、制度ならば廃止で結構だが、悪習は壊滅か、消滅か、撃滅か、殲滅でないと、ね。如何?
但し、それを謳った民主党のマニフェストは正しく「天下りの根絶」であった。要するに、マスコミが‘天下り’を既存の制度と捉えていたのだ。
ま、そこはOKであったとしても、鳩山君も、小沢さんも、自民党と同じ、もしくはそれ以下であることはバレてしまったのだから、残された道はどこで腹を括るかだ。いっそ、名誉挽回に打って出て、アメリカと縁を切るとか!戦後政治の悪習の根源は我が国がアメリカに頼み過ぎた事から来ているのだから、ね、どう?
あの時、戦争に負けた相手が悪かったねぇ。
さて、不満たらたらの前置きはこれぐらいにして、「檜森孝雄」であるが、僕はこの人の事を知らなかった。無論、勉強不足というしかない。
その彼のことが、つい最近、ほぼ同時に二つの方角からやって来た。
ひとつは、2008年製作の松孝次監督の映画『連合赤軍・あさま山荘への道程』であり、もうひとつは辺見庸の著書『美と破局』である。
前者は去年の5月、WOWOWで放送されたものを録画しており、今年になって漸く見始めたのだった。そして、それを見ようと思った一端に、たくらだ堂〜137〜の小熊英二の『1968(上)』がある。
若松の映画の主題でもある「連合赤軍」は「1968年」という“時代”を経て生みだされたものなのである。つまり、小熊英二のその本があったから、若松孝二のその映画を見たのである。
そして、映画の方は「1968年」だけでなく、タイトル通り、連合赤軍の誕生の経緯と、その後、1972年2月、彼らが「あさま山荘」で破産していくまでを描いている。
では、その“時代”の国内の大きな出来事を各年十大ニュースとしてあげてみる。いわば学生運動の背景である。一応10個に限定。順番は事の大小ではなく日付順。
【1968年】
◆マラソン銅メダリスト円谷幸吉自殺(1・9)
◆米空母エンタープライズ佐世保入港(1・19)
◆三里塚で成田空港阻止集会(2・26)
◆日大で20億円の使途不明金発覚〜日大紛争へ(4・15)
◆厚生省、イタイイタイ病を公害病と認定(5・8)
◆第8回参院選〜石原慎太郎らタレント候補当選(7・7)
◆札幌医大和田教授、日本初の心臓移植手術(8・8)
◆飛騨川バス転落事故、死者104人(8・18)
◆メキシコオリンピック開催(10・12)
◆府中三億円強奪事件(12・10)
【1969年】
◆東大安田講堂封鎖解除(1・18)
◆連続ピストル射殺犯永山則夫逮捕(4・7)
◆ベ平連・新宿西口反戦フォークソング集会盛ん
◆日本、西独を抜きGNP世界第2位(6・10)
◆原子力船「むつ」進水(6・12)
◆アポロ11号、月面着陸。人類月に立つ(7・20)
◆大学の運営に関する臨時措置法、強行採決(8・3)
◆映画『男はつらいよ』(松竹)封切(8・27)
◆『8時だョ!全員集合』(TBS)放送開始(10・4)
◆日米、72年沖縄返還を合意(11・22)
【1970年】
◆大阪万国博覧会開会(3・15)
◆赤軍派、日航機「よど号」ハイジャック(3・31)
◆大阪天六地下ガス爆発事故。死者79人(4・8)
◆広島シージャック事件、犯人射殺(5・12)
◆日米安保条約、自動延長(6・22)
◆杉並区都立高校で日本初の光化学スモッグ被害(7・18)
◆警視庁、銀座、新宿などで歩行者天国実施(8・2)
◆厚生省、キノホルムの販売中止を通達(9・8)
◆国鉄「ディスカバージャパン」スタート(10・14)
◆三島由紀夫割腹自殺(11・25)
【1971年】
◆成田空港予定地強制代執行(2・22)
◆天皇皇后両陛下、広島原爆慰霊碑に初参拝(4・16)
◆連続殺人犯大久保清逮捕(5・14)
◆日本医師会、保険医総辞退発令(5・28)
◆イタイイタイ病第一次訴訟、原告勝訴の判決(6・30)
◆マクドナルド一号店、銀座に開店(7・20)
