愛と涙と感動の映画『余命1ヶ月の花嫁』!
なのに!僕は何を‘止めて’なのか!!!!!!
――単刀直入に言う。止めて頂きたいのは、この長島千恵さんのような、只管個人的な死を映画などの創作物にすることである。
――敢えて言うならドキュメントはいい。僕はドキュメント信奉者でも、ドキュメント万能論者でも、ドキュメント至上主義者でもない。ドキュメントも創作物であり、主観であるということを認識したうえで、こうした事実をドキュメンタリーとして作り、放送することはまだいいと考える者だ。増してや、今回でもそれは亡くなった長島千恵さんも望んでいたことだ。僕が止めて欲しいのは、このような無辜なる死、無慈悲なる運命を映画にすること、創作物にすることだ。
――理由はいくつかある。先ず、作る側の意識だ。そこには、必ずや「なに、『余命一ヶ月の花嫁』!映画には格好の素材じゃないか!」という製作者の思惑が存在する。それは映画製作の動機の100%ではないかもしれないが、篤志家の自主製作か政府や官庁のキャンペーン映画でもない限り、映画は商売であり、「これはいける!」「これは客が入る!」「これは儲かる!」という読みは働いている筈だ。勿論、この事実を世間に知らせたい、そして乳癌への対処、啓発の映画としたいという思いも何%かはあるだろう。しかし、商売であることは免れない。利益を度外視はできない。その態度、精神、それは死者への冒涜に他ならないのではと僕は考える!
――しかも、千恵さんは映画化を知らないし、当然だが承諾もしていない。
――勿論、生前の千恵さんの、若い人でも乳がんになることを知ってほしい、若い人こそ早期発見に努めてほしいという願いの元に、2008年3月に『余命1ヶ月の花嫁』乳がん検診キャラバンがスタートし、これによって全国で多くの女性が検診を受けたという願ってもない後日談があったとしてもだ。あったとしても、それでもドキュメントだけでいい。事実に創作を加え、もっと観客を感動させようと捏造までして映画を作る必要は果たしてあるだろうか。
――ところで、現実の「死」をテーマにした創作物はこの際映画に限っても少なくない。戦争映画の殆どはそうであるし、戦争映画でも原爆に焦点を当てたものもある。また、死刑や冤罪を描いたものもあるし、医療の問題にメスを入れたものもある。
――しかし、それらにはそれを取り上げる必然性と必要性と、それゆえの意志が必ずある。そして作品にこめられているのは批判、抗議、抵抗、反撥であり、それが冷徹な人間否定と肯定とで描かれている。そこに流れているのは公権力やある種の圧力への闘いの姿勢であり、断固たる抵抗である。それは客観性に支えられた批判精神であり、人間の自由と尊厳の為の闘いの表出でもある。
――それは文芸、映像、美術などあらゆる表現手段である芸術(国家の保護に依らない、そして国家に賞賛されないという条件付きで)と言われるものが既に持っている本質であり、持つことを期待される使命であると僕は考える!おおおお、大言壮語!
――だが『余命1ヶ月の花嫁』は、ここにこんな劇的な死があったと言うばかりである。無論、それに最後まで立ち向かった長島千恵という若き女性の強さや健気さを描こうとしたのだが、その向こうに討つべき相手はいない。権力や抑圧者はいないのだ。只管個人の悲劇があるばかりだ。譬え彼女・長島千恵の、若い人に少しでも乳癌を知って欲しいという願いの為に作られたにせよ、それならば、二度目になるが、ドキュメンタリーこそが担うべき役割だろう。しかも、既にドキュメンタリーはあったのだし、キャンペーンも最初から見込まれていたものではなく、映画完成後に生まれたのである。
――はっきりさせよう。僕にすれば、映画『余命1ヶ月の花嫁』はお涙頂戴映画だ。お涙頂戴映画を作るのは、人を怖がらすためだけにホラー映画を作るのと同様に勝手だし、娯楽として不要だとは思わない。只、実際に在った話をお涙頂戴仕様に仕上げるのは神も許さない悪逆業ではあるまいか!
