前回は‘おすすめ’だったが、今回はその反対――といっても180度逆ではないが――‘止(や)めて’。
概して、僕は物事の評価、批評に関して否定的だと思っている。その一端はこのブログに幾度も書いている‘お笑い評’を読んで頂ければ判ることだと思う。
その点に関して、僕と真逆の人たちがいる。分かり易いところ、ご存じのところで言うと、マラソンの解説者の増田明美さんだ。彼女は日本の選手であろうと、外国の選手であろうと、彼らの才能や努力を讃え、ゴール寸前まで彼らの奮闘、努力を信じ、そして優勝、そうでなければ入賞、それがだめなら大会記録更新、それがだめでも自己記録更新、せめてなんとか完走と最後の最後まで選手の可能性を言い続けて応援をする。僕にはできない所業である。
無論、僕もお笑い選手を応援しているのである。その時、努力や勉強は当然だと思っており、才能があるなら尚の事、怠けないで上を目指して欲しいし、ないのなら、努力は言わずもがなである。不遜であるが、その努力や勉強の方向性を僕なりに示して評させていただくのだ。
と言うことで、今回は応援の意味も含めつつ‘止めて’である。
一応、その度合いに比例してランキングで発表!(好きやな!)
■10位■午後のテレビ!
〜何時から何時と確定的には言えないが、ま、2時から5時ぐらいの3時間ほどだろうか。その間、平日でいいから、放送を‘止めたら’と思うのである。
〜テレビで飯を食っている僕(100%ではないが)が言うのも自分の足元を掬う愚挙ではあると思うが、必ずしもその時間にやらなければならない番組をやっているとも思えない。勿論やらなければならないテレビ番組と言う課題を、朝昼夜に限らずどの番組がクリアしているかというテレビ論自体が不毛であり、迷宮入りせざるを得ないのではあるが、中には再放送をしている局さえある。
〜実は、嘗て、それは僕が小学生の頃、その時間帯はテレビはお休みしていたのだ。昭和30年代。テレビはまだ創成期で、企業の宣伝体制も今とは比べものにならないくらい貧弱でスポンサーがテレビを今のようには欲してなかったし、またテレビ局自体の人的、或いは機器の容量的に無理だったというような事情もあろうが、午後の数時間、テレビのブラウン管は「砂嵐」か「テストパターン」であった。
〜子ども心には‘テレビがやってない’というのは不満で物足りない事であったが、あれはあれでテレビの前を離れられるという解放感があったのだ。
〜特にここ数年、日本経済の不調に伴って、テレビ局も、番組事情も好況ではない。その間の放送を無くすことは、今どの番組でも行われている経費削減になるのではないか。但しゴールデンとかではないので、製作費の総額から考えるとさ程の効果は無いのかもしれないが、そうした局の経済面だけでなく、見る側にしても、テレビに席巻、いや蹂躙された生活に少しでも猶予と解放を取り戻すということからも、この際、ありなのではないかと思うのである。
■9位■腰履き!
〜男女に限らず、ズボン、いやパンツを腰骨のあたりまでずらして吐くあの‘腰履き’である。どちらかと言うと男子のほうが激しい気もする。
〜で、それを‘止めて’と言うのではない。あれは若者の特権、特性、主張、自己表現・・・・は言い過ぎか。ま、いつの時代にもある若者の流行に乗ることでしか自己を発散できない病気である。ま、大人になれば止めることになる一過性の麻疹(はしか)である。僕も嘗ては長髪にヒールの高い靴、そして裾の広がったジーパンという麻疹に罹っていた。
〜で、止めて欲しいのは、それを法律で禁止しようと言う(バカな)動きがアメリカにあるのだ!それは1カ月ほど前のニュースだったから、それ以後その動きがどう発展したかは追えていないが、そんな無駄、無茶、或いは頭ごなしの無批判は止めて欲しい。益々若者を追い詰め反撥を強めるだけだ。
〜僕の好きな言葉にこういうのがある。「年寄り笑うな行く道だもの。子供しかるな来た道だもの」。説教臭いが、なかなかだ。若者を否定することはその人自身の青春を自ら否定することに他ならない。若者はほっておくに限る。そうすれば結構頑張るのである。ましてや、ズボンをどう履こうと!
■8位■野球中継!