◆岩手県雫石で全日空機と自衛隊機衝突(7・30)
◆ドルショック(8・15)
◆新潟地裁、新潟水俣病で原告勝訴の判決(9・29)
◆過激派による土田警視庁警務部邸爆弾事件(12・18)
【1972年】
◆横井庄一元軍曹、グアム島で発見(1・24)
◆札幌冬季オリンピック開催(2・3)
◆あさま山荘事件(2・19〜)
◆大阪千日デパート火災、118人死亡(5・13)
◆沖縄日本復帰(5・15)
◆日本赤軍、テルアビブ空港乱射事件(5・30)
◆田中角栄「日本列島改造論」発表(6・11)
◆日中共同声明調印。日中国交樹立(9・25)
◆パンダ2頭、上野動物園に(10・28)
◆米空母ミッドウェー横須賀母港化(11・15)
そんな時代でした・・・・・
「学生運動の背景」などと言ったが、学生運動或いは学園紛争の皮相性、流行性をみるならば、如何に彼らが真剣に大人社会を否定し、自分の存在意義を問うたとしても、その運動もまた時代に溶け込み。消えてゆく背景なのであろう。
しかし、背景であれ、仮象であれ、その混沌然の中で学生たちは生き、それを見据えて若松孝二も映画を撮ったのだ。
『連合赤軍・あさま山荘への道程(みち)』!!!!!
しかし、これがまあ、見るにつらい映画なのだ。どんな映画かというと・・・・・
▼先ずタイトル。そして製作。そしてExcuseが出る。
「この作品に描かれた事件や出来事はすべて事実だが一部フィクションも含まれる」
――ここで言うフィクションとは恐らく作中の人物の台詞が、或いはアジ演説の時、或いは総括の時、或いは何気ない会話の時、実際にはそうは言っていなかっただろうという配慮であろう。不要とも言えるが、ひとつのこだわりなのであろう。
▼続いて、もう一回更に大きな字でタイトル。バックの映像は吹雪の山中を拠点とすべき場所を目指して歩む連合赤軍たち。彼らの行く末が混迷と不安に満ちていることを表すか。
▼そして、テロップ。
「一九七二年
かつて日本にも革命を叫び
銃を手にした若者たちがいた」
――やはり、この映画は‘賛・若者’なのだろう。しかし、決して‘賛・赤軍’ではない。
▼次いで、実際の写真やニュース映像を挟みながら、1960年安保から連合赤軍結成に至る間の日本の政治(反動)とそれに反発する学生運動の動きを追っていく。若者たちが立ち上がって、やがて運動が疲弊し追い詰められていく過程だ。ナレーションは原田芳雄。
▼そして1970・7・15 統一赤軍誕生。後に連合赤軍に名称変更。
――二つのセクトがひとつになった。共に過激ではあったが、差異は厳然とあった。だが、連合は成った。トロツキズムの世界同時武装革命の赤軍派と毛沢東主義の反米愛国一国革命論の京浜安保共闘(革命左派)は、赤軍派は資金はあるが武器がない⇔京浜安保共闘は銃器とアジト(山岳ベース)はあるが金が無い、という欠点を補い合いつつ、赤軍派は毛沢東主義を再評価し、京浜安保共闘は反米愛国路線を下ろすことにより、意志統一もなし得て連合赤軍に統合したのであった。妥協の産物と言えなくもない。
そして、彼らは既に相当追い詰められていた。
▼ここからはニュース映像はほぼ入らなくなり、只管、連合赤軍内の葛藤と総括という名のリンチが描かれる。その数14名。
――しかし、その総括の理由が矮小で、個人的で悲しく、腹立たしいのだ。
しかもその指摘の深奥にあるのは、小賢しい僕の私見では、森恒夫と永田洋子の見栄と嫉妬であり、それを隠蔽するべく発せられる理解の浅い教条的な強弁が他のメンバーを圧していくのである。連合赤軍は森と永田の衆愚政治であり、恐怖政治であったのだ。いや、決して政治ではなかったから、共産主義ごっこ、共産主義帝国ごっこだったのだ。
――そして、その殺害方法はおよそ近代的でなく、人手によるものなのだ。つまり、若者たちは、永田と森に自らの手で人殺しを、しかも同胞を殺させられたのだ!