――願わくば、『余命1ヶ月の花嫁』の事実を超えるオリジナルの物語を考え出して、それをこそ映画にして欲しい!
――但し、‘事実は小説より奇なり’なり。
〜と、映画『余命・・・』を思いックソ否定してきたが、では、その映画を見ながら僕が感じた違和感、抵抗感、反感、等、その時に感じた事を以下に書く。因みに、僕は映画の方を先に見ている。そして、感じた事をここに書こうとして、実際はどうだったのであろうか、もう少し事実を知っておいた方がと思い、ドキュメンタリーを購入、そして見た。
だから以下は、ドキュメントを見ていないまま見た映画の感想、感触である。
映画『余命1ヶ月の花嫁』
Based on True Story
◆冒頭、ある日の千恵さんのブログの中の言葉が1行ずつ現れる。
みなさんに
明日が来ることは
奇跡です
それを知ってるだけで、
日常は
幸せなことだらけで
溢れてます。
長島千恵
◆出会ったふたりは、急激に近づきあう。やがてふたりはひとつのマンションに帰るようになり、料理をし、食事をし、ある夜、街を2台の自転車で疾走する。
――この時点で、僕はこの映画はセックスをどう描くのかなと思った。この日常なら、当然ふたりはそこまでの関係になっている。
――僕は、この映画が事実に基づいている以上、ましてや死を見つめる男女であればこそ、性への衝動は互いの在り方に関わる大きな問題だと考える。故にそこの描写は避けてはならず、どこまで本人達から取材し、どう描くのかを期待した。
――そして、映画スタート後12分、友達と飲んで帰って来たふたりは、服を脱ぐのももどかしそうにベッドに入った。
――勿論、セックスを予測させるには十分なのだが、あっという間に次のシーンに移った。キス(シーン)もない。僕は監督、逃げたと思った。
――ある意味で『余命・・・』は僕には苦手な純愛映画であるが、とはいえ、限度や加減は必要だが、この男女の素直な愛のあり方の帰結としてのセックスを、素直に描写しなければこのテーマの映画としては手抜きだと言われても仕方がないとさえ思う。
――しかし、そこまでのシーンが無いのは、当然、監督がこの映画でふたりをどう描きたいのかという計算、固執があってのことなのだが、僕が考えるのは、その計算=演出が却って彼らの事実への浸食=冒涜になるかならないかという点だ。演出という嘘の使い方である。
――演出と嘘の峻別は恐らく不可能で、お笑いにおいても‘やらせ’と演出の区別と調和という課題として常に生じる重要で運命的なものだが、結局はふたりの性に及び腰ならば、長島千恵の死に対しても同様なのではないかと言う思いだ。
◆ある夜、千恵の髪が抜ける。
――ここに僕はこの映画における役者の限界を見る。当たり前だが、女優の髪は抜けない。抜けたのは小道具だ。勿論、こんなことを言ってはこの映画自体が成立しないことになるが、結局、本人の苦しみを役者は体現できないのだ。女優、榮倉奈々の葛藤は必然だが必要なものかという思い。これはもはや不当で、頭の悪い映画不要論でしかないと思われそうだが、僕が言うのはそうした不要論の一部、この手の実話の映画化不要論である。そこをお忘れなく。
◆次の朝、ふたりが揃ってマンションを出ようとした時、彼の目の前で千恵の髪が抜け、千恵は仕方なく初めて癌であることを告げる。そして知られちゃったから、これで終わり、お別れと言う。しかし、「俺、別れない」と彼は食い下がる。「そんなのあり得ない。変だ。普通じゃない」と千恵は怒る。「普通ってなに!」楯を突く彼。「太郎ちゃん、癌を判ってない」「判ってるよ」「判ってないよ。きっと後悔する」「俺は・・・」「私が、私が後悔することになる。だから、さよなら」。歩き出す千恵。引き止める彼、「千恵、千恵、話ししよ・・・」千恵を追う彼。次のシーンへ。