〜プロ野球中継は割と見る僕である。長島世代である僕は、近頃の巨人を100%認めている訳ではないが、巨人ファンである。そこで、巨人が良い勝ち方をした時などは、今やCSでしかやらなくなった『プロ野球ニュース』で、そのダイジェストを楽しむ。
〜そして好きな選手と言えば、長島は別格で、更に今や巨人の選手でない人も入るが、高橋由伸、篠塚利夫、二岡智宏、西本聖、桑田真澄、柳田真宏、そして外人選手では、クロマティ、シピン、呂明賜、李承華。ダメなのは江川卓と渡辺恒雄。
〜それはさておき、止めてと言うのは、あのテレビ中継の時のカメラ割である。カメラ台数の変化(増加)による新しい角度からの画面とかは少しはあるのだろうが、僕にすれば是非見たいシーンを捉えてくれてない!その十年一日的な志向、何に捉われてゲームを楽しめる画面を放棄しているのだろうか。
〜野球中継の基本的な画面は(センター方向から見た投手→打者→捕手→主審)であり、その間に、(打者や投手、或いはベンチの監督の表情など)が入り、後は(打球の行く先)を追うと言うのが殆どを占める。
〜しかし僕が是非見たいのは、例えばランナーが出ている時の選手全体の動きなのである。時に1塁に走者がいる場合など、3塁側からのカメラが投手と盗塁しようとする走者の動きを映し出す時もあるが、大抵は走者の動きより、投手と打者の駆け引きを追い、2塁へ走った走者の動きは再生で見ることになる。僕はそこをバックネット裏からの俯瞰の絵で見たいのだ。投手が投げる、1塁走者がスタートする、2塁手が2塁に入る、遊撃手はどう動くのか、そして3塁手は、或いはセンターは!
〜その全体が見えてこそ野球が楽しく、頭脳的なプレーや、本塁打やゲッツーのような分かり易い試合の行く末を決めたプレー以外の、プロならではの価値ある野球を見る事が出来るのだ!
〜ノーアウト満塁の時とツーアウト満塁の時では野手の動きは違う筈だ。勿論、足の速い選手が走者の時と、そうでない時、テレビカメラがお節介にもここを見てなさいと切り取ってくれる画面の外で、プロの野球は行われているのだ。森達也氏に倣うなら、ドキュメントなのに傲慢な映像を押し付けていることに気が付くべきだ。
〜それを楽しみたいなら球場へ行けという人がいると思うが、あの野球中継よりも傲慢な応援(団)がある限り僕は球場へは行かない。そうだ、あの応援も‘止めて’だな。
■7位■タクシーのラジオ!
〜タクシーに乗った時、そのタクシーがラジオを掛けている時がある。それまで運転手さんが聞いていたんだろう。そして僕が乗り込んだ時、そのボリュームを下げる。運転手さんは自分が聞きたくて聞いていたものだから、客は聞きたいかどうかわからないので音を絞っただけなのだろうが、結果として、その音量は客にとっては非常に微妙なモノになる。恐らく絞ったとしてもラジオに近い彼には十分に聞えているのだろうが、後ろの席の客には例えば、野球中継であることは判るが、対戦チームや得点経過、バッターのカウントまでは判らない。ひょっとすると阪神のゲームであることぐらいは判るが、それ以上はという、極めてイライラする状況となる。それがどうやら対戦しているのが応援しているチームだったりすると、そのイライラは結構なモノになる。
〜それが音楽だとしても、聞きたい歌なのにどうも聞きづらいというようなことになる。トークでも同じような客にとっての不興な事態は起きる。
〜勿論、客が乗って来てからボリュームを下げるという場合ばかりではない。はなから、後ろの席には調度聞きづらいぐらいの音量の時もある。
〜その時、イライラさせられるのも納得がいかないが、更に僕はこうも受け取る。つまり、その時運転手はラジオを聞きながら仕事をしていることになる、と。しかも客を乗せているのだ。在り得ないことだと考える。
〜無論、耐えられなくて「ラジオ、大きくして下さい」と頼むこともあるが、先ず、プロであるそちら側が客に対して配慮を欠いた失礼をしていると気付くべきである。中途半端は是非辞めて頂きたい!
■6位■はたきこみ!