――凄惨というより、馬鹿げている。その馬鹿さ加減が悲し過ぎて見ていられないのだ。そうなのだ、映画だし、演技だが、見ていられない。彼らが愚かしい故に見ていられない。だから、見るにつらい映画を溜息をつきつつ、何度も映像を停止して、都合2週間ぐらい掛かって見終えたのだった。
――そして、14人もの若者が豪も死には値しない理由で犠牲となった。無念にもほどがある!途中、何人かが脱走を図り、地獄から抜け出る。そのシーンでは早く、早く、少しでも遠くへと急き立てる僕がいた。
▼では、映画に描かれた無意味な殺害を追う。日付は死亡日、年齢は享年。
@早岐やす子(21歳)日大看護学院・京浜安保
―1971年8月4日―
脱走により処刑(絞首)
A向山茂徳(21歳)諏訪青陵高校・京浜安保
―1971年8月10日―
脱走により処刑(絞首)
▼上の二つは京浜安保共闘内の殺害で、これ以降が山岳ベースでの連合赤軍の下で行われたリンチである。但し、実際の殺害順と映画で描かれるそれとは多少異なる。
B尾崎充男(22歳)東京水産大学・京浜安保
12・18交番襲撃から逃避したことを問題視され、殴打を受け死亡
―1971年12月31日―
C進藤隆三郎(21歳)秋田高・赤軍派
〜銃の手入れを怠ったこと、付き合っていた女性の処刑を恐れ逃がしたことを総括要求され、メンバー数人に殴られ死亡。
―1972年1月1日―
D小島和子(22歳)市邨学園短大・京浜安保
〜加藤能敬とキスをしたことをとがめられ、殴打の後、野外に放置され死亡
―1972年1月2日―
E加藤能敬(22歳)和光大学・京浜安保
〜総括中に小島和子とキスをしていたことにより、次々にメンバーに殴られる。この時一緒に参加していた二人の弟達にも殴られる。そして小島と共に縛られたまま野外に放置され死亡。
―1972年1月4日―
※映画では、この時、森恒夫が言う。
「総括の限界を超えるために、殴ると言う指導を行う。殴られて気絶すれば、それから目覚めた時、新たな人間となって共産主義化が可能になる。殴ることは指導である。銃による殲滅戦に向けて結成された党を鍛えるのだ」
F遠山美枝子(25歳)明治大学・赤軍派
〜髪を伸ばしていたこと、鏡を見ていたこと、化粧をしていたことなどを永田洋子に敵視され、森恒夫に自分で自分の顔を殴るように命ぜられる。そして縛られたまま狂気を催すうちに死亡。
―1972年1月7日―
※その森の命令はこうであった。
「お前は本当に自分自身を総括出来るのか。できるのなら、自分で自分自身を殴ってみろ。さあ、同志的援助なしにどう総括できるのかやってみせろ!自慢の唇を殴れ!高い鼻をへし折れ!二度と流し眼が出来ないように目を狙え!」
G行方正時(22歳)岡山大学・赤軍派
〜進藤の総括の時の弱腰などを、森に指摘され、殴打の末死亡
―1972年1月9日―
▼ここで森恒夫のメンバーへのアジ演説が入る。
「共産主義化の問題は闘争経歴の長さや、嘗ての問題点の大きさによって問われるのではない。新党結成、殲滅戦の開始へ向けて、自己の共産主義化、革命党化によって評価されるべきだ。我々赤軍派はその意識が遅れていた三人に対し、既に総括要求を終了した。共産主義化は永続的に幾つかの結節点を持って発展するものであり、そこにはプロレタリア的誠実さ、人間性が求められる。我々は更なる共産主義化を推し進める為には、敗北死した六名以上の努力をしなければ勝利しえない」と。
――勿論、この時森恒夫がこう言ったかは映画の中での話で、色んな情報、資料を元にした若松監督のフィクションであろうが、もし、森の言うことが正しければ、共産主義は人を育てないということになる。つまり文化や愛や明日をもである。
H寺岡恒一(24歳)横浜国立大・京浜安保
〜組織を私物化し、利用しようとしたスターリン主義者として死刑を宣告され、殴られ、アイスピックで刺され死亡。
―1972年1月18日―