――恐らく、出勤時間だ。映画ではこのシーンはずっとふたりだけだ。朝の住宅街。出勤の人達は通らなかったのか?と僕は思った。人が横を通ることで、ふたりの会話は変わる。人が通らないことに、作為を感じた僕だ。当然、演出である可能性はある。さあ、その演出だ。演出という積極性で事実を変えるということが、長島千恵の人生と彼女の思いの重みに対し責任ある方法なのかという問いである。
――勿論、そんな事を言い始めたら、このシーンには演出で音楽も入る。屋外で音楽は宣伝カーかパチンコ屋の近くぐらいのもんだ。日常生活にBGMなんてあるはずはないのだが。つまりは何処まで行っても映画だ、作りものだ、だが、敢えてこのテーマを選んだ映画作りで、どこまでの演出で、事実にどう対処するかを言い募っているのだ。底意地が悪いとも、お前が判っていないとも、揚げ足取りとも、思い上がりとも言われようともだ。
〜以下、殆どの僕の意見は同じ根である。結局、この長島千恵の事実を映画にするということを認められない僕からすれば、全ての演出は「感動させる為」のものにならざるを得ない。その作為が無遠慮であり、手前味噌であり、傲慢であり、寒いのだ。
〜いや、それ以前に、この映画と映画化を否定する僕が、作りものの映画の何処を取りあげて演出や作為に文句をつけても、それは映画なのだからそういうものであり、僕のやってることは徒労であり、堂々巡りをしているに過ぎないのだ。
〜だが、その上で、少しでも僕の違和感を判って貰おうと、執拗に映画の中の無理をあげつらう!
◆千恵が左乳房を取る。
――その前夜の彼女自身の胸の内は、男の僕などが最大限の想像力を駆使しても、それを超えるものだったろう。だが、女優は無論、乳房を切り取られはしない。
◆手術後のある夜。映画の中の彼女は鏡の前に立ち、覚悟を決めて胸を見ようとするが、出来ない。
――無論だが、その女優の胸には乳房はある。この越えられない懸隔は!
◆また、手術後のある時、傷心の彼女は嘗て彼から聞かされた屋久島をひとり訪れる。そして屋久島の海岸で、彼女は跡を追って来た恋人に手術痕を見せる。
――その傷は画面にも映される。勿論、作り物だ。ホラー映画なら頭が割れようと、内臓が飛び出そうとその目的や効果に疑問や不満は持たない。いっそ、「良く出来てる」だの、「安っぽ」だの、「リアル」だのと評価さえする。そこには(元々作りもの)という前提があり、(ニセモノ)と(ホンモノ)の彼我の差を面白がる趣向はあっても、問う必要は無い映画の世界なのである。
――しかし、『余命・・・』は女優にニセモノを付けて見せた。底意地の悪い僕は想像を逞しくする。現場で、装着された傷痕をみて出演者かスタッフか、「いい出来だ」「本物みたい」などと言ったのではないかと。その不謹慎は唾棄すべきものだ。ま、粛々と撮影は行われ、誰もそんなことは言わなかったかもしれないが、それを着けて演技をするということは一体どういう気分のものであろうと、皮肉めいて考えてしまう。
――勿論、女優さんは最大限の想像力と集中力で出来得る限りの演技をしようとしたはず。しかし、一体どの時点で「行けます」と腰を上げたのだろうか。そこに、「余命1ヶ月」故の無理はなかったのだろうか。
――そして、この屋久島のエピソードは実際のふたりには無いのだ!手術とは言え、乳房を無くした女性の心情を表すために、案が練られる。
「何処かへ旅に行くのはどう?」
「なるほど。じゃ何処にする?」
「ううん、と、屋久島とか」
「いいね、屋久島。杉もあるし」