〜相撲の決まり手である。今日はたまたま夏場所の千秋楽(5月23日)だったが――白鵬、が2場所連続全勝優勝を飾った――昨日だったか、NHKのアナウンサーが「今場所は‘はたき込み’が多い」と非難めいて言っていた。
〜僕もその論調に賛成で、前から、はたきなどの引き技やかわり技については、それが多いと相撲が面白くないと思っていたのだ。
〜その多寡は力士個人によるようで、多い人は多く、やらない人は全くやらない。頑張る力士は真面目に相撲界と客のことを考え真剣に体を張っているのだ。勿論、常に前向きに攻めるところにしか出世や栄光は待っていない。小兵でも絶対引かなかった初代貴乃花を見よ。彼はその敢闘精神ゆえに体を痛め、番付こそ大関止まりではあったが、人気という点では同時代の横綱北の湖や輪島を遥に凌駕し、角界を支えた力士だったのだ。引き技の多い力士は魅力も無いが、将来も無いのだ。
〜しかし、それでも勝ちは勝ち。はたき込みで8勝しても勝ち越しは勝ち越しなのだ。が、それに腹が立つ。いっそ、はたき込みを決め手から抹消するか、はたき込み2回で白星ひとつが黒星になるとかにしたらどうだろうとさえ思う。
〜明言する。はたき込みとか引き技は絶対に稽古場で稽古してないはずだ。稽古場で親方や兄弟子が言うのは、「頭から行け!」「前へ出ろ!」「脇を締めろ!」「回しを取れ!」「投げろ!」「押せ!」だ。決して「はたけ!」とは言わないはずだ。なのに何故それを本場所の土俵でやる?解せない。
■5位■子供を起用したCM!
〜それが主役級であろうと、脇役であろうと子供をCMに使うことに疑問を呈したい。
〜何故なら、子どもはその商品の社会的役割や意義を知らないし、それ故に、そのCMの持つ効果や、逆に反社会性などを知り得ないからだ。ひょっとするとスポンサーはちゃんと説明したかもしれないが、そのCMの果たす社会への責任性において子どもたちはそれを負えないだろうからだ。ある子役は言わされている。「減税、補助金も」と。
〜勿論、スポンサーなんて「誰でもCMには出たがっている」と思っている手合いばかりだから、大人にも説明してない可能性はある。
〜何かの商品に欠陥があったり、被害者が出たりすると、そのCMに出ていたタレント、有名人も槍玉に上がったりしたことが、これまでにも数度あったが、大人はそこを問われても、その責任を追及されても、ひとりの人間として大衆にそれを進めた以上当然なのだが、子どもにそれを問うのはやはり違うだろうと思うのだ。
〜同時に、その商品の価値や意義を知らないままCMに出ているということは、大衆を騙しつつ、本人も騙されていると言う構図に他ならないとさえ思う。それはある種の人身売買だ。加担したのは企業と広告代理店と親だ。子供を別の部屋に待たせ、3者が悪だくみをしている絵が見える。中でも親は卑屈だ。
〜しかし、ならばより動物を使ったCMはどうだと言うことになる。動物は絶対に何も判っちゃいない。しかも、CMの中で気持ちよさそうに、美味しそうに、快適そうに見えていても実は違うかもしれない。罪はこちらの方が大きいかもしれない。人間社会の幸福と便利の手先となってCMに出ている動物達を同じ種類の他の動物達が見た時、「金で俺たちの魂を売った奴」とかって思っているのではないだろうか。
〜CMは決して表現ではない。誰かが何かの為に作ってはいるが、それはあからさまに企業のためであり、イコール金のためだ。その金の論理の中に子供を入れることはあってはならない倫理だと僕は思う。放送倫理・番組向上機構、通称BPOなるものがあるが、そこでこんなことは話題にならないのだろうか。
是非、誰か!
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さて、この項は書き始めて2週間以上が経ってしまった。ここで一旦、ブログ内に書きこむことにして、4位から1位は次回へ!
そして、その予告!
4位 二世議員!
3位 余命一カ月の花嫁!
2位 冤罪における証拠開示!
1位 ?????
乞うご期待!
これは全くの私事だが、是非にも書く。
今日5月31日は、高校時代の親友・川尻佳平(かわじりかへい)の命日だ。彼が亡くなったのは、1968年。憧れの北陸の大学へ入った年のこの日、彼は何の悪戯か、不運に巻き込まれ忽然とこの世を去った。18歳。そのまま、若いままの彼に、60の僕はどう映っているのだろう。この含羞、妄執、悪習、腐臭、郷愁、去就、虜囚、恩讐、応酬、老醜、偏執。だが、暫くは生きるしかない。
益田高校の同窓生の皆さん、もしこのブログを見ることがあったら、一時、彼のことを思い出そう。

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