I山崎順(21歳)早稲田大学・赤軍派
〜寺岡の死刑執行に加わらなかったことを指摘され、スターリン主義者として死刑宣告。殴られ、数人にアイスピックで刺され死亡。
―1972年1月20日―
J山本順一(28歳)北九州大卒・京浜安保
〜(交番?)襲撃の時の車の停止場所の判断が悪いと指摘され、殴打により死亡。
―1972年1月30日―
K大槻節子(23歳)横浜国立大・京浜安保
〜逃亡で処刑された向山と獄中の渡辺との男女関係や、後方活動中にパンタロンを買ったり、パーマを掛けたことなどが永田洋子に第二の遠山であると嫉みを買い、総括として殴られ死亡。解剖の結果、内臓破裂が判明。
―1972年1月30日―
L金子みちよ(23歳)横浜国立・京浜安保
〜永田の嫉みから殴られ、全身打撲で死亡。妊娠8ヶ月。子供の父親はその時一緒にいた吉野雅邦であった。
―1972年2月4日―
M山田孝(27歳)京都大学・赤軍派
〜自動車を修理に出た時、待ち時間に銭湯に入ったことを、森恒夫に咎められ、総括を求められ、凍死。
―1972年2月12日―
――森恒夫と永田洋子の頭の悪さに茫然とすると同時に、怒りを禁じえない。無論、若さだ。狂っていたのだ。真剣ではあったのだ。という声に聞く耳を持たないわけではないが。
▼この頃、脱走者が相次ぎ、ベースも危なくなる。そして森と永田が資金カンパの為に東京へ行く。残った者は榛名ベースを解体してそれぞれの使命を持って解散するが、永田と森を始め殆どが逮捕される(逮捕シーンは無い)。
▼そんな中、警察に発見され、追われることになった「坂口弘、板東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久」の5人が、あさま山荘に逃げ込む。1972年2月19日だ。
▼そこから40分ほどが「あさま山荘事件」。
――この映画における「あさま山荘事件」に、警官は最期の突入・逮捕のシーンにしか出てこない。山荘の周辺にグルリと待機した1100名の警察隊も、1200名を超す報道陣も、あの鉄球を搭載したクレーン車も、その他何十台もの警察車両も機動車も写らない。徹底的に山荘内の人間だけを撮っている。
▼そして10日後の28日朝、機動隊が突入し人質だった管理人の妻の牟田泰子の解放に続き5人は逮捕された。
その逮捕の直前、5人の中で最年少だった加藤3兄弟の末男・元久が泣き叫ぶ!「俺たち、みんな勇気が無かったんだよ!俺も、あんたも、あんたも、坂口さん、あんたも!勇気が無かったんだよ!」と。
――若松孝二がそう言わせたのは、あの無理難題を押し付ける、不毛で度を越した、それ故に滑稽でもある、森と永田の恐怖政治に対する‘勇気’を問題にしたからだろう。若松はこの映画の核を‘勇気’と定めて撮ったということだ。それはこの事件に関わった若者に決然として投げつける若松監督のギリギリの声援ではないかと思う。
――そして、あの総括という名のリンチに怒りと頭の悪さを感じる僕だから、そこに身を投じた者の責任としての勇気を問題にしないわけではないが、僕が考える『あさま山荘への道程』の原因は、既に論評されているように‘若者たちの自己確認’であり、そのオーバーフローがこの救いようの無い喜劇を生んだのだと考える。そして、それを止め得たのは若者の‘勇気’ではなく、僕は彼らの周りにいた大人の‘勇気’ではなかったかと思う。
だが、僕は大人の勇気に期待しはしない。
▼さて、映画は大団円を終えて、翌年の1月1日、獄中で卑怯にも自殺した小心者森恒夫の遺書(?)と森自身が映し出される。
――因みに、森の自殺の報せを聞いて永田洋子は、「卑怯者、自分だけ先に死んで」と言ったそうだ。
▼それに続いて、黒い画面に白字で、生き残った者達の現在の消息が流される。例えば、
永田洋子
二〇〇七年現在、死刑囚として収監中
坂口弘
二〇〇七年現在、死刑囚として収監中
▼そして、一瞬、空港で爆破される飛行機の映像!