と言う会話があったかどうかは知らないが、決して「何処でもいいんじやない」と言うことはあり得ない。計算の上の屋久島である。その計算だ。反撥を感じるのは、僕だけ?僕だけか。
◆医師から千恵の余命は1ヶ月と知らされた(恐らく)その夜。彼が自転車でアスファルトのやや広めの道路を走っていると、後ろから来た自転車が追い越して行く。彼が気が付くとそれは千恵。声を掛けることもしないまま、後ろを走り続ける彼。やがて少し先に行った千恵が黙ったまま後ろ向きにVサイン。そのまま走り去っていく。驚きと悲しみであろうか、自転車を止め、涙のままに任せる彼。
――自転車に乗った千恵。当たり前だが現実に起こったことではない。実は、この映画で唯一明らかに創造であり想像のシーンだ。解説すれば、千恵の余命を知った彼の心の無念、悔恨の思いを表す場面である。タイトルを強調するという狙いもあったのだろうか、監督が事実の中に挟みこんだ極めて物語的な、作為的幻想シーンだ。僕の疑問は長島千恵の死の前にそれが許されるかどうかだ(まただ)。映画だし、作りものだし、そしてそれは監督の作品だから、全責任を負う監督は何をやっても良いのだが、「このシーンは観客を感動させるのに効果がある」と思って作る嘘のシーンとは何であろうか、という問いと怒りである。(またまただ)
〜僕は勝手にこの映画は、ドキュメンタリーを元に、可能な限りの取材をしてそれに基づいて出来るだけ事実に忠実に撮っていると思っていたのだが、上に書いたようにどうやら違うようなのだ。しかし、実は元々監督は挨拶で「ドキュメンタリーをなぞった映画にはしないように」したと語っていたのだ。監督は事実だけでは撮らないと最初っから言っていたのだ。
〜繰り返しになる。結局はここなのだ。僕がひとり合点で、何処を指摘しようと、最初から映画における当為という観点で雲泥万里の差があったと言うべきなのである。
※【当為】=哲学で、あること、あらざるを得ないことに対し、あるべきこと、なすべきこと。
〜結局その疑問、そして差=違いは全てのシーンに付いて回る。論(あげつら)いはまだ続くよ!
◆式の前日の夜。嘗てデート中に店のショーウィンドウで千恵が見つけて欲しいと言っていた指輪を求めて、彼が雨の中を走り回る。そして遂に見つける!
――このエピソード、事実は彼女がブライダル雑誌を見ていて見つけたのだ。それをデートシーンを盛り上げ、雨の中、指輪を探す彼のモチベーションを観客に補完する為にショーウィンドウで見つけたようにしたのだ。つまり、これだ。この嘘に僕は憤嘆するのだが・・・・
◆結婚式から数日後、容態が急変。そして千恵の死。
――勿論、死のシーンこそがニセモノとホンモノの差が最大となる場面だ。
◆そして、彼女の死後、ディレクターから「放送には使わなかったテープです。千恵さんから自分がいなくなったら太郎さんに渡して欲しい」と彼女自身が生前に撮っておいた彼へのビデオレターを渡される。その夜、彼が見る。「太郎ちゃんがこれを見てるってことは、私はもう遠くに行っちゃってるってことだよね」と始まり、屋久島の思い出や、感謝なんて言葉では表せない感謝の気持ち、ふたりが初めて出会った日の事、果たせなかった日常の事、太郎ちゃんとならきっと素敵な家庭つくれたよねと語り、そして最後、「千恵は空の上から、太郎ちゃんを見守っています。じゃあね」とピースサインで終わる。
泣くしかない太郎。
――ドキュメントにはこのテープは出てこない。もしこのシーンが全くの創作だとしたら!その安易と愚弄に、僕のありもしない怒髪が天を衝く!そして、もしこのテープが実在するなら、ディレクターは何故ドキュメントで使わなかったのか!