恐らく、1973年7月20日のドバイ空港襲撃事件の映像だ。
▼次いで、その後の日本赤軍、連合赤軍の動きを紹介するテロップが横に流れて行く。それが終わると、出演者ロール、スタッフロール・・・
上映時間:3時間10分
さあ、そして、「檜森孝雄」へのもうひとつの途、辺見庸『美と破局』だ。
その映画と同じ頃、僕はこの本を2度目に呼んでいた。そして、その176ページ、「Kよ」というタイトルの一文に至った。相変わらず、賢者の内省と諧謔に溢れ、それは僕には辺見の喜劇作家性とみるのだが、加えて最近は(僕が彼の著書を読みだしのも最近なのだが)死を想定した達観と遺志が匂ってくる文章――そこに、「檜森孝雄」という名前があった。あれ?!この名前、最近どこかで見たぞ?
え、ひょっとしたら、あの映画?
それを確かめるべく、まだHDDに残したままのそれを早送り。最後の赤軍のテロップだ。
一九七二年・五月三〇日
日本赤軍 イスラエルの
テルアビブ空港襲撃
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
一九七五年・八月四日
日本赤軍
クアラルンプールの米大使館占拠
板東國男ら五人を奪還
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
一九八二年・六月一六日
連合赤軍の永田洋子
坂口弘に死刑判決
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
一九八八年・六月七日
日本赤軍の泉水博
フィリピンで拘束
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
二〇〇〇年・十一月八日
日本赤軍の重房信子
大阪で拘束
・・・・・・・・・・・・
そして、その最後、
二〇〇二年・三月三〇日
元日本赤軍の檜森孝雄
イスラエルのパレスチナ住民に
対する虐殺・占領に抗議し
パレスチナの子供たちの
解放を願い
東京日比谷公園で焼身自殺
あった。やっぱり、この映画だった。
最後のテロップなどは、やや流し気味に見ていたのだが、何であろうか記憶の片隅に残っていたのだ。
「檜森孝雄」を調べてみた。
【檜森孝雄】
○1947年、秋田県生まれ。
○秋田県立大館鳳鳴高校卒業後、1968年、立命館大学法学部入学。全共闘として活動。
○1969年1月、東大闘争に参加、安田講堂に籠城し逮捕される。
○武装路線を標榜する「京都パルチザン」に参加、その活動を通じて赤軍派幹部・奥平剛士、重房信子らと知り合いパレスチナ解放闘争に向かう。
○1971年6月、赤軍派メンバー3人とレバノンの首都ベイルートに入る。
○PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と共闘し、パレスチナ民衆と子どもたちの為に救済の活動を続ける。
○1972年、同士(山田修)の死をきっかけに日本に戻り、非公然活動に入る。
○その在日中に、丸岡修と岡本公三をオルグしレバノンへ送り出す。
○以後、日本とレバノンを行き来し、逮捕された日本赤軍の救援活動などを続ける。しかし、日本赤軍に対してはその官僚主義、秘密主義を指摘し批判的であった。
○そして、2002年3月30日、イスラエルの占領政策に抵抗運動を記念した「土地の日」に、日比谷公園で焼身自殺を図る。
パレスティナの方々へ 侵略国家はいらない
シオニズム・シャロンによる侵略と虐殺、そして人種差別に対するパレスティナの人々の抵抗を無条件に支持します。平和的であれ、暴力的であれ、人間の尊厳を回復するための抵抗を無条件に支持します。
解放に取り組むパレスティナの人々は私には近い友人のような気がします。日本は侵略戦争体制を急速に増強して非常に危険な国家になっていますが、侵略戦争の責任を問い日本解放を求める人々がアジアには少なからずいて、私も解放の一端に参加したいと希望してきました。
侵略を既成事実としてイスラエルを認める政治がまかり通っています。特に、パレスティナの人々自身を抜きにして国家の和平が取りざたされる残酷な世界があからさまに現れ、言葉を失っています。高度に発達した科学の世界は古代よりも残酷な侵略と虐殺の時代をもたらしました。人間としてもっとも大事な、痛みを互いに思いやり、分かち合う心が無惨に踏みにじられています。
イスラエルを後押しするアメリカ、その盟友として振る舞う日本への抗議は日本でも小さいながら続いています。シャロンを後押しする側の解体を求めて、その抗議に一人の人間として私も参加します。
イスラエルの解体、全ての侵略国家の解体を!