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そして、129分後、映画は終わる。
この映画のDVDにはメイキングも付いている。監督の意志と発想、スタッフの苦労と努力、俳優の意欲と才能、それらが現場に溢れ、闘っている。羨ましいとさえ見えるモノ作りの現場だ。
以下、メイキングから。
▼撮影開始は八景島シーパラダイス。助監督だろうか、主役のふたりを紹介する。「長島千恵役の榮倉奈々さんです。赤須太郎役の瑛太さんです」拍手が起こる。
▼シーンを、カットを撮り終えるごとに、「OK!OK!」と言う声。笑顔になる役者、そしてスタッフ。
▼屋久島ロケには地元の三味線の名人などがエキストラとして参加する。そして、踊りや演奏の輪に千恵も入り楽しい風景が撮られる。
▼結婚式のシーンの撮影中、千恵役の榮倉奈々が演技ができなくなり中断。そして撮影再開。やがて終了。そして大役を終えてか、感極まって泣く榮倉奈々。
▼千恵のビデオレターの撮影。モニターで見ながら涙するスタッフ。
▼榮倉奈々クランクアップ。助監が声を張る。「長島千恵役、榮倉奈々さん、全編終了です!」スタッフの拍手。笑顔で頭を下げる榮倉奈々。恋人役の瑛太から彼女に花束が渡される。
▼他の役者も次々とクランクアップ。拍手が送られる。
▼そして瑛太クランクアップ。サプライズで既に現場を離れていた榮倉奈々が登場。花束を彼に渡す。笑顔でハグ。
――これらの映像を見るにつけ「これは映画にすべきでない」と言う思いは僕の中で確固としたものとなる。何故なら、僕は常に、そしてせめて僕にできる限りにと、長島千恵の死と、彼女の死への思いを想像するからだ。その想像の中に、映画に行きつく模索、乃至は意欲は決して芽生えることは無い。
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しかし、遂に映画が完成!
打ち上げもあったろう。良かった、良かったと酒を酌み交わす。そしてあちこちで会話が弾む。
「あのシーン大変だったね」
「あの演技いい出来だったよ」
「あのセリフ凄かったね」
「あのカット最高」
「あの小道具出来良かったね」
「また会いましょう」
そうです、そうして、人の死と愛を感動的に描いた良い映画ができました!
これを傲慢と言わずして、何を傲慢と言うのか!
愚かな人間の自画自賛。僕は、この映画作りは喜劇だと思う
それは丁度、死刑判決を出す裁判に似ている。
それは僕が死刑に反対するひとつの理由でもあるのだが、僕は人間はある人間に対して、お前は死ぬべきだ、死んでも良い人間だと判定する能力は持ち合わせていないと思っている。つまりある人間を死刑だと決めることは人間の能力を超えた事だと思うのだ。それなのに寄って集って、ああだこうだ、ああでもないこうでもないと言い合い、挙句、事件の、被疑者の全てを判ったかのように「あなたは死刑だ」と言う。
その力の無い者達が集まって、決められもしないことを、さも正義を行っているかのごとくに相談し、決定する。とんだお笑い草だ。こんな喜劇見たことない!
それと同じように、決して創ることも、演ずることもできない映画を創って、「やったぁ、出来た!」と言い合う。同じく喜劇でしかない!
ひとりの健気な女性の死への闘いを伝えたいなら、是非オリジナルで!或いは実在の彼女のメッセージを伝えたいなら、そして、その素材がある場合には、絶対にドキュメンタリーで!
※ところで、今回のこれは出演した俳優さんたちを否定するものではありません。彼らはプロとして仕事を引き受け、それに臨み、苦闘し、結果を出したのです。それ以下でも以上でもないはずです。
恐らく、俳優とは、それが殺人鬼でも、死刑囚でも、娼婦でも、正義の味方でも、有象無象でも、魑魅魍魎でも、或いは余命1ヶ月の何嫁でも、同じスタンス、同じ積極性、同じプロ根性で挑んでいける人種なのであろう。但し、出来はその都度であろうが。
さてさて、最後にもう一回大言壮語!
もし、こうした事実を映画(創作物)にするなら、唯一方法は喜劇しかないと僕は思う。
死に翻弄される人間、死を恐れ、死に闘いを挑む人間を、愚かな存在、悲しみの生物、無謀な有機体として描く、気宇壮大な人間喜劇しかない。
無論、僕にそんな力は無いが、誰でも悲しい人の死を使ってお涙頂戴映画を作る傲慢さも持ち合わせていない。
しかし!!!!!
もし僕がこのドキュメントを映画にするなら!!!!!
さてこそ、テレビで流されたドキュメントを動物たちか、エイリアンか、何処かの国の飢餓に苦しむ人たちが見ているという映画にしよう!
動物たちは人間の考えや行動、そして死をどう思うのだろう。
宇宙人は地球人をどう理解するだろう。
想像を絶する空腹に喘ぐ人々は最後まで見るのだろうか、そして泣くのだろうか。
そのタイトル、『生きものは死ぬもの』

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