シオニズムの解体、全ての奴隷制からの解放を!
解放の連帯!
パレスティナに続く海辺で
2002/3/30 土地の日に
ユセフ・桧森
「ユセフ・桧森」は彼の回教徒名であろうか?
これは遺書ではない。「追悼檜森孝雄さま」というサイトに出てくる、彼が何かに書き残したもののようだ。それが何かも判らないが、日付は自殺のその日になっているから、遺書と言ってもよいのだろうが、実は遺書は他にある。これは最期の場所に選んだ、日比谷公園に残されていたものだ。
『まだ子どもが遊んでいる。
もう潮風も少し冷たくなってきた。
遠い昔、能代の浜で遊んだあの小さなやさしい波がここにもある。
この海がハイファにもシドンにもつながっている、
そしてピジョン・ロックにも。
もうちょっとしたら
子どもはいなくなるだろう。』
この檜森の死を、若松は映画の最後に持って来た。ピンク映画の監督で「ピンク映画の黒沢明」ともいわれたが、1971年には『赤軍―PFLP・世界戦争宣言』なども撮っているから、赤軍派へのシンパシーは既に強くあったのだろうが、その配置には何の意図があったのだろうか。
そして、『美と破局』の中、辺見庸が書く檜森孝雄だ。
「Kよ」
〜ここに上記の遺書が引用されている〜
Kよ、檜森孝雄というパレスチナ支援の活動家が焼身自殺をしたことを知っているか。二〇〇二年三月末の土曜の暮れ方、彼は日比谷公園・かもめの広場で、ひとしきり派手な焔(ほむら)のダンスを踊った。智慧の火で煩悩の身体を焚くように。あるいは、老いた魔術師の最期の芸のように、ぼうぼうと燃え、くるくると舞ったのだ。やがて、真っ黒の襤褸か消し炭のようになって、うち倒れた。享年五十四歳。いや、知らなくたっていいんだ。知ったって憂鬱になるだけだし。
(中略)
檜森孝雄はぼくの淡い知り合いの親友だった。たとえようもなく心優しい男だったと聞いた。そのことはさして重要ではない。ハイファもシドンもピジョン・ロックも知らなくていい。自死をぼくは美化しない。
(中略)
檜森の自死にいかなるメッセージがあったか、なかったか、つまびらかではない。イスラエル軍によるパレスチナ民衆虐殺への抗議、米国の暴虐への怒り、日本のファッショ化への絶望。そうした気分がないわけがないし、むろん、それらだけでもなかっただろう。怒りを買うのを承知でいえば、ぼく個人としては、委細は知らぬが、うんころあいだな、とは思った。時宜にかなっている、と。わが身に引きつけるなら、なんのかんばせあって、平気で笑って生きていられるのだ。まっとうなら、とうに死んでいる。ないしは、すでに死んだ生をそれと知って生きている。そう思いなすほかない。Kよ。若い君にとって、檜森の死は、たぶん、遠い遠い芥子粒のような風景であるにちがいない。それはいたしかたのないことだ。世界とは、少なくとも初歩的には、それぞれの人間の個人的事実(事情)からしか眺めることのできない、やっかいななにものかなのだから。多くの人の死や多くの人の死の可能性をよそに、日常を何気なく生きてしまうことで、君がいちいち咎められるいわれはない。ぼくは咎めない。庇う。ただ、ぼくはぼく自身とぼくの世代およびそれ以前から生きながらえてきたこの国の人間の大半を、いま、とても庇う気になれない。いや、世代で断じてはならない。いいかえよう。ぼくはぼく自身およびぼくとともに世界の病に気づき、それを語ってきたのに、いますっかり忘れたふりをしている者たちに寛容ではいられない。彼らのなかにはマスコミ企業の中枢にいる者が少なくない。その者たちは、Kよ、君らが知ろうとしてもなかなかつかめない言葉の、独特の語感を知っている。あるいは追体験的に知っているはずだ。知らないとはいわせない。新聞、通信社、放送局、出版社の社長どもは、もっとよく知っている。翼賛、治安維持法、レッドパージ、転向、裏切り、日和見、反動・・・・・。現在の有事法制も、これらの忌むべき語感系列にある。それを忌み、拒み、抵抗すること。それは、全部ではないがかなり多数のまともな記者やディレクターや職員にとって、かつては常識であった。どうか信じてほしい、最低限の作法でさえあったのだ。逆に、抵抗もしないことは恥とされた。それをいま、年寄りどもは知らぬふりをきめこみ、尻の孔のように薄汚い眼つきをし、臭い息を吐き吐き、経営効率、コストダウン、人員削減、独立採算、販路・部数拡大、視聴率アップのみを呼号し、裏では組合のダラ幹ども(ああ、これも君の知らない語感だね)と下卑た笑いを浮かべて談合をつづけている。有事法制など、どこ吹く風なのだ。Kよ、なぜかわかるか。ジャーナリズムの理想(ぼくは信じていないけど)が本気で称揚されたら、たちまち彼らの居場所がなくなるからだ。ジャーナリズムの理念を裏切りつづけてきた彼らには、本能的にそれがわかっている。だから、理念を嗤い、抑えつけ、どこまでも権力に迎合する。ファシズムの悪水は、政府権力からだけではない、戦前、戦中同様に、マスメディアの体内からも、どくどくと盛んに分泌されているのだ。そのことと檜森の自殺がどう関係するのか、君はいぶかっているにちがいない。Kよ。見えたのだよ。彼の死によって喚起された焔立つ幻視の向こうで、高笑いしている連中の顔が。それはゴヤの一八〇〇年代の版画「妄」シリーズによく似た、鋳つぶしたような人間の顔だった。おぞましい妄の顔、顔、顔。そのなかにぼくのもあったかどうか。あったような気もするし、なかったような気もする。ただ、ぼくは坦懐になった。憎悪の沸点が消え、これ以上ないほど静謐な殺意がぼくを落ち着かせてくれた。檜森の死の風景はあまりにも寂しい。惨めだ。その対極に、底の底まで腐敗した妄の顔の持ち主たちの、下品な高笑いがある。両者は何の関係もない。ぼくが無理に付会しているだけだ。でも、どちらに狂気があるのか、ぼくは考える。どちらが人として真剣に悩んだか。どちらが弱い者の味方をしたのか。どちらが戦争の時代に抗ったか。答えは見えている。Kよ。君よりだいぶ年長の、“気づいている者”には、いま重大な、きわめて重大な責任がある。Kよ。ぼくは君の個人的な事情は大いに認めるけれど、“気づいている”はずの君の上司たちの個人的事情など認めはしない。彼らの嘘臭い憂い顔も、むろん。Kよ。賢い君がいまひどく悩んでいることをぼくは知っている。つらいから、ときに目を閉じ、耳をふさいで仕事していることも知っている。ぼくはもう君に対し過剰な批判はしないだろう。静まったのだよ。火焔の錯視で、かえって平静になった。悩むかぎり、ぼくずっと君の味方だ。君はぼくの味方でなくていい。冒頭の遺書の語感を、君ならばきっと好いてくれるだろう。それが嬉しい。信じられる。
小熊英二の『1968(上)』から、
若松孝二の『連合赤軍・あさま山荘への道程』を経て、
辺見庸の『美と破局』所収「Kよ」までの、
檜森孝雄をめぐる道程
そして、僕が今回、是非載せたかったのはこの「Kよ」である。
無論、辺見は檜森に近かったのだろう。僕は檜森孝雄に全く遠い。
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そして、自殺、自死、自裁、自害、自決、自尽・・・
人の死は檜森の死を見、且つ戦争の死を見るまでもなく、
一切、利用されてはならない。

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